恐らく、の顔は引き攣っていたのだろう。
 を見詰める大喬の顔が、一変して引き攣っていた。
 絢爛に咲き乱れる美しい花畑で突如現れた蜂に出くわしたが如く、急激な表情の変化だった。
 は、強張った顔の筋肉を意識して緩める。
「……びっくり、した」
 正直な感想だった。
「いきなり、こんなとこで、びっくりしますよ。あの、えと、そう……なんですか?」
 声が震えていなければいいと思う。
 だが、の心臓は尋常でない音を響かせ轟いていて、鼓膜から捕らえる外界の音を拒絶する。
 それは、自身の声であっても変わらない。
 どこか上滑りに、態良く聞きたくないことを聞くまいとしているようでもある。
 大喬も、ぎこちなく表情を緩めた。
 笑みを作ろうとしているのだろう。
 その愛らしい朱の唇が開こうとするのを見て、聞き取ろうと必死で集中した。
 一瞬の隙も油断も許されない。
 何故かそう思っていた。
「……ごめんなさい、急に……こんなこと……でも、私、嬉しくて……だ、様に……どうしても聞いていただきたくて……」
 大姐と呼び掛けたのを、途中で止めた。
 意識してか無意識かはとにかく、今、大喬の中にと距離を置きたいという切実な願いがあってのことだろう。
 すんなり読み取れて、は心が凍えていくのを感じた。
 自分は、当帰と大喧嘩するに到るまで心を砕いて尽くしてきたつもりだったのに、大喬は、勝手な告白をして寄越した挙句、諸手を挙げて喜ばれなかったというだけで距離を置こうとするのか。
 誠意を踏み躙られた思いだ。
――何故あのお二方の為に、様がこんな。
 当帰の言葉が蘇る。
 そう詰られる程度には、は大喬の為に出来る限りをしてきたつもりだ。
 確かに、大喬は単に思い違いをしていただけかもしれない。
 大喬が孫策と初夜を迎えたと聞いて、は、ならばきっと喜んで祝福してくれる筈だと思い込んでいただけかもしれない。
 が二人との関係をどれだけ悩んでいるかを、あまり実感できていなかったのかもしれない。
 けれど、そう考えれば考える程、の心は醒めていった。
 あんまり軽い扱いではないか。
 大喬が、孫策を一番に、どころか唯一無二として盲目的に愛しているのは知っている。
 だからこその存在を、悩まなかったとは言わないがあっさり受け入れ、共に在ろうと申し出てくれたのだろう。
 しかし、それは結局、の意志をまるきり無視しての話だ。
 の考えなど端から目に入っていないからこそ、出来ることだ。
 所詮、その程度の存在だったということか。
 心が冷えた。
 冷え切った。
 どぉん!!
 の鼓膜に、低く猛々しい音が響き渡る。
 どぉん!!
