「控えられよ」
 ぴしり、と軽く鞭当てられるような声が響く。
 はっとして顔を上げたの目に、困り顔の馬岱が映った。
 恐らく、馬超の脇に控えていたであろう馬岱にまったく気が付かなかったらしい。
 何とも申し訳ないような気がして、は唇を緩く噛んだ。
 馬岱は、をなだめるように微笑むと、その場で踵を返し孫堅の座す上座の方へ向き直る。
「申し訳ありません、殿の顔色が酷く悪く見えましたもので……我らの職務に関わることでもあり、足が動いてしまいました」
 頭を下げながらも、周瑜にちらりと顔を向ける。
 先程控えろと言ったのは周瑜だったのだろう、あからさまな視線を向けられ、やや不機嫌そうだ。
 この遣り取りで、は本当の意味で我に返った。
 今の自分の立場を思い出したのだ。個人の事情にこだわって居る場合ではなく、この状況を『蜀から同盟国呉に遣わされた使者』として、取りまとめるまではできなくとも穏やかに終わらせる努力はしなくてはならない。
 まだざわめく胸の内を拳で抑え付けるようにして、は辺りを見回した。
 孫堅は、面倒そうに軽く手を掲げて馬岱に応えている。
 同盟国よりの使者を迎える君主としては、どうにも態度がよろしくないが、は却って落ち着くことが出来た。
 孫堅の目が、本当に面倒そうに曇っていたこともある。
 ならば、恐らくこれは孫堅にとって『あまりに意義のない』会見なのだ。
 国の進退が掛かるような会見であれば、孫堅がこのようにだらけて居る由はない。
 だらけて見せてその実、ということもあろうが、そうであるなら孫家の男達に特有の目の光の強さだけは消しようもない筈だった。
 それは、(言っては何だが)自身が最も良く知るところである。
 以前、を見詰める孫堅の目は、軽快な口振りとは裏腹に相手を竦ませるものだった。
 あれはつまり、孫堅がを得ようと本気になっていた証なのだろう。
 目は口程に物を言うと言うが、孫堅のそれはある意味露骨だ。
 その孫堅の脇に控える孫策が仏頂面をしている(戦時にそんな不景気な顔をする男ではない)し、孫権が酷く立腹している風なのは気になるが、とにかく『いざ開戦』という事態には至っていないようだった。
 とは言え、詳しい事情が分からないのは変わりない。
 誰か教えてくれないだろうかと視線を巡らすも、周瑜は顔をさっと背けてしまうし、陸遜は何やら複雑そうな目で、逆にに何事か訴えているかのようだ。
 他の者も大同小異の反応で、目を逸らすか注視するか、どちらかでしかなかった。
 唯一、張昭のみはの視線を受け止め、気の毒そうに微笑み返す。
 が視線を止めて張昭を見詰めていると、張昭は困ったように髭を撫でながらも、思い切ったように咳払いを一つした。
「差し出がましながら、馬超殿に伺いたい。その、殿は、此度のことを了承して居られるや否や」
「了承など必要ない」
 張昭の言葉尻に乗るように、馬超はえらくきっぱりと言い切った。
は、俺のものだ。俺のものに俺のすることへ文句など、言わせぬ」
 どよ、と、場が低く重くどよめいた。
 は、眩暈を感じて眉間に皺を寄せる。
 先程の、体の芯が冷たくなるようなものではなく、馬鹿過ぎることを聞いて頭痛を起こしたような時に感じる、あの眩暈だった。
 こんな場でそんな喧嘩腰で話していたら、命が幾つあっても足らないだろう。
 けれど、同時に胸がどきりと高鳴ったのも事実だ。
 見捨てられていないのだろうか、という生温い期待が沸き上がっていた。
 そんなことはない、いや、でも、もしかしたらと心は揺れ惑った。
「……っ!!」
 挙動不審なの姿が、孫権の目に止まったらしい。
