が一歩前を行き、それを凌統が追い掛ける。
 前のめり気味に歩いているとは打って変わり、凌統の方は後ろ頭に腕など組んで、酷くのんびりして見える。
 それでも二人の距離が離れないのは、偏に足の長さの差と言えよう。
 わずかに離れていたその距離を、凌統はただの一歩で埋め合わせた。
「ちょっと、回ってくよ」
 指差す凌統に釣られ、はその指先の指し示す方に目を向ける。
 冬とは言え、常緑樹を揃えた庭には厚い葉を生い茂らせた木々が立ち並んでいた。
 何かに付けてここに行くことになるな、とはぼんやり考えた。
 あまりいい思い出ばかりでもないが、密談するには相応しいのかもしれない。
 是が非でも隠さねばならないことではないけれど、出来れば隠しておきたいようなことの多いには、余計に相応しいようにも思える。
 室に二人きりになるのと違い、あらぬ疑いを掛けられる心配もない。
 凌統相手にそんな疑いを掛けられても困るのだが(誓って凌統の為に、だ)、いい加減にも少しは用心するべきだった。
 不用心に過ぎる。
 自覚してもしても、その度にすっからかんと忘れ去る。
 我ながら『イイ』頭の作りだと、空を見上げて絶句したい衝動に駆られた。
「……ここらでいいか」
 と異なり、察しの物凄く良い凌統は、先の一言でも知れる通りの思考など既に見越していた。
「何か相談事でもあるってのかい?」
 わざと軽く言ってくれているのだろう凌統に、は複雑な笑みを浮かべる。
 言い難い。
 けれど、言わずには居られない。
「……お医者、探してくれないかな」
 小さな声だった。
 凌統が目を瞬かせている。
 聞こえなかったかとうろたえるだったが、そうではなかった。
「何で、医者」
 不思議そうに訊き返して来る辺り、声が届かなかったという訳ではなく、その願いの突拍子のなさに戸惑っていたものらしい。
 確かに、医者を呼ぶのにわざわざ凌統を通す必要など、ない。その辺に居る家人に頼み、連れてきてもらうことに何の差し障りもない。
 凌統の戸惑いが良く分かるだけに、は口籠る。
 その沈黙は、凌統に幾つかの『察し』を付けさせた。
「……おい、まさか」
 表情を強張らせる凌統に、は目を丸くする。
「また……」
 続けざまに放たれた言葉に、ようやくその意図に気付き、は頭と手を盛大に振った。
「違う違う、赤ちゃんじゃない」
 疑り深げにを見ていた凌統は、しばらくしてこくりと頷いた。
 あまりにいきなりの話で、頭を振りまくっていたせいもありの息切れは激しい。
 ぜいぜいと息を吐いている間に、凌統も軽く息を吐き出し気を落ち着かせた。
「……びっくりさせるなよ。じゃあ、何だって」
「びっくりしたのは、こっちだよ!」
 まさか、受胎を疑われるとは思ってもみなかった。
「赤ん坊じゃないってことは、堕胎の相談でもない訳だろ?」
「当たり前だよ」
 さらっと恐ろしいことを口にする。
 けれど、実際にそうなってないからこその『当たり前』であって、本当にそうなったら自分がどう考え動くのか、にも分からない。
 分かりたくないだけに、落ち込んだ。
「……悪かったって」
 敏く察した凌統が、軽口を装って詫びる。
 も笑みで答えるが、別に凌統が悪いと言う話ではない。いつか現実になるかもしれない、それも相当な確率で予期される未来だ。
「せめて、コンドームでもあればねぇ……」
「は?」
 胸の内で留めたつもりが、ぽろりと口から零れていた。
 訝しげな凌統に、は顔を真っ赤にして誤魔化す。
「なっ、何でも、ないっ! ……それで、あの、そうじゃなくて、お医者をね」
「あぁ、医者」
 納得した訳でもなかろうが、凌統は軽く頷いて素直に従う。
 建設的な話ではないと、見切っていたのかもしれない。
 そして、それは合っている。
 情けないような自嘲したいような、とにかくやさぐれた気持ちになって、その分の口は軽くなったようだ。
「あの……下の、そういう、病気を見てくれるお医者って……いるかな……」
 消え入りそうな声ながら、ここまで言えた。
 声の大小による聞き間違え以外には考えられない程度に、はっきりと言えた。
 凌統の応えは、ない。
 聞こえなかったのかとチラ見すると、凌統は顔を赤くし、絶句していた。
 それは、そうだ。
 釣られても赤面すると、凌統は言葉にならない呻き声を上げ、髪を掻きむしった。
「アンタ、ホントに、俺のこと何だと思ってんだよ……」
 怒った、と言うよりは呆れた、疲れ切ったと言わんばかりの声音に、は肩をすくませる。
「あ、う、ご、ごめん……」
 詫びるより他、ない。
 縮こまるを見下ろし、凌統は唇を突き出して低い唸り声を漏らす。
「……ってーか……こんな時の為に、侍女を雇わせてやったんだろうに。当帰、じゃなかった、文無に言えよ」
 凌統としては、を気遣っての小言のつもりだった。
 が、の表情が一転して曇るのを見て、眉間に皺を寄せる。
