違和感を感じて目を覚ます。
閉じていた瞼が重たげに上がっていき、『それ』を見出す。
最初はよく分からなかった。
けれど、がしっかり覚醒するより早く、『それ』がぱっちり目を覚ました。
「お早うございます、殿」
「……お、おはよう……」
の真隣、あまつさえ狭い布団からはみ出さないようにとの心遣いからか、の背に腕を回していた陸遜がむくりと起き上がる。
出来た隙間に流れ込む冷気が、これが現実だと切実に訴えていた。
起き上がれず、ただ呆然と成り行きを眺めるだけのに、陸遜はきっちり正座に構え、深々と頭を下げる。
「改めまして、お早うございます」
「……おはよう」
改めなければならない必要が果たしてあるのかと悩むが、目覚めたばかりの頭は上手く働かず、状況に流されるばかりだ。
陸遜は恥ずかしげ顔を赤らめ、頭を掻く。
「……うっかり、眠ってしまいました。どうか、ご容赦下さい」
「イヤ……」
ご容赦も何も、そもそも一体全体何事が起きたというのだ。
家電並びにガス関連の扱いを教えるにあたり、かなりの時間を要することになった。
また、出汁から麺汁を作ると決めたせいで、そこからまた時間を食い、床に就いたのは随分遅い時間になったことは覚えている。
布団を被って速攻眠りに落ちたには、その後の記憶がない。
陸遜が潜り込んできたとすれば、恐らくその間のことであろうが、まったく気付かなかった。
「やはり、お腹立ちですか」
陸遜がしょんぼりと肩を落とす。
がぼんやり呟いた意味のない言葉を、『嫌』と捉えたものらしい。
面倒臭い。
とも言って居られず、は慌てて飛び起きた。
「違う、違う。単に、繋ぎの言葉って言うか、とにかく『嫌悪』の意味の『嫌』ではないから……」
陸遜は小首を傾げるが、が嘘を吐いているのではないことだけは分かったらしく、幾らかほっとした様子で微笑んだ。
「……ってーか……いつ、入ってきた?」
が本題を切り出すと、陸遜の目が激しく瞬く。
「え、いえ……あの、覚えていらっしゃらないのですか?」
聞き返されて、は微妙な笑みを浮かべる。
覚えているなら、わざわざ訊ねはしない。
陸遜は、しばし何か考え込んでいたか、不意に小さく笑い出した。
何がおかしいのか分からず、は居心地悪い思いに駆られる。
自分の記憶にない醜態を笑われること程、困惑させられることも早々あるまい。
陸遜は、ひとしきり笑って気が済むと、にやりと唇を歪めた。
「教えて、あげません」
わざわざ区切って強調してみせる。
が苦い顔をすると、陸遜はどこか得意げに交換条件を出してきた。
「では、口付けを下さい」
「ちょ」
は、自分の顎が自然に落ちるのを感じた。
無論、大いに呆れてのことだ。
昨晩の内にが何をしでかしたのかは分からないが、だからと言ってそんな風に偉そうに出せる条件とは思えない。
さすがに悪い冗談だと、返す言葉を考える間もなく陸遜から更なる追撃が加えられる。
「昨晩してくれたようにして下されば結構です」
――何をした、私。
自分を連続殴打したい心境に駆られるも、陸遜はそんな暇を与えてくれそうにもない。
じりじりと距離を詰められ、無意識にじりじりと後退りしている。
進んだ分だけ壁に向かって後退するの様は、正に自ら袋小路に飛び込んでいるのも同じで、すぐに逃げ場を失うのは目に見えていた。
と、陸遜の動きが止まる。
四つん這いに這っていた手を上げ、再び正座に構えた膝の上に戻した。
「……そんなに嫌がらないで下さい」
「いや、嫌がってる訳じゃ……」
どう見ても嫌がっているようにしか見えない状況な訳だが、凡人の悲しさ故か、口が勝手に言い訳していた。
陸遜も呆れたように深々と溜息を吐き、正座したままずいと顔を突き出した。
