遠くの方から、どんどんとうるさい音が聞こえてくる。
本格的に不貞寝に突入していたは、その騒音で目を覚ました。
下の始末だけはしておいたから、不快感はそれ程でもない。
けれど、起き上がった時に微かに感じた痛みが、眠りで緩くなった感情を鮮明にする。
知らぬ間に唇を噛み締めていた。
目を擦りながら牀を降り、騒音の元へと足を進める。
「……はい」
寝起きの小さな声だったろうに、騒音の元はきっちりの声を聞き分け、扉を叩くのを止めた。
誰だろう。
は先方の出方を待っているのだが、一向に声が掛かる様子はない。
家人ならばすぐにもそう言おうし、凌統ならば嫌みの一つも言いそうなものだ。
仕方なく、から誰何の問い掛けをし、促した。
「……俺」
俺俺詐欺ですかと茶化しそうになるも、どうも深刻な様子には喉元まで込み上げた冗談を飲み込んだ。
とりあえず閂を外すのだが、それと分かっても何故か扉を開ける様子がない。
が開けようとすると、何故か向こうから押さえ付けられていた。
「どうしたの、伯符」
訳が分からない。
子供のような悪戯をすることもあるが、それにしては元気がないし、こういう時の孫策はあまりよろしくない場合が多い。
ろくでもないことを考えて、一人悶々としている場合が多いのだ。
「何」
重ねて問い掛けると、扉の向こうから何事か話し掛けたそうな雰囲気を感じる。
黙して待つが、孫策は結局口を閉ざしたようだった。
「……何か、あったの?」
扉に手を当てる。
無理やり開けようというのではなく、ただより近くに孫策を感じるように、無意識に伸ばす。
気のせいか、向こう側からの手と同じ位置の辺りに手を当てている気がした。
おかしい。
こんな感傷的な男ではない筈だ。
「誰かに、何か言われた?」
「んにゃ」
苦笑が忍び聞こえてくる。
如きに案じられたとでも思ったのだろうか。
ゲームでは確実に最弱レベルに値するだろうだったから、そんな気になるのも分からないではなかった。
しかし、訳が分からない。
言葉に詰まっていると、ようやく孫策が話を切り出した。
「夜、歓迎の宴をやるってよ。だから、お前も用意しておけってよ。……じゃあ、伝えたからな」
「そんなこと」
わざわざ孫策が伝えに来るようなことだろうか。
扉を押してみるが、びくともしなかった。
未だ居るのだと分かって、は言葉を続けた。
「伯符が伝えに来てくれなくったって」
最後まで言い切るのは、何となくはばかられた。
「……まぁ、そうかもしんねぇけどよ」
孫策も、何となく感じ取ったのか、歯切れは更に悪くなった。
は苦い唾を呑み込んだ。
うっかりとおかしなことを口走ってしまいそうだった。
――会いに来てくれたんじゃないの?
