「信じられないと思われませんか?」
 川岸から中程に向かってずらりと繋がれた船の様は、連環の計を彷彿とさせる眺めだった。
 闘技会を開催するに当たり、まず関係者の頭を悩ませたのが会場の手配である。
 一つの練兵場ではこなせる試合の数に限りがあるし、かと言って幾つかに分けては見たい試合を取りこぼす恐れがあると、頑なに主張する者は少なくなかった。
 各軍個性が強過ぎて、練兵場の作りは合同演習にはやや手狭に、しかし数は多くというのが主である。
 合同演習ならば街の外で行えば良く、これまで不便はなかったのだ。
 けれども、この度の闘技会ではそうはいかない。
 呉では民と兵の差なく物見高い者が揃っている。
 見物したいと押し寄せた数は尋常ではなく、安易に街の外でという訳にも行かなくなった。
 蜀でこなしたものを、呉では出来ぬということはあるまい。
 一見正当性のありそうな主張に、他国への意地が加味されて、用意されたのがこの闘技場という訳だ。
 敵の襲来があるなら、狙われるのは間違いなくこの川岸からである。
 ならば、ここに闘技場という名の陣を張れば、何ら問題ない、というのが発案者の言である。
 船を利用するので会場の増減も容易く、またいざとなれば梯子を掛けて行き来も可能であり、切羽詰まれば(時期は度外視するとしても)川に飛び込んで移動できると言う無茶ぶりだ。冗談ではないことは、船の縁に垂らされた綱が物語っている。
 そうして出来あがった闘技場は、帆柱の上に登れば全体が見渡せるとか崖から闘技場を一望できる場所があるとか、見物場所の余談にも事欠かない呉軍自慢の闘技場となった。
 しかし、陸遜が興奮してがなり立てているのは、生憎とこの壮大な光景の話ではない。
「仮にも一軍を率いる将が、配下の兵を一堂に集めて、自分が出るって宣言したと言うのですよ! しかも、刀を抜く姿勢を見せて! それは確かに、予選の方法は各軍に一任されていますが、それにしたってこれはない。そうは思われませんか、殿!」
「はぁ」
 気のない返事に、陸遜の眉が吊り上がる。
 と言っても、仕方がなかろうとは嘆息する。
 どんなやり方で予選をやるか一任したからには、どんなやり方でやろうと各軍を治める将の勝手であろう。
 実際、その宣言を前にしていやいや自分がと名乗りを上げた猛者は居らず、闘技会の出場者はまま決定したと聞く。
 練兵を模するも何も、ほとんど時間を割かずに予選という面倒を片したのだから、最も有用な時間の使い方をしたとも言える。
 何より、どちらかと言えば大変『らしい』やり方であるな、と思うのだ。
 試しに想像してみると良い。
 腰の位置に刀を構え、いつでも来いと言わんばかりに柄に手を添え、眼光鋭く相手を睨め付け。
――……俺が、出る……――
 周泰の声が、鮮明に再生できる。
 ということは、やはり大変『らしい』行動なのだろう。
 陸遜は、が自分の怒りを理解してくれないことにいささか腹を立てているらしい。
 こちらはらしくもなく、苛々と、かつ刺々しく周泰の遣り口を口撃している。
 らしいと言えば、あくまで周泰の『遣り口』が気に入らないと激しているだけで、周泰個人の悪口は一切出ないのは陸遜らしい。
 坊主憎けりゃ袈裟までの例えの通り、一旦人の悪口を上げ始めると、あれもこれもとなりやすい。
 それを決してしないのは、とても陸遜らしいと言えた。
 もっとも、姜維に関してのみは、諸葛亮の愛弟子という立ち位置にあるせいか、妙に敵視している風ではある。
 陸遜が姜維の悪口を言っているのを聞いた訳ではないが、二人の遣り取りを見たことがあるだけに、何に付け例外と言うものは存在するのだなと考えさせられた。
 怒り醒めやらぬ陸遜の顔を、そっと盗み見る。
 軍師と言うものは、そんな例外ですら読み込んで策略を立てるのだろう。