「おかぁ、も、当帰……さんと、今、ちょっと喧嘩してて……」
「はぁ!?」
 思わず頓狂な声を上げる凌統に、は申し訳なさそうに、文字通り委縮する。
 あまりと言えばあまりな縮こまりようで、これでは責めるに責められない。
 凌統は頭痛を堪えつつ、渋々と聞き取りを始めた。
「……喧嘩って何。どっから始まった」
「え、と」
 悩んでいる風なではあったが、凌統の目を見て諦めたらしい。重い口を開いて、ぽつりぽつりと語り始める。
 切り口に出されたのは、の『仕事』に関しての話だった。
 が物語とやらを書き記しているのは、凌統も知っている。
 蜀に在る尚香が、それを至極楽しみにしていることを知らぬ者など、この城中にまず居ないと言い切って良い。
 そのが、『知り置いている』物語を記すのではなく、『己で考えた』物語を記そうとして、その内容の過激さ(?)故に当帰の怒りを買った下りを聞くに及び、凌統は頭を抱えた。
 から詫びに赴き、それでも尚激しく衝突して、成り行きから『姐さん』の話を知るに到ったことも、正直頭痛以外の何でもない。
 険しい顔を見せる凌統に、は怯えたように目を伏せた。
「……アンタに怒ってるんじゃないよ」
 言い捨て、凌統は溜息を吐いた。
「否、アンタに怒ってるって言うか……アンタがそういう、訳の分かんない考え方する奴だってのは、いい加減こっちも覚えたつもりだったけどね。だけど、何も当帰が、挙句に旦那の方まで一々馬鹿丁寧に付き合ってくれることはないじゃないかって、そういう話だよ」
 凌統から言わせれば、も、当帰も、宿の主も皆心得違いをしている。
 是とするべきところを是とせず、否と言うべきところで否と言わず、自分の都合の良いように(傍から見れば混迷に突き進んでいくようにしか見えないにも関わらず)受け答えしている。
 主従の心得、友としてある時の節度、家族たる規律、皆が皆、量ったように悪い方へと考えをあてはめ用いて、それで事が混乱している。
 が悪いと言うよりは、むしろをきちんと律せないのが悪いとするべきだった。
「でも」
「アンタはさ」
 何事か言い差そうとするを、凌統は切って捨てた。
「自分が悪いってことにすれば満足みたいだけど。それ、偽善もいいとこだっての」
 偽善と言う言葉に、は青ざめる。
 胸の内には心当たりがあり過ぎるのだろう、抉ってさえいるようで、凌統も少しばかり気が引ける。
 だが、言わずに置いていいことではない。
「……そっちのが、楽かもしれないよ。ある意味、さ。だけど、それですまないこともあるんだ。まぁ、ある程度言い合って、それですっきりさせたいってのかもしれないけどね」
 が言い争うのは、実のところ珍しい。
 心を許した者にだけそういう態度に出ることを、凌統は日頃の観察で見抜いている。
 ただし、それですっきり落ち着かなかったということがなかった。
 言い合った後は必ず綺麗に和解しているだけあって、だからこそ和解に及ばなかった当帰に対し、妙に気弱になっているのだと凌統は断じている。
「当帰の言い分は、少なくとも家臣のそれじゃないっての」
「でも、……結局、全部、私から言ってることだから……」
 凌統が当帰を悪く捕らえるのはそのせいではないか、とは言外に匂わせる。
 唇を噛むに、凌統は眉間にむず痒さを感じて、一頻り掻いた。
 片方の話をのみ鵜呑みにするつもりはない、見くびるなと言うのは易しいが、凌統としても今、と無駄に言い争うつもりは毛頭ない。
 第一、面倒臭い。
 こんな気持ちをいい加減察してもらいたいものだが、が気付くことは恐らくないだろう。
 甘え、甘えられているが故に、だ。
「……そりゃ、アンタの話だ、アンタに有利に話してるってことも、考慮はするさ。まぁ、当帰の方には俺も一言言わせてもらうよ」
「い、いいよ」
 それでは、まるで子供のようではないか。
 が渋るのへ、凌統は敢えて険しい目を向けた。
「アンタなぁ。当帰を紹介したのは、他ならぬ俺だっての。その俺を差し置いてそんな話されてたら、俺の立場ってものがないだろ?」
 紹介者たる凌統が口を挟むのは、別におかしな話ではない。
 これぞと見込んで紹介した者が暴走したとなれば、文字通り面子を潰されたと言って過言ではないのだから、凌統の主張通り凌統がしゃしゃり出ることこそが筋だ。
「……って言うか……お医者……」
 何とか話を逸らそうとするも、凌統は取り合わない。
「そのお医者ってのも、あの宿の近場に居るんだよ。ついでに話しに行くのにも、全然困らない距離だっての」
 ふふん、と鼻で笑われ、は心挫けたようにがっくり俯いた。
 ごめん、という小さな声は、そのせいかとてもか細く聞こえる。
 お陰で凌統は、『どんな症状なのか』『何の為に治療しようと思ったか』等と言うことを、つい聞きそびれてしまった。

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