の話すべきことは、それ程長く話し続けられるものではない。
けれど、が話すべきところをすべて話し終えた頃には、茶はすっかり冷め切って、月は地表近くまで傾いていた。
小さな溜息を吐くと、はちらりと馬超を見遣る。
困っているように見えた。
胸底では憤怒が滾っているのだろうか。それとも、凍えるような哀切に身悶えているのだろうか。
しかし、の単純な予想は尽く覆された。
「……俺は……男だからかもしれんが……」
良く分からないと言って眉を八の字に下げる馬超に、はぽかんと口を開けた。
困っているように、ではなく、心底困っていたらしい。
の様に、今度は馬超が戸惑っていた。
うろたえて視線を宙に彷徨わせる。
「いや、……俺は、西の生まれだからな……正直、こちらのことも分からぬことが、偶に在る。それ故やもしれんが、その、どう言ったらいいのだろうな」
困りながらも馬超が語った言葉によれば、子が流れることは罪悪ではないという。
むしろ、腹に留まれぬ程に弱い子であったなら、それはそれで『致し方ない』ものではないかということだった。
「………………」
は、馬超の言葉に唖然とするよりない。
馬超の言に衝撃を受けているという訳ではなく(馬超がらしくもなく言葉を選んでいるのが分かっていたこともある)、想定していた『常識』とあまりに掛け離れた馬超の思考に、打ちのめされていたのだ。
何の為にあれ程悩んでいたのか、まるきり分からなくなってしまった。
そも、子を成すことはこの国の人に課せられた最大の課題だと聞いている。
はそう考え、だからこそ馬超達の反応を恐れた。
虎には残酷な話だったかもしれないが、が虎を『認識』出来たのは『彼』が死んだ後の話であり、その死を悼みこそすれ、嘆き悲しみ身を揉みしだくといった『悲劇』とまでは感じていなかった。
虎を失った悲しみは、馬超達の方が余程辛いものになるに違いないと、一人早合点に思い込んでいたのだ。
それが、ここまで困惑される羽目になるとは夢にも思わない。
馬超はの顔を伺いながら、訥々と語る。
「……女達が、普通どう考えるものなのか、生憎俺にはよく分からんが……その、お前、というより、『母』が生きてさえいれば、子はまた生せるものだろう。だから、俺の知る限り、そこまで思い詰める女は……」
無論、の国ではどうか知らないがと馬超は慌てて付け足した。
理解し難くはあるが、要は、一人の生まれても居ない子を失うよりも、より多くの子を生す可能性のある成人女性が生き残る方を喜ぶのが常識、ということだろうか。
打算的に過ぎるように感じるが、その考え方そのものを否定するつもりはない。
特に、ここより厳しいであろう西涼の環境を考えれば、そういった考えになるのも仕方がないように思う。
馬超も、打算的な考えだと分かっているからこそ、慌てての国がどうこうと言い足したのだろう。
案じてはいるがどうしていいか分からないといった、遠巻きな優しさが感じられた。
けれども、の戸惑いを打ち消すには至らない。
ならば、あの時の皆の反応は何だったと言うのだろう。
馬超の生まれ育った西涼、南の地の呉と、幾ら遠く離れた土地柄だとはいえ、こうも反応が違うと理解に苦しむ。
呉の人々はの『不幸』に接し、悲しみ憤り、当事者たるよりも余程取り乱していた。
蜀の臣である星彩にしてもそうだ。
だからこそ、父である可能性の高い馬超などは、更に深く傷付くだろうと心配していたというのに。
「俺は、その時、お前の傍に居なかったから……かも、しれんな」
馬超の目に、ようやく寂しげな色が浮かぶ。
は慌てて馬超の手に触れた。
触れて、離そうとする手を馬超の手が押し留める。
馬超の口元に苦笑が浮かび、横目でを見る目にもまた、同じ色が浮かんでいた。
「いい加減、俺も覚える」
ぽんぽんと軽く手の甲を叩かれ、は顔を赤らめた。
手を伸ばしたのは無意識の行動だったのだが、馬超に触れる権利が果たしてにあるのか、分からなくなったのだった。
瞬時に察した馬超がの手を捉えなければ、引っ込めた手はそのままで、は二度と馬超に触れられなくなったかもしれない。
馬超ですら学習しているというのに、の行動は未だこの世界に来た当初と変わらない。
成長がないことを改めて自覚し、恥ずかしくなった。
馬超はの手を撫でながら、何事か考えている風だった。
「……俺がその時お前の傍に居れば……分からなかったやも知れん。だが、俺はお前の傍に居なかった訳だし……話を聞いた今、居たかったような気もするが……」
馬超の胡乱な声はそこで途切れた。
多分ではあるが、馬超はこう続けたかったに違いない。
居なくて良かった、と。
を思う立場としてはあまりな言葉かもしれないが、も当時は同じように思ったものだ。
馬超が、孫策が、趙雲が居なくて良かった……責められれば責め返しただろう、口汚く罵られれば罵り返したかもしれない。
あの時、はどうしようもなくぴりぴりしていた。
真綿で絞められるような鬱々とした優しさに囲まれて、喚き散らすことも出来ずに追い詰められていた。
孫策の顔を見た途端……やるべき仕事を放棄して、に苛立つ顔を見せられた途端、の溜まりに溜まった不満は爆発し、あわやという事態にまで発展し掛けた。
いっそその方が良かったかもしれないと、ちらりとでも考えてしまう自分が居る。否定できないのが切なかった。
趙雲ならば、却ってを上手くあやしたかもしれない。
だが、馬超はと考えると、こちらはどうも雲行きが怪しい。
