話に区切りが付くと、凌統は執務に就くべく去って行った。
はその後ろ姿を見送り、溜息を吐いた。
本当にそうなのだろうか、と、空を仰ぐ。
凌統に指摘されるまで気付かなかったが、確かには何に付け自分が悪いとしている傾向があるかもしれない。
確とはしていない。
幾つかの記憶を手繰り寄せても、はそれなり言い返したり腹を立てて来た覚えがある。自分が悪いと引いたこともあるにはあるが、『いつも』と称せられる程ではないと思う。
けれど、対外的に考えれば、の態度はそう取られていてもおかしくなかったかもしれない。
自分が悪いとまでは決め付けなくとも、自分が引くことで場が収まるならと引くことは多かったように思う。
特に、色恋沙汰ではそうではなかったか。
好きだ、愛しいと囁かれ、欲されれば目を瞑って受け入れる、の繰り返しだったと思うのだ。
そんな曖昧な態度が、ささやかとは言え凌統の怒りを買う理由になっているのだとすれば、はそんな自分を変える努力をするのにやぶさかではない。
だが、本当のところはどうなのだろう。
にも、物欲しげなところがあったのではないか。
何せ、あれだけの美形美丈夫から次々告白されているのである。勿体ないとばかりに、うかうか体を開いているところはなかったろうか。
ふと思い返す。
これは、乙女ゲーの感覚なのではないか。
あちこちにフラグを立てて、通常であればその相手とのみで終わるところを、他の相手からのラブコールは留まるところを知らない。
単なるバグでなく、皆が皆自分以外の誰かの存在を分かっていて、更にそれで良いと納得している、または納得しようとしている状態である。
そこで、あぁ、そうかとは一人呟く。
「都合が良過ぎて、気持ち悪いんだよね」
そんな奇怪な関係は、にのみ都合が良いものだ。
のほほんと受け入れられれば良かろうが、受け入れられないから今の状態なのである。
一人の人を愛し、一人の人から愛される。
言葉にするのは簡単だったが、も、の周りの人間も、誰一人としてこなせていない。
その上、恐ろしいことにこれは現在独自の理論なのだった。
この地では、正妻の外に妾を持つのが極当たり前とされている。一人を愛し愛されというの常識は、極々当然の話としてまったく通用しない。
どころか、婚姻に愛が存在するかも甚だ怪しい。
婚姻はむしろ、根源的な契約に近しいものに過ぎないようだ。
つまり、生きる為に、また子孫を育む為の共同作業の相手というのが、夫であり妻であると言った風がある。
孫策と大喬、周瑜と小喬のように、如何にも恋愛恋愛している夫婦は珍しかった。
けれども、この組み合わせにしても、どうなのだろうと思わないでもない。
孫策と周瑜は、最初から嫁取りの目的で二喬に会いに来たらしいし、二喬が二人を選んだのも、結局は二人を娶るに足る強い将だったから、という設定だった。
出会って惹かれてという、にとって『当たり前』な恋愛は、この世界では皆無なのかもしれない。それ程余裕のある世界でもないのだろう。
責めるのも道理ではないが、だからと言ってを納得させるには遠く至らない。
視線を空から大地に戻す。
この程度の底の浅い思索では、それ程時間は経って居るまい。
約束があると言って出てきた手前、は少なくない時間を潰さなくてはならなかった。
さてどうするかと考えても、然して名案も浮かばない。
遊びに行くような場所は思い至らないし、人に会おうにも、そも会ってくれるかどうかさえ怪しい。
スケジュール帳を付けなくてはならない程度に埋まっていた約束は、一切合切無効になっていた。
どうも、大会前に公平を期す為にとか何とかで、に会うのを手控えているらしい。
最初は何となく違和感を覚えていただったが、張昭にそれと教えられた時は鼻で笑ったものだ。
しかし、気付いてみると本当にそうだった。
凌統や馬超こそどこ吹く風で顔を出してくるが、武闘会の開催が決定してから、他の将達は暗黙の了解の如く姿を消している。
何を以て公平と定めたのかは定かでないが、そんな訳でから押し掛けるのも相当気が引けるような具合である。
となれば、後はお決まりになった散策で時間を潰すより他なかった。
纏めた荷物を一度広げて、最近愛用の毛織物を取り出す。
馬岱もとい馬超の手土産なのだが、あまりの暖かさにがこれを手離すことはほとんどない。
ストールに良し、膝掛けに良し、毛布に良しと、やや重量があるのだけが難点のそれを、は甚くお気に召していた。
元々、こうなるだろうことは予想していたので、持参してきたのだった。
最初から被って出歩きはしないものの、一言断りを入れた後にはなかなか堂々と使い倒している。
茶会にしても、勉強会にしても、座る、外に出掛けるとなるとほぼ必ず使っているのだ。
