出難いが、出ない訳にもいかない。
たらいの中でうだうだしていただったが、意を決して立ち上がる。
人目はなくとも、低い衝立からはみ出しそうになるのについ腰が引けてしまうのは、仕方ない話だろう。孫策辺り、気配を消して潜んで見せるくらいの芸当はしてくれそうだ。
幸い、衝立の影には人の姿はなかった。
床をびしょ濡れにしてしまうのも何なので、手早く体の水気を拭い、最後に足を拭きながらたらいから上がる。
だいぶ春めいてきたとはいえ、未だ冬の領域を抜け切ってはおらず、肌を刺す冷気には急いで衣服を身に纏う。
長裾を歩いても踏まないくらいに帯で調節して、それでようやく人心地付いた。
牀のある室に戻って、靴下を履くと、逃げ掛けていた湯の温もりが靴下の中に閉じ込められる。
ぬくぬくとした暖かさに、自然、顔が緩んだ。
が、すぐに孫策と凌統を待たせていることを思い出す。
服を着込んだはいいが、髪も梳かなくてはならないし、やることはそれなり多い。
色々疑問に思うことは多かったが、それらを推察する余裕は今のにはなかった。
やっと仕度を終え、扉へ急ぐの耳に、わぁわぁと喚き散らしている二人の声が聞こえた。
次代を担う立場にある孫策だが、良きに付け悪しきに付け配下との馴れ合いが尋常ではない。
辛うじて上下関係は維持しているようだが、甘寧辺りは既に悪友と化していて、とても時期君主とその配下には思えなかった。
それは、軟派に見えて意外と生真面目な凌統であっても同じのようで、漏れ聞こえてくる遣り取りは、仲の良い男連中のそれとほぼ変わりない。
食いたけりゃ、とか、俺にも都合が、とか、捉えられる単語は多くはなかったが、察するところを朝食に誘う話で盛り上がっていると思しい。
途端、孫策及び大喬との爛れた一夜が蘇り、込み上げる苦さには奥歯を噛み締める。
何だってこう、引き摺られやすいのか。
我ながら呆れる話だが、後から悔いても詮ない話だ。
前向きに、これからどうするかを考えなくてはいけないところだが、正直考えようとするのも億劫で逃げ出したい気持ちに駆られるばかりだ。
いっそ、凌統に孫策の相手を託して、窓から逃げてしまおうか。
不遜な考えがチラリと頭をかすめる。
「……?」
と、扉越しに名を呼ばれ、は軽く跳ね上がる。
声が漏れ聞こえる程度の隔たりであれば、気配の一つや二つ、簡単に割れてしまうものらしい。
ただ、この場合、割れたのは気配ではなく己の良からぬ企みに思えて、のちゃちな作りの胆っ玉を酷く脅かした。
逃げ出すことも出来ず、何故か抜き足差し足で扉の前まで進むと、は怖々と扉の向こうへ頭を出す。
扉を盾に隠れるようにしているを、孫策は不思議そうに、けれど無邪気な笑みを浮かべて見詰めていた。
隣に座り込んでいた凌統も、かったるそうに立ち上がりながらを見ている。
こちらは孫策とは違い、酷く訝しげだ。
ひょっとしたら、が逃げ出そうと考えていたことを見抜いたのかもしれない。
更に言えば、こっそり逃げ出そうとするからには、きっと何らかの後ろめたいことがあると踏んだのかもしれなかった。
自分に後ろめたいところがあるからこその思い込みかもしれなかったが、凌統はその辺甚く察しが良く、それも善かれ悪しかれの風情である。
あまり、どころか、絶対に知られたくない。
悪びれない孫策と二人にさせておいたのは、今更考えるだに大失敗だったのかもしれない。
「……何、話してたの?」
何気なくを装って訊ねると、凌統の表情があからさまに強張った。
微かな変化ではあったが、確実だ。
一方の孫策は、大概のことは大っぴらにして隠し事を好まぬ気質ではあるが、いざこのことと決め込むと一切合切抱え込み、表情にすら漏らさない。
見るなら孫策より凌統だと決めて掛かってみたが、当たったようだ。
「何?」
標的を凌統に絞って追及すると、孫策は不思議そうに凌統とを見比べている。
違和感を感じた。
てっきり、昨夜のことを自慢たらしげに話して聞かせていたものと思い込んでいただけに、二人の反応はを戸惑わせる。
孫策ならば、ばらして良いことならヘラヘラしてを懐柔に掛かるだろうし、ばらして良くないことであればこんな風に間抜けにきょとんとしているだけ、とはならないような気がする。