 それまで腸煮えくり返る思いで立ち尽くしていたらしい孫権には、のうろたえようがいい起爆剤になってしまったようだ。
「今の、この男が言ったことは、真のことか!!」
「失礼ながら」
 ひんやりとした冷気を纏った硬質な声が、孫権に向けられる。
 馬岱だった。
 周囲がやや怯んでいるように見えるのは、気のせいではなかったろう。
殿は、形はどうあれ我が蜀よりこちらに遣わされた、正式な使者。その使者を掴まえてそのような振舞い、例え君主一族に連なる方といえど、無礼でありましょう」
 連なるどころか直系なのだが、馬岱はそんな言い方をする。
 余程腹に据えかねたのか、あるいはそれも手なのか、には量りかねる。
 ただ一つ言えるのは、武にのみ走りがちな馬超を諌めつつも信を得、支え続けて来たのは馬岱であり、その手腕と馬超への忠誠には並々ならぬものがある、と言うことだけだ。
 嫌みはきついが至極正当な意見だっただけに、孫権の感じた屈辱は相当なものだったらしい。
 顔を真っ赤にして、目は爛々と輝いている。
 恐ろしいが、美しくも見える。
 強い目の光は孫家の特徴でもあるが、特に孫権はその目の色が青から紫にわずかに変化するという特徴があり、その紫を帯びた青い目を、は怖いくらい美しいと思う。
 過去に間近で幾度か見た色であり、そのほとんどは組み敷かれてのことだった。
 改めて、自身の立場を省みる。
 異様だ。
 ここに立ち居並ぶ将達の中、肌を合わせた相手の数は一人二人ではない。
 口付けた相手をも含めて数えれば、もっと多くなるだろう。
 誰の時でも、は本気で拒絶した覚えがない。
 そう考えるならば、異様なのは呉将達ではなくの方だった。
 こそが異様で、異質だ。
 何がどうであろうと、受け入れてしまっているのは事実なのだから。

 声掛けられて、また一人思索の海に漂ってしまっていたことを知る。
 有体に言えば、ぼぅっと放心していたということで、恥ずかしいことこの上ない。
 声を掛けた孫堅は、頬を赤らめて俯くを薄く笑って見ている。
「……体の具合が優れぬと言うよりは、何事が起きているのか分からず困惑している、というところだろう。本当に、何も聞いていないらしいな」
 何をだ。
 むっと唇を尖らせたに、孫堅は苦笑して馬超を見遣る。
「何も知らぬでは、話になるまい。今日はこのまま、室に下がって話をすると良かろう」
「父上」
 孫権のみならず、集った臣達からも不満げな声が漏れた。
 しかし、孫堅が一瞥するや否や、その不服も影を顰める。
 大した統率力というべきだった。
 蜀、または劉備にはない毅然とした規律に、馬岱のみならず馬超も何がしか感じるものがあったらしい。
 ゆっくりとではあるが、拱手の礼を取った馬超の姿に、場のざわめき以上に胸をざわめかす沈黙が落ちた。
「気遣いに、感謝する」
 孫堅は馬超の感謝には反応を見せなかったが、代わりに臣下の列に並んだ凌統に指示を出す。
「凌統、使者殿の世話は、お前が責を持ち丁重にもてなせ」
 え、と驚きに目を見張った凌統は、瞬間嫌そうな表情を浮かべ、次いで悟ったような諦め顔で拱手の礼を取った。
 さっさと歩き出すと、無作法ながらついっと手を差し伸べて、馬超らに出口を示す。
 凌統に指された扉が開き、凌統は率先して扉を抜けた。
 おろおろと立ち尽くしていたの脇を、馬超がすっと擦り抜ける。
 ずし、と心に重りが落ちた。
 涙を滲ませるの腕が、ぐいと背後に引っ張られる。
 馬超は、擦り抜けると同時にの腕を捉え、引き摺るのも構わず凌統の後を追っていた。