孫策と同じように、否、孫策以上に大事になってしまう可能性は低くなかった。
何となれば、先日来の呉将達との遣り取りを省みるだに、あるいは馬超の持って生まれた直情的な性質故に、どんな形であれ傷付き暴れ出すのが目に見えるようだったからだ。
孫策とは喧嘩になったという話をすると、馬超の目が不機嫌に歪む。
「……やはり、居れば良かった」
ぼそりと呟いた声が、かなり本気に感じられて少々怖い。
喧嘩をしそうだったから居なくて良かったと思っているのに、敢えて『居たかった』とはどういうことだ。
「やだよ、孟起と喧嘩になるの」
が眉を顰めると、馬超の眉も同じように顰められる。
「俺とは嫌で、あの男とはすると言うのか」
何だそれは。
くだらないやっかみかと思えば、どうもそうではない。
馬超の目は至って真面目に、真摯にを見詰めている。
「……喧嘩、したい訳?」
呆れたような心持ちで、問い掛ける声にもそんな気持ちが露骨に滲む。
馬超の顔がむっと顰められた。
「わ」
目にもとまらぬ早さで倒され、牀に横たわる。
馬超も同時に倒れて、寝そべりながら互いの目を間近に見ていた。
腕を枕にして体勢を整えはしたが、馬超は黙ったままを見ている。
見詰められている目の光が強過ぎて、は身動きが取れなくなった。
「俺は」
馬超の指が伸びて、乱れたの髪を梳く。
背筋がぞくぞくしたが、無意識に体を強張らせて耐えた。
「お前を一人占めしたい」
なればこそと馬超は語る。
例え喧嘩であろうと、何であろうと、の相手をするのは自分でありたいのだと言い切る。
は、何も言えなかった。
口を噤むに、馬超は苦笑を浮かべる。
「お前は、本当に顔に出やすいな」
「……ごめん」
「謝るな」
馬超の指が、の髪を悪戯に弄ぶ。
「……本当は、待っていてやらなければならんのだろうな」
手持無沙汰と言うより、何か弄って意識を逸らさねば言い難いことなのだろう。馬超の目が、の目から外されているのがいい証拠だった。
「俺は、しかし、お前に触れる男が居ると思うと気が急いてしまう……他の奴に触れられるのであれば、誰より先に俺が、と、焦ってしまう、のだろうな。お前が決められるまで、ゆっくり待ってやることが出来ない……だが、だがな、。これは、俺だけが悪いのではないからな」
何か思い出したのか、馬超の口が尖る。
馬超が何を言いたいのか分からず、は悩み、結局黙って馬超の言葉の続きを待つしかない。
「……俺は、待とうとはしている……だが、その度に趙雲やら孫策やらがお前に手を伸ばすだろう。だから、俺は待てないのだ」
待つつもりはある、としつこく繰り返す馬超に、はあんぐりと口を開け、ついでに吹き出した。
「何を笑う」
「……いや……ってか、それ、馬岱殿に言われたの?」
待ってやれ、と、馬岱であれば言ってくれそうだ。
「いや。俺がそう決めて、そう言っている……お前にも、言っただろう」
「……そうだっけ」
覚えがない。
言ったと言われればそんな気もするが、あまりにも色々なことが起き過ぎている。
の許容範囲を遥かに超える出来事が、の持つ一つ一つの記憶を薄めていた。
馬超程の男に言われれば、本来決して忘れられないだろうこんな台詞さえ曖昧に薄まってしまう。
何とも頼りない記憶力だ。
しかし、馬超はあまり気にした様子もない。
別の何かに気を取られている風だ。
「お前と俺では、違うことが多過ぎるな」
馬超の何気ない一言が、の胸を突き刺す。
痛みすら覚える衝撃的な言葉は、けれど、馬超の意図するところとは正反対だった。
「……いきなりすべて、という訳にはいかぬだろうが……少しずつでも、こうして分かればいいな」
違うと切り捨てるのではなく、違うからこそその異なる部分を分かり合おうとしている。
馬超の想いがの胸一杯に広がって、泣きたくなった。
「……うん……」
頷くのが精一杯になったに、おもむろに馬超の手が伸びる。
「! ……だ、だめっ!」
うっかり流されそうになるは、慌てて馬超の手を押し留めた。
案の定不服気な馬超に、こっちだって滅茶滅茶その気になってんだとぶちまけてやろうか、と一瞬迷う。
が、幾らなんでも大人げないと思い直して、自身を諌めた。
「…………お医者、早めに掛かるから」
精一杯の譲歩に、馬超も渋々頷いた。刹那に見せた驚きの表情からして、察するに馬超もまた、の『病』を忘れていたのだろう。
未練がましく、の体をちらちら見ている。
「……俺は、お前からなら、病をうつされても構わんぞ」
「私が嫌だもん」
よりにもよって、馬超が股間を掻く様など見たくはない。
絶対に、だ。
の病の症状を知らない馬超は、やはり不服気な顔をしてを見ている。
事実を知ったら見物かもしれない。それはそれで魅力的だとあっさり気持ちが切り替わり、不遜な考えを振り切るのに難儀した。
馬超は、その間も諦め悪くを見詰めている。
「……口でしようか?」
そこまで無念かと呆れ入る。
何気なく放たれたの言葉を受けて、馬超は可笑しくなる程真剣に悩み出した。
「……否……否、いい。お前の中がいい」
苦悩の果てに出した答えは、かつて誰かが言ったのと同じ答えだった。
「男の人って、そんなに中のがいいもんなの?」
「……誰と比べて言っている」
しまった。
迂闊な質問に噛み付かれ、は自身の軽口を悔いた。
後悔したところでなかったことにも出来ず、馬岱曰く『まったく仲の良い』口喧嘩を、二人は飽きもせず、それこそ朝まで繰り返すのだった。