室に戻って腰掛け、ぼんやりと考える。
 何となく分かって来たかも知れない、と、は一人ごちた。
 信じられなくて、そんなことを考えるのはあまりに自意識過剰過ぎて、これで調子に乗ったら馬鹿だと諌めて来たことが実は無意味だったのかもしれない。
 正直、それを認めることには未だ抵抗があった。
 あったが、そう考えれば何もかもが上手くはまる。
 には、価値がある。
 それも、他にはない貴重な価値だ。
 これまで、人からそれっぽいことを言われたことは幾度かあったような気もするが、どうにも信じられずに流してきた。
 その気になり掛けることはあっても、そうなんだ、とは納得しないようにしていたつもりだった。
 努力して得た価値ではなく、元々持ち合わせていた、からすれば平凡な才が、周囲から見れば紛うことなき珠玉の逸品だったとしたら。
 納得できなくとも仕方がないが、そうだと認めざるを得ない事実でもある。
 単に、が目を背け続けて来ただけだ(そんなことで鼻高々になるのは、あまりにかっこ悪い)。
 当帰との喧嘩の時もそうだ。
 自分の立場を考えろと言われたが、あれは、が二喬に隷属させられる羽目になるのを恐れてのことだったのかもしれない。
 思い違いもはなはだしいのだが、当帰が二喬の気質を知り抜いているとは思えず、であれば自身の知識のみを頼りに判断を下すことは当然考えられる話だ。
 当帰からしてみれば、せっかく無二の価値であの二喬に対峙しているものを、覆せない『弱み』を自ら作り出して証として残そうとするに、どうしようもない危機感を覚えてしまったのだろう。
 百年に一人として居ない美貌の持ち主と謳われた甄姫でさえ、呪詛の品を持っていたという讒言一つで害された時代である。
 用心してもし尽くすことはないこの時代に、の所業はあまりに不用心だ。
 を娘として守ろうとする当帰からすれば、理不尽に叩いてでも言うことに従わせなければならない気持ちに駆られたのだろう。
 価値というものは、認められなければ価値にはならない。
 自分一人が認める価値もあれば、世のすべての人間が認める価値もあろう。
 ピカソの作品が落書きにしか見えないという人間は少なからず居るし、その作品にうん十億という金を投じる者も居るように、だ。
 価値とは、本来個々の判断に基づいていいものだと思う。
 の場合、自身に向けられる価値がどうしても認められなかった。あまりに過剰過ぎると、不愉快にさえなっていた。
 だが、が己を無価値だと思うように、他者がを無双の価値ありと見なすこともまた、その人の勝手なのだ。
 が乱暴に取り下げさせていいものではない。
「……でもなぁ」
 その辺の調整が難しい。
 価値があるからどうするかは、結局その所有者の考えによる。
 ピカソを飾るか大事に仕舞って置くかは、所有者の権限で決まるのだ。
 自分を、どう扱うべきか。
 そのことをまず悩むべきかと、は膝を抱えて考え始めた。
「大姐」
 扉の外から声が掛かり、思考は中断される。
 出てみると、大喬が息を切らして立っていた。
 額に汗が滲んでいる辺り、どこからか全速力で走り込んできたのだろう。
「申し訳ありません、私、うっかりしていて、ぼんやりしていて……!」
 ぺこぺこと必死に頭を下げる様に、の方こそ罪悪感に駆られる。
「いいです、いいです、そんな、謝らないで下さい」
 も慌ててなだめるのだが、大喬はいっぱいいっぱいでの言葉も耳に入らないでいるらしく、ひたすら頭を下げ続ける。
 どうしたら大喬をなだめられるか困惑するは、ふと、こちらを見ている女官の存在に気付いた。
 に気付かれたと分かるや否や一礼して立ち去って行ったが、気付かれたと分かる前にしていた一瞬の表情が、を暗鬱とした気分に追いやった。
 女官は、はっきりと苦々しい顔をしていた。
 何故そんな表情を見せるのか、それは言わずと知れたことだろう。
 大喬は、がいきなり沈んだことに驚いたようで、下げ続けていた頭をようやく上げた。
 窺う視線に鬱陶しさを覚えるも、大喬のせいではないから八つ当たりも出来ない。
 自分の価値を知らないという点では、大喬もと似たり寄ったりなのだと改めて気付いた。
