大喬と別れ、錦帆賊の男達に囲まれ移動していたは、歩く度に重くなっていく気持ちに辟易していた。
 とにかく時間を空けたかった。
 あのまま大喬と話していても、ろくなことにはならなかったと確信している。
 けれど、到底スマートな遣り口とは言えない別れ方をしてしまった。
 もっと上手い言い様があったと思う。
 素直であるべきところで素直にならず、飾るべきでないところで自分を飾ってしまった。
 最悪だ。
 無理に笑おうとしなくて良かったのだ。
 びっくりした、まで言えたのなら、そのまま、こんなところでそんな話をしたら駄目だと叱ってやれば良かった。
 そうしたら、きっと大喬は、はっと我に返って自分が言ったことの恥ずかしさに気付き、慌てて頭を下げて来たことだろう。その姿を見れば、の方も冷静を取り戻して自分の態度の悪さを詫びることが出来たのではないか。
 一通り妄想を繰り返し、は溜息を吐く。
 想像通りに事が進むとは限るまい。
 却って事が荒れたやも知れず、そうなった時に受ける傷の大きさは計り知れなかった。
 今の時点で分かるのは、幾つか予想され得る最悪の結果があり、その内の一つをわざわざ選択してしまっただろうということだけだ。
 大喬は、きっと傷付いた。
 閨で『そういう』行為に及んでいるのだから、大喬がに報告しなければならないと『勘違い』をしていたとしても、不思議ではない。
 最後までではなかったというだけで、三人でしているのだ。むしろ、隠し事をしてはいけないと思い込んでいたとしてもおかしくない。
 それを是正せぬまま来たのは、紛れもなくの失敗である。
 どうしても上手く出来ない自分の未熟さを突き付けられたようで、凹む。
「……姐さん」
 声掛けられて、顔を上げる。
 錦帆賊の男達が、心配そうにを伺っていた。
 条件反射でへらっと笑う。
 こういうところも嫌なんだと、は自己嫌悪に陥った。
「若殿の正夫人さんと、喧嘩なすったんでしょ」
 一人の男が言い出し、周りの男達に一斉に小突かれる。
「いや、喧嘩、じゃ、ないですよ」
 慌てて言い繕うも、男達の目は不審げだ。
 傍から見て居ればそうとしか見えなかったのだろうが、多分そうではない。
 改めて考えてみても、やはり喧嘩とは思えなかった。
 喧嘩だったらまだ良かった。
 敢えて説明するとしたら、きっと互いに我儘が過ぎたのだ。
 相手に甘え過ぎて、言葉を尽くさなかったばかりに傷付け、傷付いた。
 だから、どう修復していいのか分からない。
 が再び無言になるのを受けて、別の男がおずおずと口を開く。
「姐さん、若殿の正夫人さんと、仲がお悪い訳じゃあないんです?」
「お悪い訳じゃないです」
 間髪入れず、鸚鵡返しに返したものだから、おかしな言葉遣いになってしまった。
 文官としてあまりに稚拙な受け答えに、の頬は赤くなる。
「悪い、という訳じゃなくて……何て言うか、私の立場が曖昧過ぎて、齟齬をきたしたというか……」
 ソゴ、と繰り返され、は頭を悩ませる。
「どう言ったらいいんですかね、食い違っちゃったというか。こうですよねって話を振ったら、全然違うことを言われちゃって……っていうか。良くあるでしょう、そういうの」
 は、自分の言った言葉にふと思い返す。
 良くあること。
 人と人が付き合おうとする時、ちょっとした思い違いや擦れ違いで異和感を感じることはあっても、そこですぐさま関係終了とはならないものだ。
 しようと思って努力するなら、大概の場合、和解は出来る筈ではないか。
 それは、相手から完全に遮断されてしまえば話は別だが、少なくともは大喬を切り捨てようとは思っていない。
 大喬が未だ自分を受け入れてくれるとしたらになるが、話し合いの余地は十分にある筈だ。
 良くあることならば、尚更。
 だが、すぐにでもそうしようとは、どうしても思えなかった。
 滾ってしまった頭を冷やす時間が、今は絶対に必要だ。
 尚武を謳う呉将らの試合を見れば、気分転換など容易かろう。それから大喬と話し合っても遅くはないと、自分に言い訳した。
 今度こそ駄目かもしれないという思いが、を臆病にする。
 大喬と言い争うのは初めてではないが、今度の場合は少々厄介だった。
 孫策が抱くのは自分だけだという事実だけが、の僻み根性を辛うじて諌めてくれていたのだ。
 その事実が消滅した今、が大喬と肩を並べられる理由が何もなくなった。
