と馬超は、廊下を二人並んで歩く。
 沈黙が肌に痛かったが、迂闊に口を開くと何を言ってしまうか分からず、故意に唇を噛む。
 馬超もまた、口を開く様子もない。
 端正なその横顔に、は怯えていた。
 決意したことと恐怖を感じることとは、また別の次元の話だ。
 幾ら決意を固めたところで相手の胸の内までは読み取れないし、どう反応されるかも分からない。
 激怒されて殴られたら痛いだろうし、下手なところに頭を打ち付けでもしたら死ぬかもしれない。
 そうでなくとも、もしも馬超に泣かれでもしたらと想像しただけで胸が詰まって苦しくなる。
 どうしよう、と悩みながら、何かが小骨のように引っ掛かっていた。

 室に入って、はまたも閂をどうするかで悩む。
 そのままでは室への乱入を許すやもしれず、掛ければ馬超と二人きりで居なければならなくなる。
 どちらにしても一長一短で、は真剣に悩まざるを得ない。
 ふと、気付いて後ろを振り返ると、馬超がこちらをじっと見ている。
 慌てて、早くどうするかを決めなくてはとうろたえ、結局閂を掛けた。
 掛けないことで馬超を信頼していないと取られるのが嫌だった。
 ごとん、と重い音を耳にして、は軽く唾を飲み込む。
 これで、もし殴られたとしても助けはすぐには来れなくなった。
 殴られてもしょうがないだろうと自分を叱咤するも、殴られる痛みは容赦なく蘇ってを脅かす。
 馬超に気付かれないよう、小さく深呼吸して、は後ろを振り返った。
 ずんずんと大股で歩き、馬超の前で止まる。
 馬超の目を見て話そうと顔を上げると、明かり取りの窓から差し込む月光が、馬超に斜めに降り注いでいた。
 静かな、柔らかな明かりに照らされて、馬超はただ立っていた。
 それだけで絵になる。
 綺麗だ。
 もしも馬超に似ていたら、あの子もさぞや美丈夫に生まれて来たことだろう。
「……あ……謝らなくちゃ、いけないこと、が……」
 宿った命には責任を持たなくてはならない。
 それが母親の最初の務めなのだから、その自覚がなかったにせよ、は謝らなくてはなるまい。
 けれど、どう謝ったらいいのだろう。
 決意も虚しく萎れ、は俯く。
 あれ程考え続けた大量の言葉がどこからか漏れ出し、の内から消え失せていた。
「手紙を、読んだ」
 馬超が不意に口を開く。
「伝えたいことがあるとあった。そのことか?」
 間を空けて、は頷いた。
 馬超に誘導されての告白を恥じ入るが、頭の中で思い描くようには潔くなれない以上、甘えるしかない。
 それでも、口火を切らせたこの先は、自身できちんと打ち明けようと勢い込んだ。
 しかし、馬超はそんなの気勢を挫く。
「言いたくない、ともあった」
 らしからぬ穏やかな笑みに気圧されて、は出掛けた声を呑み込んだ。
「ならば、言わんでいい」
「だっ……!」
 許されないことだ。
 馬超には知る権利があり、には言わねばならない義務がある。
 それが、許したに与えられた責務であり、許しを得た馬超が持つ資格なのだ。
 うろたえるに、馬超は静かに、言い聞かせるように語り掛ける。
「お前の言いたくないことなら、俺は聞きたくはない。お前が聞かれたくないことを、俺が訊ねることもない。そうしてお前を傷付けるのであれば、俺は、何も聞かん。言わん」
 それこそが馬超の願いであると、いともあっさり言い切った。
 淡々とした声とは裏腹に、その意味するところは酷く情熱的だ。
 の為に、馬超は盲目で居ると言っているのと変わらない。
 如何な感情を持ち合わせていたとしても、他者の為に、しかも傷付けたくないというただそれだけの為に言える言葉ではなかった。
 言葉だけであるなら未だしも、それを言っているのは馬超なのだ。
 胡散臭い詐欺師などではない、心底から誓い、誓いを守る為であれば命を賭するのも厭わない、馬超の言う言葉なのだ。
 ならば、とは思う。
 馬超がそこまで言ってくれるのであれば、もまた、かけがえない馬超と言う男に対して真摯でありたい。
「あ、の……私、ここに着いた時、倒れ……ちゃって……」
 馬超の目の奥に、一瞬鋭い光が瞬く。
 しかし、馬超がその表情を怒りや憤りに歪めることはなかった。
 小さく頷くのみだ。
 は、馬超の優しさを感じ取って無性に泣きたくなった。
 だが、泣く訳にはいかない。