 太鼓の音だ。
 試合が始まる合図と知って、はその音のする方を見た。
「大喬殿」
「は、い」
 おずおずと上げた大喬の顔に、あからさまな不満の色がある。
 が誠意を踏み躙られたと思うように、大喬もまた、同じように誠意を踏み躙られた、悔しいという思いに駆られているのだろう。
 それはそうだ。
 仕方ない話だ。
「私、試合を見に行きたいんですけど。いいですか?」
 大喬の顔が強張る。
 今、の傍に居るのは大喬一人であり、必然、大喬がの護衛を務めなければならなかった。
 だが、このままと共に試合見物に出歩けば、と二人きりにならなければいけなくなる。
 気まずい感情を持て余したままの同行は、少女特有の潔癖さを未だ色濃く残している大喬には、酷く辛い試練だった。
 見透かしたように、は笑みを浮かべる。
 大喬は、思い掛けない笑みを受け、面喰っていた。それまで、青ざめ強張っていたものが唐突に微笑んだのだから、大喬ならずとも驚いて然るべしだ。
 も、それを見越して笑んでいる。
 わざとなのだ。
「一人で」
「……え?」
「一人で、見に行ってきます」
 ね、と念を押され、大喬は口籠る。
 駄目だと言わなければならなかった。
 世話役として、護衛として、を一人で出歩かせるなど許されることではなかった。
 呉の兵は、懐の深い孫堅の元、一致団結出来る強さがある。
 けれどもそれ故に、どうしても奔放なところが抑え切れない傾向が強い。良くも悪くも、自分の本能に忠実だった。
 が一人で居るのを見て、邪な欲望に唆される者がないとは言えない。
 そして、がそんな男を撃退できる腕力を持たないことも、重々承知だ。
 分かっているからこそ、試合に出る必要のない二喬にわざわざ世話役が任じられたのだと言っても、過言ではない。
 二人で交代に、必ずの傍に居るよう任じられたのだ。
 だから、止めなければならなかった。
 せめて一度与えられた席に行って、そうすれば小喬を護衛に付けられる。
 そう、提案するべきだった。
 大喬は、唇に力を込める。
 言わなくては、と思っていた。
 何で言わなくちゃいけないの、と思ってしまった。
 は笑う。
 力なく、笑う。
「……口、聞きたくないんでしょう?」
 見抜かれて、大喬は目を見開いた。
 そんなつもりはなくとも、はそう見抜いていた。
 は、疲れたように首を捻り、笑みを保とうとして、失敗している。
 口の端が引き攣り、眉間には皺が刻まれていた。
 泣き笑いに近いの表情に、大喬は俯き、そして微かに唇を尖らせた。
 こんな筈ではなかった、と互いにそう思っていることが、互いに伝わっている。
 その責任の所在がより相手に重くあると思っているだろうことも、互いに感じ取っていた。
 深い泥濘に足を取られたように、抜け出せなくなっている。
 は一刻も早くこの場を立ち去りたくて仕方がなく、大喬は自分勝手な我儘をただただ押し通そうとするに苛立ちを募らせた。
 私の身にもなって、と、互いに考えている。
「……姐さん?」
 固まった二人に、男達がわらわらと近付いて来る。
「おっ、やっぱり姐さんだ」
「どうなすったんで、こんなとこで」
「阿呆、こんなとこでってお前ぇ、試合の見物に来られたに決まってら」
「そりゃそうだけどよ」
 錦帆賊の男達だった。
「あ、どうも……」
 が頭を下げると、男達は一斉に奇声を上げる。
「『ア、ドウモ……』だってよ、お前ぇ!」
「ひゃあぁ、どうするよお前ぇ、『ア、ドウモ……』ってよ!」
「どうするってお前ぇ、なぁ、どうする?」
 馬鹿にしているのかと疑いたくもなるが、厳つい男達が揃いも揃ってしなを作り、内股気味に『ア、ドウモ……』などと裏声で囁く様は、正直気味が悪くて怒れもしない。
 頬を染めて変に盛り上がっている辺り、照れ隠しなのかと思わないでもないが、あまりに恐ろしい盛り上がりっぷりにも大喬も付いて行けない有様である。
 男達の内の一人が、あ、と声を上げての前に進み出る。
「姐さん、お頭の試合がすぐに始まりまさあ」
「おぉ、そうだそうだ、今はあの別嬪さんが何だか細けぇ話をしてるんだが、それさえ済みゃあお頭の出番よ」
「別嬪さんってな、誰のこった?」
「馬鹿、お前ぇ、あの軍師様のことに決まってらぁ」