 転び掛けるを、すっと支えて重心を取らせてくれたのは、他ならぬ馬岱だった。
 周囲からは、触れたかどうかも分からなかっただろう。
 礼を言いたいところだが、胸がつかえたようになって声が出ない。
 けれど馬岱は、お気遣いなくとばかりににこりと微笑んだ。
 どうしようもなく、馬岱だ。
 話には聞いていたけれど、実際に姿を見て尚、何処か信じられないでいただが、ここでようやく実感が沸いてきた。
 夢ではない、これは、ここに居るのは、紛れもなく馬岱であり、馬超だ。
 振り返れば、扉の外で待機していたと思しき二喬が不安顔でを見送っている。
 二人に向けて大丈夫だと微笑む程度には、は自分を取り戻しつつあった。
 どのみち、言わねばならないことだ。
 大層情けない、恥ずかしくて申し訳ない話ではあるが、馬超に伝えなければならなかった。
 その上で嫌われようが軽蔑されようが、それはそれで仕方がない。
 どれ程嫌で悲しかろうが、隠し果せることとは思えなかった。
 また、隠していいこととも思えなかった。
 馬超が託された使命とやらがどんなものかは知らないが、孫堅が話し合う時をくれたのであれば、一緒に話して聞いてもらういい機会だ、とも思っていた。
 仕事と私情を交えたらイカンのだろうが、と、は内心複雑に思い悩む。
 だが、ここが呉の地である以上、迂闊に馬超と話し込む機会は早々ないのも事実だ。
 孫権始めとするあの呉臣達の反応を見れば、と馬超が共に在ることを快く思っていないのは良く分かる。
――あぁ、もう、しっちゃかめっちゃかだなぁ。
 とは言え、馬超が来るとあらかじめ知らされていたとしても、が『しっちゃかめっちゃか』になるのは目に見えている。
 いきなり本番でむしろ良かったのだと、は自分を励ました。

 凌統が一行を案内したのは、何故かの室だった。
 受け入れの決定が為されてからあまり時間が立っておらず(それでも半日は確実にあった筈なのだが)、それ故使者の室の設えが未だ済んでないから、というのがその理由だった。
 馬岱が笑みを浮かべて謝辞を述べている辺り、の室を見るのも、元からの希望であったのかもしれない。
「二人にしてくれぬか」
 室に入ろうと扉に手を掛けたは、馬超の言葉に手を止める。
「えぇ、どうぞ」
 さらりと馬岱が答え、馬超はおもむろに一つ頷くと、の肩を抱いて室の中へと進む。
「ちょ」
 有無を言わさぬ流れに凌統が待ったを掛けるが、割り込むように馬岱が体を入れてきて、凌統の制止を留めてしまった。
 その間に、馬超はを室に押し込め、後ろ手に扉を閉ざす。
 閉める寸前、振り返った目がやや申し訳なさそうではあったが、暴挙と言えば暴挙である。
 世話役の制止を振り切っての勝手な行動は、ある意味敵対行動と取られても仕方がないのだ。
「ほんの少しの間です……従兄と殿は、互いに情を通じた者同士でもあるのですよ。情けを掛けて下さってもよろしいのではないですか」
 暗に恩を返せと迫られている。
 凌統はむっと唇を曲げた。
 確かに、凌統には馬超に返さねばならぬ恩がある。
 それも、命を救われた大恩だ。
 凌統が馬超と出会ったのは、賊の策にうかうかはまって危機に陥った時だった。
 劣勢著しく、連戦を重ねた凌統の軍は疲労も手伝い、じわじわと追い詰められていた。
 相手の策にどはまりはしても、鳩の嘴よろしく賊の攻撃自体は然程でないのが却って痛かった。
 嬲られていると言う訳ではないのだが、状況的には嬲られているのと変わらない。
 身動き取れぬままに一方的に攻撃を食らっていた。
