「それは」
 注意して居なければ絶対に分からないであろう一瞬の間が入る。
「さぞ、驚かれたことでしょうね」
 馬岱の顔に然したる変化はない。
 は不思議なような当然のような、複雑な心境に陥る。
 馬岱という人となりを鑑みるに、この反応は極当然と言えば言えた。
 しかし、(が)驚いただろうという表現は婉曲に過ぎて、馬岱の真意が見抜けない。
 それがを複雑な感情に追いやっているのだろう。
 馬岱は穏やかに微笑むと、小首を傾げた。
 何と言っていいか迷っている、という風を装っている。
 そんな風に見えた。
「驚いた、と申し上げたのが、お気に障りましたか」
「そうじゃ、ないですけど」
 ここで驚くべきは、むしろ馬岱でなければならないのではないか。
 突然の、そして今更の告白である。
 言い難いことだとは理解できても、もう少し早くに打ち明けてくれてもいい、と焦れてもおかしくないことではないだろうか。
 馬岱は、頬笑みを苦笑に変え、茶を啜った。
 一呼吸置いて、改めてに向き直る。
「あのですねぇ、殿……普通、女性が男に、しかも親しくしているとは言え、否、親しくしているからこそ、言わずに置きたい事柄ではありませんか?」
 子を亡くしたなど、有難がって言い触らすようなことではない。
 まして、腹の子は亡骸すらない状態で喪われている。
 水泡と変わらぬ、命と言っていいかも怪しい死である。
 気の利いた医師であれば、上手く誤魔化してなかったことにしてもいいようなことだ。
 馬岱の言葉に、室の端に座っていた凌統が、むっと口の端を歪める。
 目敏く認め、馬岱は謝罪を口にした。
 そんな様が小賢しい、と凌統は思っている。
 凌統は、己が卑屈になっていると感じながらも、どうしても馬岱を良く思えなかった。
 一応とはいえ、君主直々に世話役を仰せ付かっている。
 だと言うのに、昨夜まんまとだまくらかされたことが、凌統の気持ちをささくれ立たせるのだ。
 宴を引けた後、ご機嫌伺いと称して顔を出したのだが、その時応対に立った馬岱は馬超は先に室に引っ込んだなどと、いけしゃあしゃあと答えた。
 今にして思えば、嘘ではないものの、本当のことを言っても居ない。
 馬超が引っ込んだのは割り当てられた室ではなく、の室だ。
 誰の、とは言っていないからあからさまな嘘ではないが、本当のこととも言い切れない。
 敢えて室に招き入れ、茶でもと勧める馬岱の呑気さに、ついつい信を寄せたがこの様だ。
 勿論、凌統とて馬岱の言をそのままうかうか信じた訳ではない。
 では御無礼してと、無神経を装って茶を馳走になり、馬超の寝息が聞こえないとちくりと嫌味まで発している。
 対して、馬岱は動揺することもなく、極々自然に『従兄は深く眠る性質であり、寝息はいつも聞こえない』『もしや、客人が居らしているのに寝かしたままの私の無礼をお咎か』『これは気付きもせずに申し訳ない、今すぐ起こして参りましょう』等と、三段に分けての嫌味返しを繰り出されたのだ。
 いかにも田舎者らしい、素朴かつ鈍臭い馬岱の様に、凌統は本気で申し訳なさを感じ、その場ですぐに室を辞した。
 夜分の来訪を詫びるおまけ付きで、である。
 よって、凌統の不信感は凄まじい勢いで膨れ上がっている次第だった。ちょっとしたことで目くじらを立てるのも、仕方がないと言えば言える。
 不貞腐れている凌統は置き去りに、馬岱は再びに向き直った。
殿は、どうも、一を決めれば十まで押し通す嫌いがあるようですね。悪いとは申しませんが、良いことでもありますまい」
 優しげな口振りに、は恥ずかしそうに縮こまった。
 馬超に言ったのだから馬岱にも、と考えていたことをずばり見抜かれて、ぐうの音も出ない。
「……言わない方が、良かったですかね……? 後で、誰かに聞くよりは……と、思ったんですけど」