多分だが、例え落とし物をしてしまったとしても、すぐにの元に届けてもらえるだろうくらいには、周知されていた。
だからだろう。
「殿」
頭から布をすっぽり被って、しかも後ろ姿のこけし状態だというのに、だと見抜いた者が居る。
椿の木影から姿を見せたのは、陸遜だった。
やたら久し振りという気もするのだが、武闘会の開催が決まった時には居合わせたのだから、これはの気のせいだろう。
久し振りという挨拶を呑み込んで、は一礼をするに留めた。
そのまま立ち去るかと思われた陸遜は、さり気なくの隣に立った。
「散策を楽しまれているのですか」
楽しんではいないが、しようとしていたところである。素直に頷いた。
陸遜はの真隣に立ち、爪先は出発を促すように進行方向に向かっている。
同行を断る理由はなかったが、果たして陸遜はいいのか。
窺うように陸遜を見遣ると、陸遜は苦笑を滲ませた微笑みで答えをくれた。
「私は、武闘会には参加しませんから」
陸遜不参加の宣言に、は目を丸くした。
大好きとは思わないものの、この手の試合に顔を出したがらないようには到底思えない。
何となれば、結構負けず嫌いで自尊心が強い印象があった。
無双の武将達は大抵そうだと思うのだが、武将より文官の負け惜しみ(撤退時台詞)の方がより一層負け惜しみじみているように思う。
中でも陸遜は、丁寧な言葉遣いに徹している分、却ってこだわっているように感じられた。
そんな少年ぽさを色濃く残した陸遜が、自身の腕試しには絶好の機を逃すなど、にわかには信じ難い。
の表情から何か察したのか、陸遜の頬がかぁっと赤くなる。
「違います!」
何がだ。
の目が丸くなると、陸遜は急にオタオタし出す。
寒いのに(実際、その格好も少しどころでなく寒そうなのだが)汗まで掻いて、気まずげに髪を撫で上げている。
「ですから、決していらないとかそういうことではなく、むしろその逆と言うか、その……殿は、平気なのですか?」
だから、何がだ。
ますます不審になるに、陸遜は焦れたように唇を噛む。
「ですから……だって、景品にされているというのに」
「あぁ」
初めて思い当って、は間の抜けた声を上げる。
呑気だと受け止められたか、陸遜の顔は更に赤くなり、綺麗に整った眉尻が、くんと上がった。
「あぁ、って、ご自身の話なんですよ。嫌ではないんですか」
「嫌っちゃ嫌だけど……」
陸遜は、歯切れの悪いを責めるような眼差しで見詰めている。
どう説明するべきだろうかと、は眉根を寄せた。
「だって、嫌って言っても、どうせ聞き入れてもらえないでしょう」
「それは……それは、殿が本気で嫌がって下されば」
陸遜は好意で言ってくれているのだろうが、何か引っ掛かった。
それが何か分からなくて、は沈黙する。
苛立っているのを感じ取ったか、陸遜の頬から血の気が引いていった。
「……申し訳ありません、お気に触ることを申し上げたようです」
謝りはするが、恐らくが何に腹を立てているのかまでは分かって居るまい。
とにかく謝って機嫌を取ろうという陸遜に、微妙なずる賢さを感じる。
意地の悪い見方をすれば、とりあえず自分が折れてみせることで相手を宥めているだけで、何ら根本的な解決には至っていない。
景品にされて可哀想だと言うのなら、陸遜が先頭切ってを景品にするなんてと抗議してくれても良いではないか。
――さすがに、厚かましいか。
が受け入れているように見えると言うなら、それはきっと諦めているからだ。
どうせ、自分が騒いだところで本気に受け取ってはもらえない、そんな情けない諦観から生す負け犬根性を発揮しているだけなのだ。
陸遜の言う通り、嫌ならせめて、嫌だと喚くなり駄々をこねるなり、室に閉じ籠もってストライキするなりすればいい。
それさえしないで、陸遜に『うかうか受け入れるなんて』と責められて腹を立てるのが厚かましい。
曖昧な笑みを浮かべるに何か覚るところがあったか、陸遜も口を閉ざす。
沈黙が落ちたが、耐えきれずに口を開いたのはやはり陸遜からだった。
「私だったら、嫌です。そんな、勝者の景品にされる等……そう、思ってしまったものですから」
へぇ、と感嘆めいた声が漏れていた。
馬鹿にされたと取ったか、陸遜の顔が赤くなる。
そんな陸遜を、はまじまじ見詰める。
「あぁ、何か、初めてかもしれない」
「……何がですか」
「考え方、同じ人に会うの」
の言葉に、陸遜が目を見張る。
それはそうだろう、がこの世界に来て早一年くらいにはなる。その間、ほぼ誰とも考えが、ひいては常識が合わなかったとなれば、が味わっただろう労苦の程は並大抵ではない。
陸遜ならずとも、思わずはっとさせられる衝撃の告白に、しかし当のは、己の放った言葉の重要性に気付いた様子はない。