 一遍でいいから相手してくんねぇかな、などと嘯いてはげはげは笑い出す男達に、大喬はいよいよ以て怯え始めている。
 はむしろ、どうやら囃されているらしい陸遜が聞いたら一体どうなるかとはらはらしている分、男達への畏怖は薄い。叱っておいた方がいいのかなと、そんな心配までしている。
「姐さんは勿論、お頭を応援して下さるんでしょう?」
 いきなり話を振られて、は目をぱちくりさせた。
「馬鹿、お前ぇ、姐さんは真っ先にお頭の試合をご覧になるに決まってらぁ」
「決まってる決まってる」
「そうですよねぇ、姐さん」
「違ぇねぇやね、姐さん」
「そんなら決まりだ」
 が口を挟む間もない。
 男達は、をくるりと囲むと、そのまま甘寧の試合が行われる船に移動を始める。
「あ」
 大喬もさすがに我に返り、の後を追おうとするのだが、男達の影から大喬を見るの目に気が付いた。
 苦く笑っている。
 ふるりと一度首を振って、重ねて笑って見せていた。
 一生懸命笑みを取り繕っているのだろうが、取り繕えきれずに苦笑になっているのだと分かった。
 錦帆賊の男達が同行することで、護衛の任は彼らが代行するも同然だ。
 故に、大喬が無理に、また嫌々着いて行かずとも良くなった。
 着いて来なくて良いと、は言いたいのだろう。
 二歩三歩とを追って進んだ足も、が顔を前に向けたのに合わせ、止まってしまう。
 大喬の胸に、突然苦い後悔が沸き上がった。
 どうしてあんなにはしゃいで、遮二無二に伝えなければならないと思い込んでいたのか、自分が情けなくなる。
 の言う通り、こんなところで、前置きもなしに話していいことではなかった。
 それなのに、どうして喜んでくれないのだと腹を立て、喜ぶべきだと憤った。
 忘れていた記憶を思い返していた。
 蜀から戻った孫策を出迎えた時のことだ。
 孫策は、大喬の顔を見るなり、満面の笑みと共にの話をし出した。
 歌が上手くて、それをきっかけに知り合った、弱いくせに正義感が強くて、負けん気が強くて、でも泣き虫で、でも頑張る奴で、凄ぇ好きになった、と笑いながら教えてくれた。
 どうして笑いながら話すのか、大喬は分からなかった。
 悲しくなって、気が付くと涙が零れて、孫策を酷く慌てさせたものだ。
 せめて前置きして欲しかった、真面目に、真剣に話して欲しかった。
 どうしてかは上手く言えなかったが、とにかく笑いながら、そんな風に自慢げに、そんな風に嬉しそうには話して欲しくなかったのだ。
 そして、笑って受け止められない自分も嫌だった。
 笑おうとしても涙が溢れ、答えようとしてもしゃくり上げる声が惨めだった。
 孫策は、そんな大喬に呆れもせず、そっと抱き寄せ頭を撫でてくれた。
 何度も何度も、ごめん、ごめんな、と謝り続けてくれた。
 それだからこそ、大喬もの話を受け入れることが出来たのだと思う。
 孫策がを好きになって、けれど大喬のことも変わらず好きだと、大切なのだと、繰り返し繰り返し言ってくれたからこそ、孫策の気持ちを理解し、のことを考える余裕が出来た。
 だというのに、大喬はを同じ目に遭わせてしまった。
 大喬が、孫策にとうとう最後まで出来なかった気遣いを強いて、けれども孫策と同じように謝ることすらしなかった。
 酷いことをしてしまった。
 大喬の目に、涙が滲む。
 追い掛けようか。
 ふと、今すぐを追い掛け、謝りたい心境に駆られた。
 けれど、途端にの辛そうな顔を思い出す。
 一人で、と呟いた声は、細かに震えていた。
 あれは、一人にしてくれと希っていたのではなかったか。
 それ程深く、傷付けてしまった証なのではないか。
 大喬は唇を噛んだ。
 自分が我慢しなければならない。
 今、をこれ以上傷付けるのは許されない。
 幼い自分は、恐らくの顔を見た途端、衆目を気にせず泣き出してしまうに違いない。
 それは、甘えだ。
 を貶めるに等しい、否、正に貶める行為だ。
 試合を見たら、も気が紛れるかもしれない。
 気が紛れて落ち着いていたら、どちらかの室に行って謝らせてもらおう。
 小喬に先に話して置いて、二人きりにしてもらえるよう頼んでおこう。
 大喬は涙を拭い、踵を返す。
 後できっと謝れると、信じていた。

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