 人から聞き及び、本人に対してどうして言ってくれなかったのだと憤る者は少なくない。
 が案じていたのは、正にそんな場合だ。
 馬岱は思案するように首を捻る。
「そういうことも、あるやもしれません。知った上でこんなことを言うのは卑怯かもしれませんが、私はそのような話を吹聴する輩こそ、蔑して然るべしと考えますが」
 子を亡くした痛みを感じるに、その母が感じるそれに勝る者はない。
 であればこそ、己を律し、立てられぬとされる口にも戸を立てなければならない。
 立てられぬと言うのであれば、己が蔑まれ罵られることを覚悟すべきだろう。
 綺麗事だと凌統は思う。
 そんな理屈が通るのであれば、この世界はもっと穏やかだったろう。
 しかしは、馬岱の言葉に深く耳を傾けている。
 面白くなかった。
 けれど、こんなことで突っ掛かれる程、凌統も幼くない。
 黙って居るより他なかった。
「仮に、殿の仰るように、何も知らぬ時に訳知り顔でそんな話をされたならば、腹を立てていたかもしれませんが……結局、それも想像でしかありません。とにかく、今の私が感じているのは、そんなことを話させてしまった己への不甲斐なさへの怒り、そんなことまで話して下さった殿への憐みとも付かぬ愛おしさのみですから」
「おい」
 ここに来て、凌統と同じく無言を守っていた馬超が口を開く。
 腹を立てているのは一目瞭然だった。
「何ですか、従兄上」
 けれど、馬岱はしれっと流す。
 ここの辺りは、さすが長い付き合いのことだけある。
 絶妙の呼吸で流された馬超は、変に噛み付くことも出来ず、口を尖らして黙った。
 馬岱は、視線の先を馬超からに戻す。
「どう申し上げていいか。殿は、誰にでも平等に付き合おうとなされるが、私のように良いと思う者は置いておくとして、中には悪く受け止める者も居るのですよ」
「それを見抜く目を持て、ってことですか……?」
 の恐る恐るの言葉に、馬岱はまたもうぅんと首を傾げた。
「そんな風に言う者も、確かに居るとは思いますが。しかし、それは結構な難題だと思いますよ。特に、殿のような方には。それに、一目で必ず相手の気質が見抜けるのであれば、この世の揉め事は相当に少なくなりましょうに」
 然り、である。
 例え相手が正当であろうと、本人が『間違っている』『歪んでいる』としてしまえば、相手が間違い、歪んでいることになる。
 これは、主観と客観の問題なのだ。
 人は、大概の場合において主観を基に判断を下す。
 常に客観的に物事を考えられる人間など居ないし、中には主観しか認めないといった病的な人間も居るが、そんな人間と話をして、気持ち良く会話を楽しめるとは思わない。
 だが、最初からそういう人間なのだと知り置くことは、まず出来ない。
 他者の主観に於いて判断するのは愚かだし、接触して初めて『知る』ことになるのだから、とにかく会話をしてみなければ、それこそ話にならない訳だ。
 あー、うー、と悩み出したに、馬岱は頬笑みを以て和ませる。
「ですから、備えるべきはまず、そのような者と知り合ってしまった時に、無駄に傷付かないよう構えることですね。誰に彼にでもなく、信を置ける人間にのみ真意を伝え、裏切られた時には精々人を見る目がなかったと溜息を吐くくらいに納めておくことです。何に付け、そんな相手は己に非があるとは思わぬでしょうし、ならば殿が一人傷付き落ち込むのでは割に合わないではないですか」
「割に合わないって」
「言い方を変えましょうか。そういった類の者は、殿が落ち込めば落ち込む程浮かれるものですよ。言わば、殿の気を吸い上げ、奪い去っているようなものです。気にするなとは申しませんが、気にしない素振りに努めることで相手を牽制し、被害を最小に納めることです。どうしても我慢できないというのであれば、私なり従兄上なりに吐き出して下さればよろしい」