 に将の才(というより、体力か)はなく、一応文官としての職を得てはいるが、他の文官達のように一軍率いて戦に参じるなど、到底無理そうに思える。
 参じることになったとしても、恐らくは書記を務めるのが精々で、戦場に立つこと等なさそうだ。
 ほっとすると同時に、暗澹たる気持ちにもなる。
 戦を人任せにする気満々で居る等、図々しいにも程があるのではなかろうか。
 民より良いものを食べ、良いものを着ている代償こそ、戦に参じる辛さ怖さなのではないか。
 それを、『恐らく自分は大丈夫』とは、いったい何様のつもりなのか。
 甘いなぁ、と溜息が漏れる。
「……殿?」
 気が付けば、陸遜が不安げにを見ている。
「ご気分を、害されましたか。私が、調子に乗ってしまったから……」
「いや、そんなことは」
 とりあえず誤魔化す。
 陸遜が延々周泰の愚痴を続けているのが辛かった、とは言えないが、関係ないとも言い難い。
 曖昧なに、陸遜も溜息を吐いた。
「つい、熱くなってしまいます。軍師として、あるまじき悪癖なのですが……本当に申し訳ありません」
 ぺこりと頭を下げられ、は無性に焦らされる。
 どちらの位が高いかは分からなかったが、いずれにせよ外聞のよろしいものでもない。
「わぁ、陸遜殿、やめ、やめて、お願いですから!」
 小声で囁き掛けるも、陸遜は頭を上げない。
「ホントに、お願いだから……お願いしますから、やめて下さいよ」
 やはり、上げない。
「陸遜殿!」
「私のこと」
 顔を覗き込もうとするの視線を避け、陸遜はひそと囁いた。
 何だ、と更に顔を寄せると、ちらっと上げたその顔が笑っている。
 おい。
 心の中でツッコミを入れて顔を上げるが、陸遜は未だ顔を下げている。
 何をしているんだと呆れるが、埒が明かないのでもう一度顔を寄せた。
「私のこと、伯言と、そう呼んでいただけますか?」
 またか。
 呆れた拍子に、眉を顰める。
 ようやく頭を上げた陸遜も、に倣ったように眉を顰めた。
「このくらいの我儘は、どうかお許しいただきたいものです。闘技会に参加できぬばかりか、参加しないというだけで、大会の運営を一任されてしまったのですから」
 あれから、陸遜は直ぐに不参加の取り消しを申し出に駆けたらしい。
 しかし時既に遅し、陸遜の不参加を折良しとして、大会運営の責任者として据えることが決定されていた。他に適任がないからこその押し付けと言うこともあって、陸遜の闘技会への再登録は遂に認められなかったという。
 執拗に周泰への愚痴を言い続けていたのも、自身の参加を却下されたことに対しての恨み言が変質してのことかもしれない。
「こんなところに居たか、陸遜」
 探していたらしい呂蒙が現れ、軽く手を掲げる。
「係の者が、どう動いていいか分からんと零していたぞ。行ってやれ」
 あちらだ、と指差す呂蒙に、珍しく陸遜の目は剣呑だ。
 慣れない視線を向けられ、呂蒙は困惑して首を傾げる。
「どうした、陸遜」
「……いえ、別に。私の軍のように、馬鹿正直に予選を行う軍も在れば、軍団長のただ一声で代表を決めてしまう軍も在り、呂蒙殿の軍のように、周りの部下が是非出るべきだと軍団長を推す軍も在り。我が呉は、軍によってこれ程色彩豊かなのかと感心して居たまでのことです」
 が呂蒙に視線を向けると、何故か呂蒙は真っ赤になって、何事か呻いている。
 陸遜は、大袈裟に深い溜息を一つ吐くと、に頭を下げて去った。
「その、すまんな」
「え?」
 呂蒙の突然の詫びに、は目を丸くする。
 何を詫びているのかまったく分からないに、呂蒙は歯切れ悪く『うん』だの『いや』だのとぶつぶつ呟き、結局上手く纏まらなかったか、不意に踵を返して立ち去った。
 去り際、小さく振り返り手を掲げたのへ、もにこりと笑って手を掲げ返す。