 美しく聡明、かつ淑やかで優しい、中原にその名を響かせる美女と比される苦悩は量り知れない。
 いつかは比される日が来るだろうし、それは大喬が二十歳になったらと期日も確と定められていたが、だからこそ心の準備を整える時間を見込んでいたのだ。
 未だそうと決めた訳ではなかったが、もしもそうなるとしたら、その日までに覚悟すればいいと気を緩めていた。
 それを、一足飛びにその日を迎えたと明かされて、うろたえずに居られる方がどうかしている。
 何もかもが唐突過ぎた。
 下手にはっきりとした反論の論拠を得ているだけに、はうじうじと不平を垂らしてしまう。
 やはり、もう少し時間を空けなければ駄目そうだ。
「女同士の喧嘩なんてな、根が深いもんですからねぇ」
 また別の男がしみじみ呟く。
 何でも、ずっと昔はいいところの主人に仕えていたこともあったそうだ。
 もっとも、その主人とやらは黄巾賊の焼き討ちにあって、とっくにくたばっているという。
 その主人は女好きで、屋敷には妻と妾が合わせて五人おり、当時は大層な羽振りだったらしい。
 男は、警護に合わせて家の力仕事も任されていたもので、女達の暮らしぶりも窺い知ることが出来たとのことだった。
「それが、表向きは仲良くしていて、その実裏では毒吐きまくりの女も居たし、口喧嘩は絶えなかったですが、やれ新鮮な果物が手に入ったの、いい簪が売ってただの、そうやってしょっちゅう行き来してたようなのも居ましたよ。話の最後で必ず喧嘩になってね、あっしなんかが走っていって、止めにゃならんことも一度や二度じゃなかった」
 仲がいいのか悪いのか、女達の複雑怪奇な関係は、男にはさっぱり分からない類のものだった。
 ただ、喧嘩する女達の方が、陰口聞いてうじうじしてるのよりはずっと落ち着いていたように見えたそうだ。
「……私んとこじゃ、結婚したら一対一で、妾とかは絶対駄目なことになってるからなぁ」
 ぼそっと呟いたに、男達は目を丸くした。
「へぇ、珍しい」
 そうだと分かっては居ても、こうもはっきり言われると苦笑いするしかない。
「……やっぱり、子供が出来なかったら困るから?」
 男達は顔を見合わせた。
「それもあるかもしれやせんが……だって姐さん、うちの爺さんなんかは、そうした方がいいんだって言ってましたがね」
 は首を傾げる。
 だから、それは何故なのだ。
「だって姐さん、その方が、気が楽じゃないですか」
「楽?」
「旦那がくたばっちまった時に」
 固まった。
 それは、そうだ。
 この世界では、良くあることなのだろう。
 しかし、の心はその事実を拒絶して凍った。
 男達は気付かぬようで、を置き去りに話を続ける。
「そういう、女を何人も抱え込んでるような男は、やっぱり女も惚れ込んじまうもんなのかもしれませんやね。おまんま目当ての女なんかはえらく薄情なもんだが、旦那に惚れてた女なんかはね、こう、魂が抜けちまったみたいにね、虚ろになって、こう、ぼーっと。そんな時にゃ、なまじ血の繋がった家族なんかよりも、同じ男に惚れてた同士で添っていた方がね、慰め合うのがいいのか、立ち直るのも幾分早いみたいですやねぇ」
 そこまで惚れ込まれてみてぇもんだ、お前ぇじゃ無理よと掛け合い、げらげら笑っているのが遠くで聞こえている。
 孫策が、死んだとしたら。
 死ぬとしたら。
 どうなるだろうとは虚ろに考える。
 震えた。
 想像するだけで涙まで滲ませることはなかろう、と、は自分でも馬鹿馬鹿しくなる。
 だがしかしである。
 は知っている。
 孫策は、本当は本当に死ぬのだ。
 ただ死ぬのではない。
 呪われて死ぬのだ。
 孫策の死の実際を、は知らない。
 さる仙人だったか仙術使いだったかを害して呪われた、悲惨な死に方をした、その程度を聞きはぐったのみだ。
 それだけに孫策の死に様は、彼の人柄とは相反する悲劇的な匂いを濃く漂わせる。
 この世界では、違うかもしれない。
 だが、決してそうならないとはには言い切れなかった。
 孫策が死んだら、残された大喬は喪に服すだろう。
 一人悲しみに泣き濡れ、誰も、妹の小喬にも、その悲しみを癒すことはできまい。
 その時小喬の傍らには、きっと周瑜が居るからだ。
 小喬の他に大喬と悲しみを分かち合ってくれそうな人は、には心当たりがない。
 もし本当に、その嘆きを芯から受け止め支える者が居ないとしたら、だ。