 ね、と笑う馬岱は、あくまで穏やかだ。
 けれどは、その言葉の重みを誰よりも感じ取っている。
 馬岱の今の言葉は、自分と馬超だけは決して裏切らないと宣誓してくれたも同然だった。
 誰が何をどう言おうと、自分と馬超はの味方で居ると言ってくれている。
 さりげなさに紛れ、誰にも勝る優しさを言葉にした上、恐らく本当にそうするだろう馬岱に、は思わず泣きたくなった。
 感動するを余所に、馬超と凌統はしらーっと白けている。
 自身の存在を空気に追い遣られて、面白い訳がない。
 特に凌統は、話の端にも引っ掛からない己の立場に、いい加減嫌気が差してきていた。
 うっかり白い目を向けているところに、馬岱とばっちり目が合う。
 しまった、と内心蒼白になるも、今更取り返しようがない。
 馬岱は表情を変えず、未だ感動に浸っていると思しきに目を落とす。
「それに、凌統殿もいらっしゃいますしね」
 いきなり名前を出され、慌てる。思わず、組んでいた足を意味もなく下ろし姿勢を正した。
 も凌統を振り返り、恥ずかしそうに、また嬉しそうに笑って頷く。
「ちょうど昨夜、凌統殿から話を伺う機を得まして。今は我らの世話役を任じて下さっているのですが、先日までは殿の御世話役を務めておいでだったとか」
「うん、そう」
 凌統が答える前にが答えてしまい、本人を前に二人して盛り上がっている。
 こんな親切をされたとか、あんな気遣いをしてもらったとか、こそばゆくて仕方がない話を平然と、延々とされる。
 否、歴とした尋問を、馬岱が体良く会話の形を取り繕っていることは、凌統には一目瞭然だった。
が世話になっていたのだな」
 すまんな、と馬超に礼まで言われ、凌統の顔が引き攣る。
 の呉での暮らしぶりを知るのみでなく、凌統の自尊心を心地よくくすぐり、挙句馬超に頭まで下げさせる。
 露骨な礼には却って反発を覚えるという、厄介な凌統の気質を良く見抜いた『戦法』だった。
 すぐにそれと気付いても、なかなかどうして抗えない、まったく嫌な遣り口だ。
 宴の後、孫堅からこっそり耳打ちされたことを、凌統は今にして実感する。
――あれは、相当に食えない男だ。
 孫堅の言葉が、ただの助言である筈もない。
 宣告することで、凌統にすべて放り出してきたのだ。
 ここに来てようやく孫堅の真意を覚った凌統は、恨み言を吐きたくとも君主相手ではそうもいかず、かと言って、この期に及んで投げ出す訳にもいかない。
 苦虫を噛み潰したような凌統に、は首を傾げる。
「……私、人と約束してるから、出るよ」
 立ち上がり、纏めてあった荷物を手に取ると、は凌統に向き直る。
「公績も、一緒に行こ。ちょっと、話があるんだ」
「何の話だ」
 凌統より先に、馬超が噛み付いて来る。
「公績にって、言ってるでしょ。ここ空けるんだから、自分の室に戻っててよ」
殿さえよろしければ、私共で留守をお預かりましょう」
 間髪入れず馬岱が口を挟み、は凌統を振り返る。
 いきなり振られた凌統が、投げ遣りながらも頷くのを見て、もこくりと頷いた。
「じゃあ、すみませんけど」
 二人に、と言うより馬岱に後を託し、は凌統と共に室を出て行った。
 馬超は、険しい目で閉ざされた扉を睨め付けている。
「なかなか、手強い方のようですね」
「……何がだ」
 馬岱が何を言っているのか、馬超には分からなかった。
 不可思議そうに馬岱を見上げる馬超に、馬岱は微笑み、何事もないかのように取り繕う。
「お茶でも如何ですか、従兄上。それを飲みながら、ゆっくり対策を練るといたしましょう」
 馬岱の勧めに、訳が分からないながら馬超も同意する。
 他愛のない策謀が交差しつつあった。

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