 周囲に居た兵士達が何故か甲高い声を上げ、くすくすと笑い出した。
 現代で言うところの冷やかしと同じで、意味まで同じなのかまでは分からなくとも、何となしに羞恥を覚えたの頬が染まる。
 唇を軽く噛んで頷いたところへ頭を叩かれ、危うく唇を噛み切り掛けた。
 振り返れば、凌統だった。
「危ないじゃないよ」
 衝撃は軽かったが、何となく頭を撫でて痛みを訴えてみせるに、凌統は笑って詫びを入れる。
「……あぁ、そう、もう一つ、謝っとかなきゃなぁ」
 凌統は、闘技会前にを医者に連れていけなかったことを詫びた。
 出来れば出来るだけ早いに越したことはなかったのだが、さすがにこの時期、を街へ連れていくことは叶わなかった。
 ならば医者の方に来てもらえばという考えもあろうが、それでは出来る限り内密にというの希望に添わない。
 本当に病を得たのであれば、内密にする訳にはいかないが、事が事だけにも恥ずかしい。
 もしかしたら、一過性の症状で、病気でも何でもないかもしれないのだ。
 公表するにも、きちんと事実が確認できてからの方が良いだろう。現実問題、あの激しいかゆみは、あれきりぴたりとなりを潜めている。
 ただ、やはり怖いのは怖いので、診てはもらいたいと思う。
「つか、俺も怒られたっての」
 凌統の手が、の頭をぐりぐり撫で回す。
「え、な、何で?」
 安定感のない駒のようにふら付くに、凌統はうぅんと呻いて見せた。
「……だってあんた、診てもらいたいって一言だけで、詳しいこと何にも言わなかったろう」
 些少でも、症状に関しての情報があれば見当が付けられたかもしれない。
 だが、何もなしでは答えようがないと医者から正論を突き付けられ、更には子供の使いかと説教のお駄賃までいただいていた。
「あ、ごめん……」
「いいよ。つか、俺だって……その、正直、説明されても困るっての」
 そこで互いに言葉が途切れ、同時に赤面する。
 何でも相談できる程度の信頼はあるが、底までぶちまける程の理ない仲でもない。
 としては、理性の線引きある心地よい関係ではあったが、こういう時は閉口するばかりだ。
「凌統様」
 二人の間におずおずと割り込む者が居る。
「参加者の方が、そのように様とお話しされていては、困ります。どうぞ、割り当てられた船の方へお戻り下さい」
 大喬だった。
 主家の嫁から与えられた命に、古参たる凌統は逆らわず、恭しく畏まった。
 嫌味に取られかねない仕草だったが、大喬には伝わらないらしく至って平然としている。
 あからさまにすべった凌統は、苦笑いしてに別れを告げた。
 振り返った凌統の足が、止まる。
 その方向に、甘寧が立っていた。
 どう見てもニヤ付いて居り、気のせいか体を小刻みに震わせている。
 こちらの遣り取りを見ていたのだろう。
「………………甘寧ぃっ!」
 凌統は低く唸り、甘寧の方へ駆け去って行った。
 甘寧も、凌統が駆け出すと同時に駆け始めていたから、態のいい鬼ごっこが始まったようなものであろう。闘技会に要らぬ華を添えて、どうしようというのだ。
 陸遜に怒られなければいいがと、は密かに凌統と甘寧の身を案じた。
「大姐」
 大喬の声に振り返る。
 満面の笑みを浮かべた大喬は、に向けて軽く頭を下げた。
 おいおい、と思う
 この図式では、まるで、大喬、凌統の順に見えかねない。嫌な話だが、が上だ。
 有り得ないと冷や汗を掻くを余所に、大喬はあくまで自然だ。否、錯覚やもしれないが、少し度を超えているくらい、上機嫌に見える。
 の疑問は素通りに、大喬は話を続けた。
「今日は、私達が大姐の御世話役を務めさせていただきますね」
 私達ということは、二喬は、闘技会への参加を見合わせたらしい。
 そうするべしという見えない圧力に屈したのかもしれない。
