「五虎将? え、誰?」
目を輝かせるが悪いと言う訳ではない。
がただの女であれば、だが。
「……立場ってものを、考えなよ」
凌統が心底呆れ返ったようにぼそりと呟くと、は一瞬目を丸くし、次いで数瞬悩み、ふと気難しげに唇を噛んだ。
理解する時は、驚く程に速い。
普段の察しの悪さとの落差に、却って苛立ちは募るばかりだった。
孫策は、無言でを見遣っている。
大喬は不安そうにと孫策を見比べている。
改めて、の立場の複雑さを思い知らされるようだ。
友であり情人であり、しかし他国の臣下なのである。
これ程想いを寄せられていながら、けれどいつかは敵対するだろう国に忠実に仕えている臣が、だった。
矛盾している。
何人が理解しているのか考え掛けて、凌統は頭を振る。
意味ないことだ。
ある意味、煙の立つ導火線付きの火薬のようなものだと、分かっていながら望んだのは他ならぬ君主・孫堅であったし、他の男達もまた、主家の一族(この点も甚だ理解し難い)が愛でている女と知りつつ手を出し、それで(も)良いと認められてしまっている。
どうしてこんなことになってしまったのか、考えても原因どころか初期の過程さえ説明できかねる。
何とややこしい話か。
孫堅は収拾を付けるつもりで居るだろうが、どうやるつもりなのかは凌統にはさっぱりだ。
あるいは……考えたくないが……どうするつもりも、ないのかもしれない。
「公績」
声掛けられて我に返る。
出口なき思考に嵌っていたと覚られたくなくて、凌統は素知らぬ風な顔を作ってに向き直る。
幸い、が凌統の困惑に気付いた様子はなかった。
「孫堅様、何て?」
「別に」
凌統は軽く肩をすくめておどけて見せるが、の表情は晴れない。
だが、これに関しては嘘はなかった。
相手はまだ上陸もしておらず、未だ水面の上だ。
通常の交易船や蜀の文官であればともかく、武将、しかも五虎将の内の一人を使者として立てて来たとあっては、話ががらっと変わる。
武将はまま、武の、戦の象徴である。
国元に在れば頼もしい守護者であろうが、他国に来たとなればそれは侵略の二文字を疑わざるを得ない。
ましてや、五虎将である。
武の粋と言って差し支えない将の前触れなき訪問とあっては、身構えない方が嘘だ。
ただ、今回はそうと言い切れないというか、言い切ってしまうにはどうにもし難い展開を踏まえてのことだったので、呉の内々でも相手の真意を憶測して少々揉めている最中だった。
そういう諸々の事情が複雑に絡み合って、お出迎えの準備の為少々お待ちいただく、と言う名目で、態良く放置させていただいている。
文官の中には、またぞろを引っ張り出して舌戦を求めたがっている節もあった。
孫堅は埒外の混乱が起きることを憂い、凌統に事情を探りがてらの護衛に出向くよう命じた、というのが、事の真相だった。
はしばし悩んでいたが、顔を上げると極々自然な疑問をぶつける。
自然というより、基本と言っていい。
「……で。ぶっちゃけ、ホントに誰が来たの?」
正にぶっちゃけた。
結局、孫堅の一声で議論という名の混乱を収めた。
話はだらだらと長引くばかりで一向に収拾が付かず、孫堅が痺れを切らした形だった。
何せ着いた船はわずか一隻、ここで下手に騒いでは尚武を尊ぶ呉の名に傷が付くと怒鳴られては、誰にも反論できなかったのだ。
呉の港を目の前にしながら、水面で丸一日待たされた蜀の使者達にこそ、いい迷惑だったろう。
それでも、後で聞く限り蜀側から文句が出ることはまったくなかったということだったから、自分達の非は弁えていたのかもしれない。
名目上とはいえ、表面的には穏便に、和やかに使者は迎え入れられた。
とは言え、が使者の出迎えに向かうことは許されず、室で待機しているよう厳命が下っている。
と共に二喬が控えていたが、これは二人が気を回したからではなく、孫堅から命を受けて見張りの任務に就いているからだった。
今日ばかりはから距離を置き、申し訳なさそうに肩をすくめ視線を逸らす二喬に対し、も敢えて話し掛けようとは思わない。
こういう時、改めて敵同士なのだな、と実感する。
どうしても、何をしても、相容れることはないのだろうか。
同性という壁を越え、また、孫策を介したとはいえ、ほんの二三日前に肌を合わせたにも関わらず、今の大喬は遠い。
抱く、抱かれるという行為は、所詮はそんなものでしかないのか。