受け入れてくれる人は居ても、同じように考える人は居なかった。
の身の内に沸く感動は、思いの外に巨大だったようだ。
押し込めていた本音が、閉じた口をこじ開ける程度には、大きかった。
「……本気で嫌がるって、どうしたら本気って受け取ってもらえるか、正直分かんないんで。……って言ったら、人のせいにしてるよね。何て言ったらいいかな。嫌なのは嫌なんだけど、何か……うん、もう仕方ないかなって、流してる自分が居るって言うか」
陸遜が戸惑っているのを覚った。
夢や大望、宿望、野望をしっかり持ち合わせている陸遜達には、恐らくのような現代に生きる人間のふわふわした不安を理解出来はすまい。
何となく毎日が流れていく、それが幸福であったり恐怖であったり、境界線のない茫洋とした憂鬱を抱え込んだ現代人の心理など、陸遜のように必死に生きている者からすれば、単なる甘えに過ぎなかったろう。
なればこそ、は卑屈になる。
必死に生きている人々が眩いだけ、自分の持つ曇りが下等の証に思えて、臆病になるのだった。
陸遜には何ら責のあることではなく、純粋に一人に変質を求めるだけの話だ。
だが、それが難しいのは自明の理であろう。
誰しも、己が信じ守って来た道徳を投げ捨てることは難しい。過去を投げ捨てるのと、早々変わらない。
おかしな話、信号を守らぬ人間に守れと説教したところで、なかなか守れぬのと同じことだ。酷い時には、何故守らねばならぬのかというところから理解させなければならない。破ることに意義を見出す者もあるから、殊更骨が折れる。
説明しようがなくなって、はこの問答を終わりにしようと決めた。
互いに答えられない不毛さを、陸遜相手に堪える元気も根気もない。
「……って言うか、孟起とか馬岱殿が何とかしてくれるかなぁって。何か、そう思って」
嘘ではないから、罪悪感もない。
馬超と馬岱の名を出した途端、陸遜の頬は膨らむ。
「殿が特段お嫌でないのでしたら、やはり私も出場すれば良かったですね」
まるで、出さえすれば優勝は確実だったと言わんばかりの口振りだった。
少年らしい不遜な自信が却って愛らしく映り、は微笑む。
の笑みを陸遜がどう受け取ったかは分からなかったが、気を害した様子はないからいいように受け取ったのだろう。それを機に、話は武闘会そのものに移っていった。
陸遜の話に拠れば、やはり参加者が多くなり過ぎる傾向にあったので、各軍団から一人、代表を選出して送り出すことに決まったのだそうだ。
これなら、練兵中に訓練を兼ねての模擬戦を行えば済むので、時間の短縮になる。
陸遜の軍は予想を外すことなく陸遜が勝ち残り、代表の座を得たのだが、陸遜は兵士達を説得し、辞退することに決めたのだと言う。
素直に従ったかどうだか、ともかく辞退そのものは決定したのだから、兵達は不承不承であっても了承したのだろう。
「って言うか」
ふと気付く。
「それ、陸遜殿が参加するだけして、優勝して、景品辞退してくれれば良かったんじゃ」
陸遜は一瞬白くなり、ついできゅっと眉根を寄せた。
雄弁な沈黙が生む重圧に、も圧倒される。
ようやく気付いたのだろう失策を、胸の内で激しく責めているのが表情から滲んで見えていた。
負け台詞を吐きながら撤退してしまいそうな勢いに、も自分の軽口を後悔しつつある。
その時だ。
「あ」
陸遜の表情が不意に変わり、の背後上空を見遣る。
も釣られて振り返ろうとした瞬間、圧倒的な力で抱きすくめられていた。
「しゅ、周泰殿……!」
相手が誰か、陸遜の言葉で察知する。
が、当の周泰の姿を見ることは、には出来ぬままだった。
視界が急に高くなったのは、長身の周泰に抱き上げられたからだろう。
それだけなら未だしも、後ろからがっしり拘束された上に頭の天辺に周泰(の、筈だ)の顎が刺さる形なもので、周泰の顔が見られない。
相手を確認できない不安からは混乱を来たし、まずは何とか逃れようとじたばたもがくばかりになった。
「何をなさって居られるんですか、殿を降ろして下さい!」
「……断る……」
陰に籠もったようなこの声は、周泰に違いない。
武闘会に参加するべく、任地から戻って来たということか。
直接ここに赴いただろうことは、強い埃と汗の臭いで知れる。
周泰はを下ろすことなく、器用に腕と指を動かしを巻き締める。
それらは、わざとか無意識か、の微妙な部分を擦り刺激していた。
「うわ、うわ」
「周泰殿っ!!」
一向に『軍師』の命を聞こうとしない『武将』の様を、うっかり見掛けてしまった不幸な兵士は、幸いにして居なかった。唯一の目撃者たるは、生憎関係者のど真ん中に位置していて、軍紀だの軍律だのを気に留める余裕はない。
もっとも、本人達の主張はさておき、こんな他愛ないじゃれあいに軍紀を持ち出す無粋な者が居るとも思えなかった。