あまりに厚かましい問い掛けだ。
まだ、未だ、は孫策に決めた訳ではない。
決めてさえ居れば、無理やりにでもこの扉を開けて、孫策の顔を見てやるところだ。
孫策が扉を開けさせないのは、が是が非でも出て来ようとはしていないと覚っているからだろう。
自らの心の内を的中させることに意味はないが、的中してしまうことには再び寒気を覚える。
中途半端だと思う。
誰も彼もを傷付けているだけだ。
たった一人に決めるだけ、そんな簡単なことが何故出来ないのか、は終わりの見えない苛立ちに苛まれる。
こつ、と小さな音が響いた。
「」
それまでとはまったく響きの違う声音に、は胸を射抜かれる思いがした。
扉に遮られた孫策の表情はまったく伺えないが、優しく笑っているような気がしてならない。
意を決して扉を押すと、呆気ない程容易く開く。
胸がどきどきとうるさく鳴り響いていた。
開けてしまった、と思った。
大きく開いた扉の向こうは、早くも夕闇が立ち込めている。
だが、居ると思った孫策の姿は、疾うに消え失せていた。
身支度と言っても、特に着飾るでない。
着飾るという言葉に相応しいような服は、大概が当帰と関連するもので、どうしても気鬱になりそうで引っ張り出すこともしなかった。
それに、馬超達も、が着飾ったところで戸惑うばかりだろう。
いつもこんな格好をしているのかと要らぬ勘繰りさえ入れられかねず、状況が状況だったから逆に地味に徹した方が良いような気がした。
最終的に、湯の差し入れに甘んじて体を清めるに留める。
馬超も来るだろうし、孫策も来るだろう。
どころか、孫堅並びに孫権、周瑜に太史慈と、が肌を重ねた男だけでも、ざっとこれだけは雁首並べる訳だ。
周泰が居ないのがせめてもの情けかとも思うが、何に対しての情けなのかは定かでない。
キスした相手も含めると、我がことながら頭が痛かった。
どんな顔をして出向けばいいのやら、と悩むも、正直先日までは似たような状況だった訳で、単に馬超が増えただけとも言える。
勉強会は地道に回数を重ねていたけれど、呂蒙も学びの場と言うことでかなり自制してくれているようだったし、文官達とのそれは張昭の監視下の元、かなり熾烈にしのぎを削っているようで、に直接どうこう言うことはあまりなかったのだった。
何故にこんなに嫌なのか、考えられるのは、今回の呉と蜀の混合比率が初めての経験に値するからとしか言いようがない。
正直、蜀に居た時も孫策と言う呉の『成分』が混じってはいたけれど、ペースはのホームたる蜀であり、趙雲並びに諸葛亮といった、個人の利よりも国の利を第一に考える人々が睨みをきかせてくれていた。
お陰で、もあまり悩まずに済んでいたように思う。
ところが、今回は呉がペース、陣地で言えば敵地であり、の手札は極端に限られる上に最弱で揃えられている。
微笑み一つで相手を凍らせるだろう諸葛亮とタメを張るような人物に心当たりはなく、むしろ喧嘩上等、暴れられたら丸儲け的な好戦的熱血漢が出揃った国であるからして、そこに熱き正義の男を混ぜていいもんだろうかと逡巡するのだ。
むしろ駄目だろうと駄目押ししたくとも、頷いてくれる同志はここには居ない。
絶対喧嘩になるな、ならないでくれたらいいけど、無駄な期待だろうなと、どうしても悲観に暮れてしまう。
悶えている間に時間ばかりが過ぎて行き、は仕方なく腰を上げた。
いつもは来るお迎えが、今夜に限っては一向に来ない。
来るものだと思っていただけに、待機していた分時を浪費してしまっていた。
頃合いから言えば、宴は疾っくに始まっていておかしくない。
ここは、仮に未だだとしても、自分から問うのが筋と言うものだろう。
てくてく歩いていると、警備の兵に出会う。
自身はあまり見ないが、建物の出入り口や廊下のところどころには、こうした警備の兵が立っているのが通例だ。
が寄って行くと、驚いたように目を瞬かせる。
路傍の石と変わらぬ扱いであることが多いらしいから、突然声を掛けられるとどうしてもまごついてしまうのだろう。
「今夜、宴があるって聞いてるんですけど」
幸い、察しの良い兵だったらしく、の言わんとすることをすぐに覚ってくれた。