 このままではまずい、どうにかせねばと凌統が必死に挽回の手立てを考えていたその時、川手の方から悲鳴が上がる。
 すわ、新手かと脂汗が浮き上がったが、悲鳴を上げているのは賊の方だった。
 目を丸くする凌統の方へ、がなり響く悲鳴はどんどん近付いて来る。
 散り散りに逃げ、あるいは方々に蹴散らされていく賊の作る人壁が割れ、そこに騎乗する若武者の姿が在った。
 闇に在って星の如くの姿は、凌統ならずとも息を飲む鮮烈さを誇る。
「……呉の、凌将軍とお見受けいたしますが」
 脇に控えたもう一人の武将が、静かに問い掛けてくる。
 そんな悠長な挨拶をしている場合か、と焦りが胸を過ぎるも、賊は誇っていた優勢をあっという間に引っ繰り返された衝撃のせいか、ほうほうの態で逃げ出していた。
 指示を出さずとも、凌統の部下達は尻馬に乗る形で賊の掃討に向かっている。
 呆気に取られた凌統は、問い掛けて来たのが馬岱であり、ほぼ一人で賊を蹴散らしたのが馬超と後程知り及ぶ。
 船で移動していた折、戦火の灯を認めてわざわざ駆け付けて来たとのことだった。
 馬を船に乗せての移動はないことではないが、移動で疲れ弱っている筈の馬を、船から飛び降りさせた上に即戦場に飛び込むように躾けてあるのは驚異以外の何物でもない。
 それ以上に脅威なのは、馬超の凄まじいの一言に尽きる戦闘力なのだが、ともあれこれで凌統には返さねばならない『恩』が発生してしまったのである。
 そして二人(主に馬岱)は、二人が蜀からの使者であることを告げ、孫堅への取り次ぎを依頼してきた、というのがここまでの流れだった。
――恩なら、返したじゃないかっての。
 前触れなき使者をどうにかこうにか無事に呉の地に立たせ、歓待の命まで引きだした。
 返せという恩には、十分報いたと思う。
 だが、馬岱はそれと感じさせぬ人懐こい笑みを浮かべるばかりだ。
 馬超の武も凄まじいが、この馬岱の謀もなかなかどうして、凄まじいように思う。
 下手に口答えするのもはばかられ、凌統は一歩譲歩することにした。
 そういう風に、取り繕うことにした。
「つっても、あんたはいいのかい」
 男と女が室の中に二人きりで居て、仲良く茶を啜るだけとは思えない。
 凌統並びに馬岱が控えていると知って事に及ぶとは考えにくいが、絶対にないとは言い難い。
 耐えられるか。
 耐えられる訳がない。
「そうですか?」
 至極あっさり、のほほんと答える馬岱に、凌統は肩すかしを食らう。
「むしろ、そういったことをしない方が不思議と、私などは思いますが。短いようで長い時間でしたし」
 馬超は情が濃い男で、だから必ずするだろう、などと、凌統がうんざりするのも構わず馬岱はつらつらと語る。
「……あんた、平気なのか」
「平気というと?」
 きょとんとしてさえ見せる。
 本当に平気らしい。
 凌統が不愉快そうに顔を顰めると、馬岱はすぐ前に広がる庭を指して促してくる。
 嫌なら場所を移動しようと促しているのだろうが、そうもいかない。凌統は首を左右に振って答えとした。
 馬岱という男に対しての感情が、ここではっきり定まったように思う。
 この男は、苦手だ。
――あの子が好きになる男はね、まず第一に本気で自分を想ってくれる男だってこと。もう一つはね、あの子を、抱こうとしない男ですよ。
 当帰の言葉が蘇る。
 そんな男が居る訳がないと高をくくっていた凌統だったが、いざ『そんな男』を目の前にしてみると、何とも言えない不思議な焦燥に駆られるのだった。

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