どう受け取っていいのか判断に迷って、は眉間に皺を寄せた。
自分の勘違いであったなら、今ここでこちらから問うのは自爆もいいところのような気がする。
とは言え、から追及しなければ話が一向に進みそうもないとあっては、問い掛けざるを得まい。
どうしたものか。
固まるに、凌統の表情はますます訝しげに歪む。
困惑の中に怒りが散っているように見えて、を悲しくさせた。
久し振りの再会で、もっと素直に喜びたいのに、どうしてこんなことになってしまうのか。
自身に非があるとは言え、あまりな展開に憂鬱になった。
「飯」
唐突に孫策が口を開く。
「大喬が、待ってるからよ。とりあえず、飯。な」
孫策はを戸口の影から引っ張り出すと、追いたてるようにして歩き出す。
下手に立ち止まろうとしても、ちょん、と背中を突かれてしまって前方に転び出る。
二三歩よろけて、体勢を整えようとするとまたも突かれ前方にぴょんと飛ぶ、を繰り返した。
孫策に特に力を入れて突いている様子はないのだが、やはりそこは基礎の筋量の差が物を言うのだろう。また、背中のくすぐったいところを狙い定めるように突かれていることもあり、上記のような状態に陥る次第だ。
滑稽な様に、調子に乗りやすい孫策がおとなしくしている訳もなく、極々自然に興に乗る。
押すのではなく突く方向に完全に切り替えると、は半泣きで駆け出し、それをまた孫策が追う。
他愛のない悪ふざけに、凌統は小さく溜息を吐いた。
結局、孫策にはきちんと話せなかったのだが、凌統がを訊ねて来たのには帰還の報告以外にも理由がある。
むしろそちらの方が重要で、挨拶などはその『用件』をに知られぬ為の方便に過ぎない。
率直に切り出していたら方便も何もなかったろうが、生憎孫策という思わぬ横槍の存在で話も何もなくなった。
ただ、だからと言ってではこれでお流れに、という訳にもいかない。
これは凌統に命じられた正式な任務だった。
と引き離されていた時間は、そういう意味では格好の休暇とも言えた。
どうしているかとふと思い返すことはあったけれど、本人を目の前にするよりは余程気が楽だったのだ。
本人の傍らに在れば、どうしてもが携わる騒動に巻き込まれることになる。
確かに嫌ではなかったが、無論歓待することでもない。
また、という女は騒動を引き起こしやすく、かつ巻き込まれやすい存在だった。
恋愛沙汰のみならず、蜀という国の使者として呉に逗留しているのだからさもありなん。
両国の不和を願う魏からしてみれば格好の狙いどころでもあり、事実本当に狙われ大規模な粛清を引き起こすきっかけともなっている。
孫策に追い回され、けったいな悲鳴を上げて逃げ惑っている女のことだとは到底思えなかったが、事実は覆しようもない。
は、凌統にとって真正面から相手をするにはあまりに重い存在だった。
ともあれ、命じられたように『隠密に探りを入れる』という空気では最早なくなっている。
ひとまず退散と踵を返そうとした凌統に、間髪入れず声が掛けられた。
「お前も、来いよ」
「……は?」
素っ頓狂な声を上げるも、声を掛けた側の孫策は、を連れてさっさと廊下の向こうへ消えようとしている。
凌統の素振りや言葉の端々から何やら嗅ぎつけたとでも言うのか、それとも単なる親切心でのことか、明確な判断が付かない。
何となく、というのが最も相応しい反応だったかも知れないが、それも結局定かでない。
――勝てないなぁ。
悔しくはなかったが、苦笑は漏れる。
しばし悩んだ末、凌統は孫策の後を追った。
満面の笑みで自ら扉を開いた大喬は、凌統の存在に気付くなり露骨な戸惑いを見せた。
来るとは聞いていなかったのだろうが、あからさまに過ぎて苦笑を隠せない。
「……あの、すみません、いらっしゃること伺っていなかったものですから」
急ぎ言い訳でない理由を添えて素直に謝る辺り、大喬の育ちの良さが伺える。
凌統も素直に応じ、急の来訪の件を詫び返した。
大喬は侍女達に凌統の席を用意させると、人払いを命じる。
膳の支度は既に整えられていたが、給仕は大喬自らが当たるらしい。
後継者正妻からの厚遇に、凌統は少々慌てた。
質実剛健に伴うように、ざっくばらんな雰囲気を旨としている呉ではあったが、正妻手ずからのもてなしを褒賞されるでもない一部下が受けるなど、早々あることではない。