 蜀の時と違って、腕試しと言い切るには色欲という奴が濃く透けて見えていた。『それ』目当てではない、長じて女は参加を自粛するべしといった空気が流れていたように思う。
 尚香ならば反発したかもしれないが、二喬はそういった空気を敢えてどうこうしてまで参加しようという気概は持ち合わせてないようだ。
 もしも二喬が立場を弁えずに飛び出すとしたら、それは、孫策なり周瑜なりの身に危険が及ぶ時だろう。
 そう言えば、孫策の姿を見ない。
 お祭り好きの孫策であれば、例えどこに居ようが目立って目立って仕方なかろう。
 どこに居るのだろうと辺りを見回していて、ふと、小喬がやたらと膨れっ面になっていることに気付いた。大喬も、の目線を辿り疑問に気付いたようだ。
「あぁ。小喬は、周瑜様が闘技会に参加するのが、面白くないんですって」
「面白くないって言うかぁ!」
 姉にずばりと言われ、小喬が即座に言い返す。
「……だって、周瑜様が参加するなんて……参加するなんて、聞いてなかったし〜!」
 愛する夫が、女を賞品にした闘技会に参加すると聞いては面白くなくて当たり前だったろう。
 しかし、も周瑜が参戦すると聞いて、内心どきりとさせられていた。
 まさかあの周瑜が参加しようとは、思ってもみなかったのだ。
 何か事情があってのことだとは思うが、それでも生半には落ち付けたものではない。
「周瑜様は、ご自分の腕前を試されたいからって仰っていたじゃないの」
「そう……だけどぉ〜……」
 諭されても、小喬は愚図愚図と言い募る。
 とならば孫策を共有してもいい、したいと断言している大喬と違い、小喬には幾分か思うところがあるらしい。
 以前、夫を他の女と共有するについて、尚香を交えて論議したことがあるが、小喬の思考は現代のそれに近しいものがあるようだ。
 ほっとすると同時に、周瑜とのことは小喬に決して知られてはいけないと思った。
「もう、仕方のない。……先に行って、大姐の席が寒くないか確認してきて。もし寒いようなら、きちんと手配しておいてね」
 私は大姐と後から行くから、との隣に並んだ大喬を、小喬は複雑そうに見る。
 ばつ悪そうにをちらりと見遣り、くるりと踵を返して駆けて行った。
「……昨日まで聞いていなかったみたいで、あの子。ですから」
 すまなそうな大喬に、は笑って応える。
 露骨な焼き餅も小喬らしいし、似つかわしい。大喬が案じるような不快感は、まるでなかった。
 の微笑みに安堵した大喬は、不意にそわそわして辺りを見回した。
 闘技会の開始が近くなり、周囲に居た者は皆いい場所を取ろうと急ぎ早に去っていく。
 正式な開会式は特にはやらないようだったので、と大喬が急ぐ理由はない。自然、その場に取り残される形となった。
 少なくとも、立ち聞き出来てしまうような距離に人影は見えない。
「……あの、大姐」
「はい?」
 大喬は、それまでの上機嫌を滲ませたまま、頬を赤らめてそわそわしている。
 何か言い淀んでいるようだが、嫌な話題を躊躇っている風ではない。
 逆に、話したくて話したくて仕方がないのに、言ってはいけないと口止めされているかのようだ。
 緩く催促してみても、大喬は恥じらって口を噤む。
 あの、その、と繰り返す。
 段々と勿体ぶっているようにも見えてきて、ほんの少しだが、嫌な気持ちになり掛ける。
 大喬が躊躇う理由が、まったく分からない。
 自慢したいのを堪えるような、もっと聞きたがってと強制するような、誘い受けの印象だ。
 こんなのは、大喬らしくない。
 が首を傾げると、それを合図にしたように、大喬はの耳元に顔を寄せて来た。
 やっと言うかとげんなりしたに、大喬は嬉しげに、恥ずかしそうに告白する。
――私、孫策様と初夜を迎えました。
 空白が生まれた。

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