 せめてもこの告白を終えるまでは、嗚咽に喉を震わせ声を失う訳にはいかなかった。
「それで……で、…………」
 何と言っていいのか分からず、は口が動くに任せる。
 感情に委ねた言葉は酷く分かり難かった。
 吐き出す言葉を選ぼうにも、その候補すら頭に浮かばない状態で、喉の奥から何かがぐっとせり上がって来るのを感じるばかりだ。
「岱が」
 黙っていた馬超が、口を開く。
「誰しも言いたくない秘密があると……秘密であっても、告白せざるを得ないこともある、と。だが、それは告白する者が告白しようと思い定めてからすることだ、と」
 正に今のだ。
 はっきり言え、と促されているのか、と思った。
「しかし、告白しようとする時には、大なり小なりの葛藤が……その者の胸の内に、嵐がある筈だと。それを力でねじ伏せられる者も居れば、その嵐に打ちのめされる者も居る、と」
 違った。
「……どちらが良い悪いということではない、と、そう言っていた。言えぬ時には言わぬでもいいのだそうだ。言える時に言えばいい。周りの者は……少なくとも俺は、そう在るべきだと」
 何もかもを曝け出すだけがいいことではない。
 頼られることをのみ良しとするものではない。
 馬超は、恐らく記憶に在る馬岱の言葉を思い出し思い出し、に告げてくれている。
 泣きそうになる。
 説教されたであろう馬超が、面白くもなかったろう馬岱からのそんな言葉を切々と打ち明けること自体、有り得ない。
 誇り高い男だ。
 自分が諭されたことを、諭されたと秘すこともせず、を安堵させる為だけに告白するなどどうにも想像出来なかった。
 けれど今、馬超はの前に立ち、微笑みさえ浮かべてを見詰めている。
「誰が何を言おうと」
 馬超は決意を新たにするように、胸に手を当てた。
「俺が信ずるに足り得るは、お前の言葉のみだ」
 の虚栄が砕かれる。
 馬超が『噂』を聞いたのかどうか、ずっと気に病んでいた。
 聞き出すまでもなく曝け出した馬超の潔さに、自分を比して惨めな思いがした。
 そこまで馬超にさせることに、泣いていいのか誇っていいのか、分からなくなる。
 泣くのは卑怯だと思う。
 女が泣くのは、特に卑怯だと考えていた。
 涙を流している人間に対して、大概の人は追及することが出来なくなる。
 泣くことは、究極の弱さの表れだ。
 明らかに弱い、つまり下位の者に対し、上位に位置付けられた者はそれ以上の責めを躊躇する。
 弱者を嬲っているという形式が、泣かれてしまうことによって成立するからだ。
 その上で、特殊な場合がどうであれ、一般常識的に女の方が力が弱い。
 つまり、弱い者が自分は弱いと露骨に訴えることで、相手を不当に律するのと変わらない。
 だから、卑怯だと思っていた。
 の目から涙が零れる。
 卑怯だと思うことを堪えることも出来ない自分が、また一層惨めだ。
 馬超の口元に苦笑が滲む。
「……お前の疑い深さは、理解していたつもりだが」
 抱き寄せられて、抵抗することもなく素直にその腕に包まれる。
「ここまでとなると、俺もいい加減に腹立たしくなる」
 頭をわしわしと撫でられ、溢れてくる涙を掬われる。
「俺は、自分で言うのも何だが、執念深いのだぞ。お前を早々諦めたり、誰がするものか」
「だって」
 は口をへの字に曲げ、自ら涙を拭う。
「……だって、どの辺までが早々なのか、分かんないって」
 馬超の苦笑が深くなる。
 苦々しく笑いながら、少し考え込むように首を傾げた。
「お前が、そう、俺を選ばず姿を消すとか。そんなことを」
 言い差し、不意に口を噤む。
「……否、そんな真似をしたら、地の果てまで追い掛けるな。……となると」
 本気で悩み始めた馬超に、は唖然とし、次いで勢い良く吹き出した。
 むっと眉根を寄せる馬超は、すぐにの目からまた涙が滴り落ちるのを目の当たりにする。
「ありがと」
 泣きながら笑うに、掛ける言葉がない。
 背に回した手に力を込め、そっと引き寄せた。
 口付けようと顔を傾げる馬超を、の手が遮る。
「……何だ」
「だって、ナミダと鼻水で顔ぐちょぐちょだもん」
 ヤダ、と袖口で顔を拭う色気のないに、やる気を削がれた馬超は憮然とする。
「お前、折角奴が気を利かせたものを……」
「それだけど」
 しないよ、と明瞭簡潔に宣言を下され、馬超は愕然とする。