「……私は、殿が思う程には未熟ではありませんよ? 少なくとも、殿を満足させるに足る知識は持ち合わせていると、自負しています」
それはそれでどうなんだ。
言い訳としてもあんまりな陸遜の言葉に、は内心突っ込んだ。
本当は口に出して言いたかったのだけれども、体が固まってしまって上手く言えそうになかった。
陸遜は、しばらくを見詰めていたが、が何も言わないので諦めたらしい。
「……結構です。後程、きちんと証明してみせます」
空恐ろしい予言をさらっと残し、陸遜は立ち上がった。
未だ呆然としたままのを見下ろし、手を掛けた襖の外に目を向け、また振り返る。
「今日は、すーぱーというところに連れていって下さるのですよね? 食事の支度くらいはさせていただきたいと思うのですが、私は未だ一人で厨房に立ってはいけないのでしたよね?」
使い方は教えたけれど、慣れない内は危ないからと、が傍に居ない時の使用は禁じている。
記憶力のいい陸遜に感心しつつ、家事についても然程抵抗がないようで安心した。
「うん、着替えるから、ちょっと待ってて」
に軽く頷いて、陸遜は部屋を出て行った。
襖一枚がどれ程薄く脆かろうと、壁は壁だ。何となくほっとして、肩から力が抜ける。
驚きのあまり何気なく流してしまったが、実は今、とんでもないことが起こったのではないだろうか。
陸遜の口振りが冗談めかしていたこともあり、何となく本気にとれなかった。
寝呆けていたと覚しきが、どうも何やらしでかしてしまったらしいことも、後ろめたさに猛烈な拍車を掛ける。
流して良かったのか、悪かったのか。
例え自分に多少の非があったとしても、怒鳴ってしっかりけじめを付けるべきではなかったのか。
色々考えてみても、既に後の祭りではある。
しかし、はわだかまりを飲み込めぬままだ。
落ち着かぬまま部屋を見回すと、目覚まし時計の針が目に付いた。
は目を擦る。
時計は、3時35分を指し示していた。
無論、外は未だ暗かった。
外から戻ったは、やや疲れを感じてこたつにあたっていた。
陸遜は、ただ今絶賛生着替え中である。
ただし、にそれを覗こうという気力も体力も残されてはいなかった。ひたすら、眠い。
沸き上がる眠気を欠伸で堪えながら、ぼんやり考え込む。
いささか早過ぎる朝食時、海苔の黒さに怯んだり、梅干しの酸っぱさに仰天する様、少し遠出してスーパーに赴いた時にも目を輝かせてきょろきょろしていた陸遜が、あんな不穏な台詞を吐いたとはどうにも信じられないで居た。
時間は未だ7時に届かない。
休日であれば、惰眠をむさぼっている真っ最中の頃だ。
出てから知ったことだが、陸遜は、スーパーを市場のようなものと考えていたらしい。
鋭い炯眼に恐れ入りたいところだが、あちらと違って馬に乗るような距離にある訳でも早く行かないと品物がすべてなくなってしまうようなこともない。
訊いてくれれば良かったのだが、説明せずに居たも悪かったと思う。
陸遜初の外出は、早朝というにも早過ぎる時間となってしまった訳だが、それが却って功を奏し、意外に粛々と終えることができた。
趙雲に買い与えた服では、陸遜にはいささか大き過ぎたもので、ついでに安めの服と下着を数枚購入した。
後で衣料系の激安店にでも出向いて、もう少し揃えておいた方がいいだろう。
もっとも、その手の店が開くには今しばらく後の話だ。
わざわざ遠くのスーパーに出向いたのは、ひとえに24時間営業の店がそこだけだったからというに過ぎない。
価格破壊が謳われる昨今、そのスーパーで売っている衣料品も十分安くはあったけれど、急ぎ枚数が必要となるとどうしても割高になる。
幸い時間はあるから、平日の昼であろうが出歩ける。
一応、外に出てもおかしくない格好は出来るようになったことだし、今日一日は陸遜用の衣料品を揃えに出回ろうか。