成程、虚しい。
暇を持て余して埒もない考えに耽っていると、扉の外から声が掛かった。
本日のには二喬のみならず、衛兵まで付けられている。
自分の非力さは知っていように、念の入ったことだ。
――いかんな。
考えること考えること、片っ端から陰気である。
ひがみっぽさに磨きが掛かっているようで、尚憂鬱に駆られた。
「大姐」
衛兵から何やら耳打ちされていた大喬が振り返り、を見詰めている。
どうやら使者との面談が叶うらしい。
小喬もまた、姉の横で不安そうにを見ていた。
そんな顔をされると、こちらが悪いことをしているような気にさせられる。
笑おうとするも、何処かに引っ掛かったようになって苦笑い止まりになってしまった。
軟禁自体に文句がある訳ではない。
会いたいのは会いたい。
けれど、会いたくないと言えばそれもまた事実だ。
だから軟禁されて有難い……とは言い過ぎにせよ、目を吊り上げて苦情申し立てるつもりは更々なかった。
使者来訪の理由が分からないからこそ、の感情は複雑に揺れ惑っている。
「……孫堅様が、お呼びだとのことです」
会える。
ぱっと浮き上がる気持ちが、転瞬鉄の鎖を掛けられたかのようにずぶずぶと沈み込む。
でも、会いたくない。
「……様?」
もう一度笑おうとして、また苦笑いになった。
「うん、行きます」
行かない訳にはいかなかった。
二喬に連れられて向かった先は、広間だった。
宴という雰囲気ではない。
時折擦れ違う家人からは、ぴりぴりと尖った空気を感じた。
あるいは、がぴりぴりしているからかもしれない。
緊張からか、足は震え、心臓がばくばくしている。
何しに来たのだろう。
ずっとそのことを考えている。
もしや、と考え掛け、同時にさもありなん、と、そんな筈が、と考え込む。
落ち着かない。
懺悔して済む話ではない。
しかし、そんなに気にしなくてはならないことなのだろうか。
気にするべきだ、でも、否、と考え続けて、仕舞いには吐き気を覚えるに到った。
その感覚が、かつての記憶と重なる。
「大姐」
気が付けば、足が止まっていた。
「……室に戻られますか?」
顔色が酷く悪い、と大喬は心配そうだ。
小喬も、無言でを見詰めている。
「……いや、うん」
どっちだ。
自分で突っ込んで、茶化す。
深呼吸した。
「……行く。行きます」
会いたいけれど、会いたくない。
難しい。
は努めて意識して、足を上げ一歩前に進んだ。
ずしりと重い。
悲劇のヒロインになるつもりはないんだが、とは眉を顰める。
こういう時、では悪いのはいったい誰になるのだろう。
両開きの扉が恭しくまた大きく開かれ、扉が開くと共に二喬が脇に控えたので、中に居る者達からはの姿のみが丸見えになる。
思わず『晒し者』という単語が頭に大きく浮かび上がり、口元は勝手に引き攣った笑みを作った。
度重なる経験から、人間は窮すると笑ってしまうものだと分かっているが、今回ばかりは笑ってはいけなかった気がする。
広がる視界には、幾人もの武将文官が立ち居並んでいた。
にも関わらず、埋没することもなく、どころかの視界を一人で占めてしまう。
その出で立ちと周囲から浮き上がる彩が、彼の存在を一際鮮やかに見せることもあっただろう。
彼の立ち位置が、ぽっかり空いたようになっていることも、目立つ理由には当てはまる。
しかし、何より彼を引き立たせているのは、彼自身の持つ『華』に他ならない。
西涼の錦とその名も高い美丈夫は、呉の地に在っても変わらぬ存在感だった。
懐かしいその背がくるりと振り返る。
瞬時に不機嫌そうに唇を突き出した辺り、の微妙な引き攣り笑顔を認めてに違いない。
やはり、笑ってはいけなかったのだ。
「孟起」
ぽつりと、朝露が零れ落ちるようにその字を呟く。
と、馬超はふいっと前に向き直ってしまった。
聞こえた筈だ。
よしんば聞こえずとも、から目を逸らす理由にはなるまい。
ならば、馬超は知ってしまったのだろう。
誰が父親かも分からぬ子を孕み、流してしまったを、馬超は厭っているだろうか。憎んでいるだろうか。
少なくとも、これまでと同じようには想ってくれまい。
体の芯が酷く冷たく感じられた。
空中で放り出されたような、不快感を伴う浮遊感に眩暈を感じて立ち尽くす。
は必死に、ただ倒れぬようにするしか出来なかった。