 大喬は、小喬が周瑜を亡くすまで、ずっと一人で耐えなくてはならなくなるのだ。
 どんなにか恐ろしいだろう。
 あんなに孫策を愛している大喬であれば、尚更だ。
 勿論、などより、孫策を守りたいと願って戦場に出た大喬の方がずっと、その覚悟するところは堅固だろう。
 堅固であらねばならない。
 そういう世界なのだ。
「姐さん」
 錦帆賊の男達が、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「申し訳ねぇ、どうやら、要らん話をしちまったようですね」
 すまなそうに頭を下げる男達に、は慌てて首を振った。
「いや、何か、こっちの方こそすいません。ぼーっとしちゃって……」
 苦笑して頭を掻くに、男達は痛々しい目を向けた。
 気遣いが重い。
 会話が止んだ瞬間を狙うように、声が掛けられた。
様」
 冷たい怒りを含んだ声だった。
 呉で、にこんな風に声を掛けてくる者は珍しい。
 いつの間にか歓待に慣れてしまっていたは、怯みつつも顔を向ける。
 女官と思しき女性が立っていた。
 痩せぎすで色白なその人に、は見覚えがあった。
 が、詳しくは思い出せない。
 元々、人の顔を覚えるのが得意ではなかった。恐らくどこかで擦れ違ったか何かしたのだろう。
 えぇと、と戸惑っているに、女はつんと顎を尖らせた。
「大喬様が、お待ちです。お早く戻られますよう」
 その言葉に、ふっと思い出す。
 先日、大喬が宴への案内が遅れたと頭を下げていた時、柱の影からこちらを見ていた女官だ。
 誤魔化しようもないくらいに苦々しい顔をされて、竦む思いがしたのを覚えている。
 大喬贔屓の女官なのだろう。
 ならば、あの時の表情も、今の素っ気ない態度も説明が付く。
 それにしても、刺々しい。
 どうしたものかと思案するの前に、錦帆賊の男達が進み出た。
「女官さんよ、姐さんは、俺らと試合を見に行くってことになったのよ」
「それは、大喬殿にもちゃあんと話は付いてる筈だぜ」
 低く恫喝するような声に、並大抵の男であれば胆を冷やして引き下がったに違いない。
「お黙り」
 だが、大喬贔屓の女官は生半の忠義者ではなかった。
「世話役を任じられた大喬様の立場をお考えなさい。試合が見たければ見たいで、一度、席に戻られてからでも遅くはないでしょう。様を連れずに戻った大喬様が何と言われたか、あなた方に想像が付きますか」
 暗に大喬が責められたのだぞと詰られ、男達は口を噤む。
 もまた同じだ。
「……すみません」
 頭を下げ、錦帆賊の男達から離れ女官の前に進み出る。
「姐さん」
「ごめんなさい。試合は、後で必ず見に行くから」
 男達が未練がましく着いて来ようとするのを、女官はぴしりと跳ね退けた。
「ご遠慮下さい。あなた方のような方達に様を連れて行かれたのだと分かれば、大喬様のお立場がますます悪くなります」
 男達を恐れてを渡したとなれば、任じられた護衛の役目を放棄したと同然になる。
 女官の言うことは正しい。
「……後で、席に迎えに来てもらっていいですか?」
 未だ愚図愚図している錦帆賊達に、そう言って引いてもらう。
 の言葉に、男達もようやく諦めを付けたようだ。
「そうしたら、後でお迎えに上がりますよ」
「副頭目に迎えに行っていただきますよ」
「そんなら、いいですやね? 副頭目なら、あっしらと違ってきちんとして居なさるから、姐さんを迎えに行っても困りませんやね?」
 は小声で詫びを繰り返し、男達と別れて女官の後を追う。
 追い付いてきたに、女官はちらりと一瞥したのみで、無言を守っている。
 ただ、その一瞥は本当に冷たかった。心底大喬に心酔しきっているのだろう。
 悪いことをしてしまったなと思いつつ、その程度のことは分かるくらいに頭が冷えていることを認識した。
 本当はもう少し時間を置きたかったが、案外これで良かったのかもしれない。
 自分からは動くにはどうにも気が重かったが、思わぬ方向からとはいえ、追い立てられたお陰で腰を上げることが出来た。
 そして悩む。
 どうやって謝ろう。
 大喬は、自分の謝罪を受け入れてくれるだろうか。
 受け入れてくれなかったらという不安と、受け入れてくれるに違いないという慢心が綯い交ぜになりつつ、は大喬への謝罪の言葉を考え続けた。

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