凌統が孫策とそこまで親しい訳ではないことは、凌統自身がよくよく知り抜いていた。
目で孫策を伺うと、孫策はなだめ顔で『まぁまぁ』と言わんばかりに笑っている。
我に返って大喬を盗み見れば、大喬はにべったりで、妙にはしゃいでいるのが見て取れた。
対して、はやや困惑したような、腹でも痛いような顔をしている。
両者の間に何かあったのかもしれないが、それにしては孫策が落ち着いているし、むしろそうした二人の遣り取りを微笑ましげに見守っているような節がある。
何をどうしたらこんな状態になるのかと首を傾げるも、どうも上手い考えは浮かばなかった。
ふと、と視線が合う。
転瞬、盛大に逸らされてしまい、呆気に取られた。
隠し事があると素直に吐き過ぎていて、二の句が継げない。
それで、凌統には却って合点がいった。
時を置いて再会した割に、(自惚れが過ぎるかもしれないが)が醒めているような気がしていた。
凌統自身に後ろめたさがあったので、無意識に気にしないよう流していたようだったが、こうなると俄然気になって来る。
恐らく、自身も凌統の態度のおかしさには気付いていないでいるのだろう。理由は、凌統のそれとまったく同じこと、と容易に推測が付く。
の場合、理由は大喬の浮かれ具合と孫策の落ち着き具合に深く携わっていると思われる。
先程、扉の前で待たされた際の孫策との会話を顧みるに、と順を追って考えていく内に、遂に思い付いてしまった。
――まさか。
信じ難い理由に思い至った凌統が、にじっと視線を送る。
気付いたが、目を白黒とさせた上に顔を赤らめたり青ざめさせたりと忙しない反応を見せる。
次いで、大喬に目を転じると、凌統の視線には気付いたものの、一切興味なしとでもいうかのようにすぐさま逸らし、変わらずへ妙に打ち解けた視線を注いでいる。
時折ちらりと凌統を見遣ることもあるのだが、と話したいのに邪魔者が居て話せない、と苛ついているようにしか感じられなかった。
孫策に目を遣る。
すぐさま気付いて、照れ臭そうに(あるいは内心自慢げに)頭の後ろで腕を組み、にやにや笑っている。
ここに至って確信を持つにあたり、凌統はがっくり項垂れた。
大喬がに好意を持っていたのは知っているし、孫策を共有(そんな言い方もおかしいとは思われたが)するに当たって、相手がであれば、否、でなければと念じていたのも先刻承知のことだ。
甚だ邪推めいた話ではあるが、恐らく、昨夜三人の間で何事かあったに違いない。
何事というか、十中八九秘め事なのだが、考えるのも胸糞悪い話ではある。
ない話ではないとは言え、大喬との二人だけでどうこうというのは考え難かったし(何となれば、大喬が望むのはあくまで孫策であって、その人をどうこうではないからだ)、孫策抜きでの話となれば、孫策が大喬との様子に疑念を抱かぬ訳がない。
結果、三人で何かあったのだろうという結論に至る次第だ。
何かというか、十中八九ナニなのだが。
延々と終わらぬ思考に取り付かれ、凌統は苦く唇を噛む。
視線はついついに向けられ、咎めるように睨め付けてしまうのも仕方がないと思われた。
口にしないだけ、優しいと思ってもらいたい。
刺々しい空気を醸す凌統を漫然と見ていた孫策が、不意に口を開く。
「……だから、お前も抱けばいいだろ?」
爆弾発言である。
黄蓋の爆弾が迷惑なのは周知の事実だが、実際に被弾したことのないは今まさにその迷惑さを身を持って知ることと相成った。
と同じく、仰天するあまりに餌を欲する池の鯉と化した凌統に、孫策は容赦なく話を続ける。
「だから、お前もが好きなんだったらいつでも抱けばいいって言ってんじゃねぇか。俺は怒らねぇし……たぶん。まぁ、押し退けるくらいはすっかもしんねぇけど。俺は、が嫌でさえなけりゃ、文句はねぇよ。さっきも言っただろ? そうしたけりゃ、食っちまえよって」
倫理常識の概念から、人道に背く友人に対して反省の念を求めているだけ、とは、孫策には受け取れなかったらしい。
あくまで凌統が嫉妬しているという前提で好き放題言われてしまい、凌統は思わず立ち上がった。
がたん、どか、ばん。
椅子を転がして立ち上がることで凌統を制したが、ついでとばかりに勢い良く机を叩く。