 言って伝わることだろうか。
 否、伝わるまい。
 伝わったところで、その真意を理解できるとは思えない。
 あくまでプレイヤーとして、第三者の視点で大喬を見て来たは、きっぱり断じた。
 誰から言われても駄目なのだ。自覚がなければ、直そうとは思えないことだ。
 ただ、そうは言っても、大喬の無自覚はかなりの高確率でに影響を与える。大喬が早く気付いてくれればいいと、念じるしかないことが歯痒かった。
 どうにも自分勝手だな、とは陰鬱に笑う。
 おざなりに大喬と会話を交わしながら宴の間に向かうは、胸中に何とも形容し難い重苦しいものを抱え込んでいた。

 宴の間にと大喬が着くと、雰囲気は最悪だった。
 決して比喩ではない。
 ぴりぴりと、空気そのものが不愉快な振動を放っているかのようだ。
 以前、劉備達が婚姻の礼に訪れた時も、ここまでではない。
 むしろもっと和やかだった筈だった。
 何があったのかと視線を巡らせると、上座の脇に立つ馬岱と目が合う。
 と目が合った瞬間、馬岱は何とも言えない苦笑いを浮かべた。
 と、馬岱の目線は、思わせ振りに上座に座る馬超に向けられる。
 どうやらこの空気の悪さの源は馬超にあるらしい。
 とりあえず一礼すると、大喬が先立ってを案内する。
「何故、そこだ」
 決して怒鳴っている訳ではないのだが、隠しようのない鋭さを秘めた声だった。
 鞭で打たれたかのようにびくりと肩を跳ね上がらせる大喬に、周囲の将が内心いきり立つ。
 眼の剣呑さが、良くそれを示していた。
 大喬がを案内しようとしていたのは、小喬の腰掛ける末席だった。
 空いている席が二つあるから、一つは大喬の席なのだろう。
「何って、何なんだよ」
 甘寧が吐き捨て、隣席の呂蒙に諌められる。
 が、反対隣に座す陸遜は、やたらと挑戦的な目を馬超に向けていた。
 馬超もそれに気付き、まったく臆することなく真正面から受け止める。
 空気が重く、それでいて刺々しいものに転じていく。
「すまんな」
 そんな空気を裂いて、静かでありながら凛とした声が響き渡る。
 場の空気が一転した。
「こちらの宴では、君主たる俺を除いては、皆、好きに座すのだ。後から来た者は、空いている席に座す。これが慣わしのようなものだ」
 杯を傾けながら淡々と説明を施す孫堅にも、馬超の目の刺々しさは変わらない。
 何がどうして、馬超にそこまで敵意を抱かせるのか。
 結局、詳細のほとんどを未だ知らぬは、はらはらして馬超と孫堅の成り行きを見守る。
「……それは、貴公の国の慣わしだろう。を従わせるに足るものでは、あるまい」
 孫堅は、取り立てて興味をそそられない風に馬超を見る。
 それに対し、腹を立てている風に見える馬超は恐らく気付いていないだろうが、孫堅は努めて興味のないよう、取り繕ってくれているのだ。
 もしも孫堅が、馬超に対して気分を害したことを露にしようものなら、即座に馬超は呉の敵となる。
 その一体感こそが孫堅治める孫呉の強みであり、弱みでもあった。
 孫堅が倒れた時、その穴を埋めるに掛かる苦労は並大抵ではあるまい。
 ただでさえ跳ねっ返りが多いのだ。
「貴方は、いったい何をしにこの呉にいらしたのですか」
 この時も、年若い陸遜が早々に堪忍袋の緒を切った。
 止める間もなく立ち上がり、馬超を睨め付けている。
 すわ一大事と場が騒がしくなる。
 声はなくとも、それぞれの気がさざめいているのは明らかだった。
 しかし、馬超は陸遜とひたと目を合わせ、動じることなく言い返す。
「俺は、に会いに来た」
 一瞬、しん、と静まり返る宴の間に、かたん、と小さな音が響いた。
 次の瞬間、凄まじい馬鹿笑いが轟き渡る。
 孫策だった。
 椅子から引っ繰り返らん勢いで笑い転げている。
 馬超の頬が赤く染まった。
「……何が可笑しい」
「なっ、何がってお前、何、て」
 孫策の笑いは治まらない。
 嘲笑ともまったく異なる、いっそ清々しくさえある笑い声に、場に居合わせたほとんどの者が呆然と孫策を見詰める。
 馬超はますます頬を染め、不機嫌を露に眉を吊り上げた。