「出迎えの者が、伺いませなんだか。ただ今すぐに、誰ぞに訊ねさせて参ります」
言うなり、手にした槍尻をどんどんと床に叩き付ける。
すぐさま遠くから応えらしき音が聞こえてきて、それが幾つか連鎖しているようだった。
ややもして、兵が一人駆けてくる。
を前に耳打ちして遣り取りすると、駆け付けた兵はすぐに走って行った。
「こちらでお待ちになるのも何でしょうから、室にお戻り下され」
付いて来てくれるのは有難いが、以前一度襲われ掛けた記憶が蘇った。
の足が重いと見て、兵は歩みを止める。
「離れて、歩きましょうか」
知っているのだろうか。
それはそれで嫌だなぁと、自然に眉が下がった。
兵も苦笑して応じる。
「我らも、皆が皆不埒な心構えで居る訳ではありませんぞ」
それはそうだ。
兵は笑みながらも何か思案していたようだが、の視線を催促と取ったか、おずおずと口を開く。
「……我らには、詳しい事情は知らされて居りません。また、知らずで良いことは知らずに居るのが良いのだと、そのように存じ上げて居ります」
下手に詳しいことを知ると、迅速に動けなくなる。
自ら判断するより、盲目に上の指示に従って動いた方が良い場合もあるのだ。
ともかく、が襲われた話が広まっているのではないらしいことに、は少し安堵した。
が落ち着いたのを見て、兵士は更に話し続ける。
「ただ、我らは周瑜様配下の兵ですが、周瑜様が貴女の周囲に兵を配置するに及び、その人選に心を砕かれていたことは、良く良く知り置いて居ります」
人選していたらしい。
初めて知って、は驚きを隠せなかった。
兵は、さもありなんと微笑を浮かべている。
「貴方のお立場が微妙なものであることは、我らの耳にも入ってきます。ですが……このようなことを申し上げるのは、差し出がましいやもしれませんが……」
口を濁す兵に、は視線を向けた。
兵も、自分の様が滑稽だとでも思ったか、苦笑いしながら頭を掻く。
「その、ご無礼をお許し下さい……その、蜀に、帰ってしまうんですか」
「え」
いきなりの問い掛けに、は何と答えていいか分からなくなった。
いつかは帰るつもりだが、今すぐの話ではないつもりだ。
が困っていると、兵は頭を掻いて、もう一度謝罪をして寄越した。
「いや、体の具合が悪いから蜀に帰るのだと、そんな話が噂になっているので……その、蜀の方が、やっぱり良いものですか?」
いい悪いの話ではないから、どうにも返答に悩む。
「やっぱり、あちらに居る方が、命令とか、しやすいのでしょうか」
「え?」
良く分からなくなってきた。
兵にもの疑問が伝わったようで、慌てて補足してくる。
「いや、ですから、度々体の具合が悪くなるのは、殿が何でも一人でやろうとなさるからでないかと……文官の仕事もあるのに、細々とした雑事までおやりになってしまうから、だから疲れてしまうのではないかと……その、そんなことを言う者が居ります。もっとちゃんと命令してくれればいいのに、と、そんな風に言っているものですから」
そういう考え方もあるのか。
しかし、が病弱というか貧弱なのは今に始まったことではないし、自分のこと位はなるべく自分でやりたいというのも元からだ。
とは言え、そう指摘されてみると、確かに蜀に居る時は春花が何でもやってくれて、がやるのはそれのお目溢しをいただいた時くらいだったかも知れない。
本来であれば、春花の役目を当帰が務めてくれる筈だった。
何がどうしてこうなったのか、正直にも量りかねる。
「俺などが言うのはおこがましいですが、俺……あ、私、は、殿が歌う歌が、好きです……その、時々歌っているのが耳に入るもので、すみません、でも、出来れば、ずっと呉に居て欲しいと思って居ります」
唐突に『告白』をされてしまった。
は目を丸くしながらも、自然に頭を下げていた。
アリガトウゴザイマス、と、たどたどしく言いながら顔を上げると、兵は顔を真っ赤にし、あたふたと元来た道を戻って行った。
こんなところで置き去り、と焦るも、見れば自室の前に居た。
恥ずかしい。
羞恥が引き金になって羞恥を呼ぶ。
思わぬファンコールには雑事を忘れ、大いに照れまくっていた。