「なっ、なっ、何話してたのよ、何をっ!」
孫策と凌統が廊下で話し込んでいた内容を初めて知って、は火が付いたように怒鳴り散らす。
話はされたが、あくまで拒絶をしていた凌統も、頭ごなしに同類扱いされては面白くない。
「じゃ、あんたは昨夜、何してたんだよ」
勢いのまま問い詰めると、はうっと言葉に詰まり、その傍らで大喬が頬を染める。恥ずかしそうではあるが、それ以上に嬉しそうにも見えて、何ともげんなりさせられる。
呉の中では大喬は極めて常識家と捉えていただけに、凌統の『失望』は並大抵ではなかった。
もっとも、素直に考えるのであれば、大喬は『あの』孫策の嫁なのである。凡庸な常識家で済まされる筈もない。
と凌統は互いに無言になり、場の空気だけがおかしな具合に煮詰められていく。
危うい緊張感の中で、最初に口を開いたのはやはり孫策だった。
「で、凌統。お前、の何を探りに来た」
平然と言い捨てる。
は顔を真っ赤にして怒鳴りつけようと口を開くも、凌統の動揺の激しさに気圧されて口を噤んだ。
さすがに、凌統がわざわざ探りに来たというのが昨夜の話とは思わないし、思えない。
怒気のままに反応し掛けたが、冷静に考えればすぐ分かることだった。
故に、口を噤んで孫策と凌統の遣り取りを見守ることにした。
そんなの様に気付きつつ、凌統はしばらく孫策を睨むように見詰めていた。が、わずかも揺らがない孫策の様に、やがてすとんと体の力を抜く。
敵わない。
元よりそのつもりで凌統を誘いこんだのだと、この時点でようやく気付かされた。
孫策が次代を担うに相応しい器だということを改めて納得し、観念して口を割ることにした。
「。あんたに聞きたいことがある。勿論、答えなくてもいいことだ。無理に訊き出そうとは、俺も大殿も考えちゃいない」
大殿、つまり、孫堅だ。
思いがけない人の名に、も勢い姿勢を正す。
口振りからして、常のおちゃらけた冗談ではないと知れる。自然、顔も引き締まった。
凌統もそれを感じ取ってか、小さく苦笑して緩く頭を掻いた。
「……うん、まぁ、その顔だけでこっちの用事は済んだようなもんだけどね」
知っているのかいないのか。
凌統や孫堅が知りたかったのは、ただその一点だった。
「何が?」
は分からぬまま、問い詰めるように身を乗り出した。
「私が、何を知らないって? ……何を知っているって、思われてたの?」
大喬は不安げにしながらも、そっとの肩を抱き、椅子に座らせる。
もおとなしくその勧めに従い、腰を下ろした。
それを確認して、孫策が凌統を目で促し、凌統も頷いて了承した。
「……今、蜀の船が呉に来ている。交易の船じゃない、れっきとした、正式の使者を乗せた船だ」
ただ、その前触れはなく、乗っているのもただの使者程度の人間ではない。
だからこそがその事実を知っているかどうかの事実確認が必要となり、それで凌統が帰城早々出張って来る羽目になったのだという。
「蜀の? 使者?」
はぽかんと口を開けた。
何も聞いてないし、報せも届いていない。
第一、の元に届けられる指令や手紙の類は元々極わずかであり、交易の船がついでに運んで来てくれる幾つかの竹簡のみに過ぎなかった。
その気になれば検閲し放題だし、そもそも呉に来てからきちんとした指令など届いていない。
諸葛亮から届く竹簡は、精々元気で居るかとか体をいとえとか、居を離れた親族をいたわるような内容でしかなく、指令というより本当に単なる手紙同然だった。
今も昔も、に与えられた指令などなきに等しい状態なのだ。
「え、誰が来てるの。私の知ってる人?」
無意識にか弾むの声に、凌統は内心に沸く苦い気持ちを押し殺した。
の背後に立つ大喬などは、に表情を見咎められる心配がないせいか、思い切り悲しげな顔をしてしまっている。
孫策は、どう捉えたものか、感情が良く読み取れない。
この男がそうした表情を見せるということこそが、ある意味端的な答えと言えたかもしれなかった。
けれど、言わない訳にも行かない。
その使者を誘導してきたのは、他ならぬ凌統だったからだ。無用な嘘を吐いて、要らぬ混乱を招くような真似は出来かねた。
「……蜀の、五虎将軍のお一方だよ」
の表情が輝いた。
ますます渋くなる腹の底を、どうしたものかと凌統は思い悩んでいた。