「俺が、俺のものに会いに来て、何が可笑しい」
「そのことだがな」
 爆笑している孫策を苦笑して見ていた孫堅は、視線を隣に座す馬超に向けた。
 訝しげな馬超に、孫堅は穏やかな笑みを浮かべつつ問い掛ける。
「昨日もそう言っているのを聞いたが、その、『俺のもの』というのはどんな根拠があってのことなのか、それを一つ聞きたい」
 ここまで放置扱いされていたは、一斉に身を乗り出す呉の臣達に目をぱちくり瞬かせる。
 どうも、馬超との関係に興味深々だったらしいが、それにしても露骨に過ぎるだろう。
 馬超は何を訊かれているのか分からないようで、と同じく目を瞬かせている。
 が、周囲の視線が集まっていることに気付き、その視線の熱さに戸惑いつつも口を開いた。
「俺が、勝った。だから、は俺のものだ……何だ、聞いて居られぬのか」
 困惑した目を孫策に向ける馬超に倣い、今度は皆が孫策を見詰める。
 未だに笑いが治まらず、ひぃひぃと喉を震わせていた孫策も、渋面の周瑜に促されてようやく我に返ったようだ。
 空気を読まず小首など傾げていたが、周瑜に状況を説明され、あぁ、と大きな声を上げた。
「おぅ、俺が負けた」
 悪びれない堂々とした物言いに、周瑜始め皆がぽかんとする。
 孫堅のみは、未だ苦笑を浮かべたままだ。
「お前達はそれで通じもしようが、俺にはさっぱりだ。もう少し詳しく、順を追って説明できぬものか」
「では、失礼して私が」
 馬岱が名乗りを上げ、孫堅の許しを得て説明を始める。
 蜀で執り行われた武闘会の話を聞き、ざわざわとざわめきが起こった。
 不信感からではなく、興をそそられてのざわめきだと思われる。
 居合わせた人々の顔がどこかうっとりとしていて、昂揚した為か薄ら紅潮していることからそう感じられる。
 元より、武と言うものに何より魅せらせるお国柄だった。
「そのような話」
 孫策の敗戦を聞いた孫権は、不機嫌そうに吐き捨てる。
 信じられないと言うが、信じたくないと言うのが本当のところだろう。
 この弟は、兄の武こそ最強と信じている節があった。
「いや、本当だぜ。そういや、俺が圧し折った腕、どうした」
 馬超が顔を歪めて治った、とだけ告げると、孫権はやや機嫌を直してむくれた表情を解く。
 は、そういえばこの話を呉で聞いたことがなかったと思い返していた。
 あれ程見事な試合だったと言うのに、何故噂にならずにいたものか、不思議なくらいだ。
 負けたとはいえ、孫策の戦いぶりは見事の一言に尽きる。
 ひょっとして、呉に着いた直後、が倒れたことで有耶無耶になったものか。
 の表情が曇る。
「……それは、卑怯な」
 孫堅が、唐突に嘆く。
 詰る風ではなく、何処か面白がっている。
 悪戯っぽい笑みを浮かべているのが、いい証拠だ。
 何を言う気だ。
 薄々分かっていながら、は自らの暗い気持ちに気を取られ、孫堅の言葉を遮る間を逸する。
 それは、致命的と言って良かった。
「我らを混ぜてもらわねば、困る」
 短くもきっぱりと言い切った。
 居合わせた者達が言葉の意味を理解するのに、一呼吸分の時が掛かった。
 そうして、孫堅がにやりと笑った瞬間、宴の間はどぉっという歓声と雄叫びに打ち震える。
 はしゃぎ、騒いで、いきなり踊り出しそうな盛り上がりだ。
 武闘会だ、武闘会をやろう。
 祭りに興じる熱気が、あっという間に宴の広間に満ちた。
 誰もが乗り気で、乗り気でないわずかな者の存在等、無きが如しの扱いだ。
「よっしゃ、再戦と行こうぜ!」
 乗り乗りの孫策に、馬超は冷たい目を向ける。
「……望むところだ」
 どっ。
 馬超の返事にまた、宴の間は地鳴りのような歓声に揺れた。
 武闘会の開催が、正に決定された一瞬だった。
 は、想像を遥かに超える怒涛の勢いに、呆然と立ち尽くす。
 唯一冷静を失っていない馬岱と目が合ったが、ただ気の毒そうに笑みを向けられるのみだ。
――何、この流れ。
 の嘆きを聞いてくれそうな者は、ここには一人も居ないようだった。

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