「……そっ……おまっ……!」
 それ程衝撃なことか、とが呆れるくらい、露骨に取り乱される。
 ここまで取り乱されると、却って冷静になってしまうくらいだ。
「お、お前、俺がいったい何をしにここまで来たと……!」
「知らないよ」
 ナニしにわざわざ出向いたとしても、が応じなければならない義務はない。
 それに、だ。
「……病気、かも、しれないし」
 孫策の『検診』直後の馬超到来の報でうやむやになっているが、が性病を罹患している可能性は無ではない。
 性病と聞いて真っ先に恐れるのは、性交による感染だった。
 有体に言って、性病だなどと言われてもまず苦笑いを禁じ得ない。
 言葉のイメージが卑猥に過ぎて、ピンとこないのだ。
 が、実際を考えれば恐ろしい病気が多い。
 嘘偽りなく命を落とす、そんな類のものも少なくないのだ。
「もう、一度はしただろう!」
「だから言ってんでしょう!」
 とて、性病に関しては無知も同然だ。
 現状はほぼ知らないと言って良いし、どんなものかも良く分かっていない。
 そんな脆弱な知識を元に、これ以上の感染を防ぐ手立てを上げるとするならば、性交渉そのものを持たない以外にはない。
「そうは言っても、一度してしまったのだから」
「だーかーら、これ以上はもうしないって言ってるの!」
 一度でうつるかどうかすら、分からない。
 ならば、一縷の望みを託し『一度ではうつらないかもしれない』という可能性に賭けるよりないではないか。
 喧々囂々と喚き合う最中、馬超がぴたりと口を閉ざす。
 釣られてが口を閉ざすと、馬超は悩ましげに眉を顰めた。
「……岱が」
 切り出しもそのままに、馬岱から食らったと思しき説教の内容を繰り返す。
 何故、今、今更と、が首を傾げると、馬超はの顎を取り、軽く捩じる。
 逆らいようもない力に痛みを覚えて顔を顰めると、馬超の目が不機嫌に歪んだ。
「これは」
 一呼吸空く。
「……誰にやられた。正直に、言え」
 何のことだといぶかしむは、いきなりはっと思い当る。
 の顔には、未だ見苦しい痣が残っているのだ。
 だいぶ薄くなったことが災いして、意識からすっぽり抜け落ちてしまっていた。
 薄くなったとは言っても、それと知らない者には衝撃だろう。その程度には、残っている。
「あ、あ……えー、と、えー……えへ?」
 言い訳しようもない。
 笑う振りをして誤魔化そうとするも、無駄なあがきだった。
 馬超は、苛立ちを露にのこめかみをぐりぐりと揉み込む。
 結構、痛い。
「いだだだだ、孟起、痛い、痛い、痛いっ!」
「痛くしてやってるというんだ、この馬鹿が! 広間でお前の顔を見た時、俺がどんな気持ちで居たのか、お前に分かるか!」
 馬超の言葉には己の記憶を巻き戻す。
 広間で再会した時の、あの顔、あれは、そういうことだったのか。
「……じゃあ、何か喧嘩売りまくってたのって、あれって、もしかして……」
「人の所から無理やり連れ去って行ったものを、そんな扱いを受けていると知ってへらへらと笑っていられるか!」
 馬鹿かお前は、馬鹿だお前は、と、言いたい放題である。
 けれども、は馬超の言に新たな疑惑を見出して、とても腹を立てるどころではない。
――え、孟起、『噂』聞いてるの、聞いてないの……?
 馬岱が与えた助言が、馬超がくれた言葉が、いったい何を指し何を諭してくれたのか、皆目分からなくなった。
 ただ、盲目的に己を責め苛んでいた暗い気持ちは、憑き物が落ちたようにさっぱりしている。
 薄情と罵られれば甘んじて受け入れるより仕方がないが、何より馬超を落ち着かせる方が先決に思えた。
「孟起」
 おいでおいでをして、牀に誘う。
 途端に馬超の頬が赤くなり、喧しいばかりだった口を閉ざして着いてきた。
 馬超を牀の端に座らせると、は小さな台を引き摺って来る。
 それから、熱い茶を淹れた。
「ここに来てからの話、するから。聞いて」
 茶碗を手渡された馬超は、ぽかんとを見詰めていたが、ふっと顔を下げ、茶を啜る。
 むっとはしているが、おとなしく茶を啜っている辺り、話を聞くつもりはあるのだろう。
 は馬超の隣に腰掛け、まず『虎』と名付けられた子のことを話し始めた。

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