陸遜が、着替えて来たら誘ってみようかと考えていると、当の陸遜から声が掛けられた。
「殿」
何気なく振り返る。
そのまま固まった。
襖の隙間から恥ずかしそうに顔を出した陸遜の姿は、右肩左肩こそ襖と壁に隠れていたが、体の真ん中のラインは丸見えだった。
つまり、何というか、買ったばかりの白いブリーフが眩しい。
「……申し訳ありません、あの、下着はすぐに着けることが出来たのですが、下履きの方がどうにもならず……」
ジャージは高いブランド品のものしかなかったので、安いジーンズを選んだのが災いしたようだ。
細身のタイプではなかった筈だが、初めてジーンズに足を通す陸遜には、少々敷居が高かったらしい。
「……えっと」
は体が強張って目が離せなくなっているのだが、陸遜も下着を隠す等の気遣いもなく、平然とを見詰めている。
どちらかが動くまで、どうにもならないだろう。
「……じゃあ、ちょっと手伝います」
はい、と答えた陸遜の声は、どこか嬉しそうだ。
何が嬉しいのか、さっぱり分からない。
お育ちがいいらしいから、小間使いに裸を見られる感覚で、それ程恥ずかしいとは思えないのかもしれない。
は、吹っ飛んでしまった眠気を名残惜しく思いながら、渋々こたつを出た。
陸遜の部屋に入ると、苦戦したらしい後が残っている。
履こうと格闘したと思われるジーンズは、どうやってここまでぐしゃぐしゃにしたのか不思議になる程に捻れていた。
普通、ここまでしたら生地も柔らかくなって、足を通しやすくなるような気もするのだが、見た感じそうした様子もない。
ジーンズの分際で、陸遜に履かれるのが嫌だと言うこともあるまい。むしろ栄誉に思うべきだろうと、は内心こぼした。
ねじくれたジーンズをいったん綺麗に伸ばし、改めて履きやすいように生地を寄せる。
幼子にするように陸遜の足下に向けると、陸遜も極自然にひざまずいたの肩に手を置いた。
――……えーっと。
別に構わない、構わないのだが、この位置は近い。
何が近いかと言えばナニが近い訳だ。
平常時であろうに、陸遜の局所の辺りはこんもりと盛り上がっている。
元々はみ出していた部分なのだから、布の中に収めればこういうことになるのが当然と、理解は出来る。
出来るが、だから平気なものでもない。
困りつつ、はさりげなく目を逸らした。
逸らすしかなかった。
「……えぇと」
ジーンズを腰まで上げることに成功した陸遜が、困惑している。
察しは付く。
ファスナーの上げ方が分からないのだ。
陸遜の視線がちくちく刺さる。
気付かない振りにも限界があった。
なるべく見ないように視線の焦点をぼかし、まずボタンを留める。
触れないように(というか、挟まないように)ファスナーを摘まみ、ゆっくり上に上げる。
「…………」
上げきってから離れると、陸遜は興味深げに閉めたばかりのファスナーに見入っていた。
「じゃ、後、自分で練習して」
「はい、有難うございました」
襖を閉めて、こたつに戻る。
趙雲の時には、こんなイベントはなかった。最初に着せたのがジャージなのが幸いしたのか、恐らく、ジーンズを買い与えた時点でファスナーの原理を理解し終えていたのだろう。
朝早かったこともあって、陸遜にはジャージの上ではなく、その後趙雲に買い与えたジャケットを着せたのがいけなかったのかもしれない。
ジャケットは、ボタンとマジックテープ留めるタイプだったのだ。
は、こたつの天板に突っ伏しながら、陸遜のファスナーを上げた右手を宙に浮かせていた。
洗いたいような気もするが、それはそれで失礼な気もする。
だが、指の第一関節が妙に熱を持っていて、それが辛い。
熱の正体が、陸遜のあそこを掠めたせいと分かっているから、余計に辛い。
――うわぁん。
泣きたくとも泣けない状況に、はへこたれそうになっていた。