は、ぐったりとして布団に倒れ込んだ。
 傍らでは、完が冷めた紅茶を啜り込んでいる。
 陸遜の萌え話から、なだれるようにの話となっていたことに、当のが気付かないでいた。
 気付いた時には既に、完の追求を逃れないところまできていたのだった。
 恐るべきは、完の話術である。粘着相手に、言葉を駆使して戦ってきたのは伊達ではなかったようだ。
「……あんた、私よりもよっぽど有能だよ。諸葛亮様に紹介して上げようか?」
「嬉しいけども、遠慮しとく」
 完の態度はあくまでつれない。
 けれど、が話をする前とほとんど変わりがないように見えた。
 完は特には口にしないが、にとってはその変化のなさが至極有り難い。
 は、完に、己の『乱行』を余さず告白し終えたところだった。
 現代に居る、を知り得る誰にも言えない、言える訳がないと密かに心に誓っていた秘密を、早二日目にして吐いてしまったことにはがっくり落ち込んでいた。
 が、安心してもいる。
 今までのの行動とは似ても似つかない『乱行』は、それまでのを知っている相手を動揺させるに十分足るものであるし、何より倫理の枠からは掛け離れ過ぎている。罵られても詰られても、それはどうにも仕方がなかったろう。
 落ち込んでみせているのは、実際落ち込んでもいるけれど、無言で許容してくれる完の癇に限界を超えて障らぬよう、保身しているとも言えた。
 そんな、まったく情けない自分の姿に気付いてしまう偽のクールさに自己嫌悪は募るが、完はあくまで芯からクールであり、優しかった。
「そんな、しょげることでもないだろ。別に誰かに言うつもりもないし。……ただ、確認しときたかっただけの話」
 完は、実は既に陸遜からそれらしき話を聞いてはいたのだそうだ。正直言えば驚いたけれども、完が口を挟むことではなく、ただ詳細を理解するには、自身から聞かねばなるまいと考えての引っ掛けだったらしい。
 陸遜は、『言っていない』と言っていたが、完からすれば駄々漏れに近い告白だったのだろう。
 ぶちまけることになったのが、偶々今日であっただけだと、至って冷静にを慰めてくれる。
「ううー……」
 はもぞもぞと起き上がり、ふと窓の外を見遣った。
 カーテンの隙間から覗く窓の外の景色は、既に闇に染まっている。
 ぎゃ、と悲鳴を上げ、は部屋を転げ出た。
「り、り、陸遜!」
 鍵を開けるのももどかしく、は窓を勢いよく開けた。
 縁側に腰掛けた陸遜は、頭から毛布を被ってわずかに震えている。
「あ……」
 の顔を見て、隠しようもない程にほっとした表情を浮かべた。
 あの陸遜にそんな顔をさせてしまうくらい、長い間外で待たせてしまったという、明らかな証拠だ。
 の胸に、凄まじい罪悪感が沸き上がる。
「ご、ごめん、陸遜」
 思わず掴んだ肩は、毛布越しとはいえ冷たく凍えていた。この寒い中、薄手の毛布一枚で外に置いていたことを後悔する。あまりに考えなしだった。
 陸遜は、困ったように視線をうろつかせる。
 その様が、の罪悪感を更に煽った。
「ホント、ごめん。話に夢中になっちゃって、うっかり……うっかりなんて言い訳にもならないと思うけど、って言うか……ごめん、ホントにごめん……」
 どう謝っていいかも分からない。
 ゲーム内では、例え雪が舞い散ろうが袖なしで戦いに散じていた陸遜も、今は恐ろしく寒そうだ。
 趙雲に関してもそうなのだが、こちらとあちらでは、体感温度に関してもずいぶん差が生じるものらしい。
 何らかの法則があるのかもしれなかったが、がこうだと明言できる材料は何もなかった。
 こうして考えてみれば、分からないことが多過ぎる。
 しかも、それらの内のほとんどが、には説明できないことばかりなのだ。
 があちらに行っていた時には、考える暇もなかったけれど、いざ自分の『ホーム』に戻ってみると、謎だらけなことに改めて気付かされる。
 陸遜の顔を正面から見詰める。
 が、陸遜は気まずそうに顔を逸らす。
「あの……」
 何事か言い掛けた陸遜は、しかしそれ以上を言えずに口籠る。
 言って欲しいと、無性に思った。
 今、陸遜に『それ』を言ってもらえることがにとっての免罪符になる、そんな風に思えた。

 しかし、完がその願いを阻む。
 何故だと問い返すの視線にも応えず、完は陸遜の肩に置かれたの手さえ外してしまった。
 陸遜は顔を赤くすると、完の指差す方向に従い、無言で家の奥へと走り込む。
「りくそ……」
 無意識に引き留めようとしたの進路を、またも完が阻んだ。
「武士の情けだ、何も訊かんといてやれ」
「つったって」
 思わず言い返そうとしたの耳に、勢い良く扉が閉められる音が届く。
 何だか、何か察した気がした。
 口を閉ざしたに、完はうんうんと頷く。
「寒いと、近くなるもんなぁ」
 完の言葉が、の絶望を誘う。
 どうしてかは分からないのだが、陸遜でもトイレに行くのだという事実が、を意外な程に打ちのめしていた。

 陸遜が気まずそうな顔をして戻ってきたのを、この時には立ち直っていたも、また最初から冷静だった完も素知らぬ振りをしてこたつを勧める。
 武士の情けである。
 昔の人はいいことを言う、と、はしみじみ感慨に耽った。
「……そういや、晩飯どうしようか」
「私は、家帰って食べるよ」
 完の返事に、は驚いていた。
 確認こそしていなかったが、完も一緒に晩御飯と思い込んでいたので、まさか食べないという返事がくるとは思ってもみなかったのだ。
「いや……でも、もう結構遅いよ?」
「食べて帰ったら、もっと遅くなんだろ」
 だからいいときっぱり言われてしまうと、確かにその通りでありきたりな反論も浮かばない。
「また、次の休みにでも来るし。携帯確保できたんだし、何かあったら連絡し」
「うん……」
 歯切れの悪いに、完が首を傾げる。
 携帯のメモリに登録された一件きりの電話番号の存在に、がどれ程惑っているのか等どうにも説明がし難い。
 頼りにし過ぎてしまいそうな予感と、そんなことをしてはいけないという自制心がせめぎあい、その境界を酷く曖昧なものにしている。
 まるで、細い蜘蛛の糸を垂らされたカンダタの心境だ。
 どこまで頼っていいのか、分からなくなる。
「……ん、何でもない。何かあったら頼ると思うけど、ごめんね」
 心配を掛けること自体、頼っているのと同じことだ。
 は、パンと大きく柏手を打ち、完を拝むように頭を下げた。
「謝らんでもいいけどさ。それに、こっちだって何でもかんでもって訳にはいかんし、だから無理ならちゃんと言うから、大丈夫だよ」
「うん……ありがと」
 完は、事実言った通りにするだろう。
 しっかり線引きするということは、逆によっぽど親密でなければできないことだ。
 向けられる気持ちが嬉しく、頼もしく、思わず完に惚れてしまいそうになった。
 そこまで送るというの申し出を遠慮して、完は玄関の戸を開ける。
「じゃあ、ほんとに、何かあったら連絡な。こっちも、次の名前が決まったら、連絡する」
 ばいばい、とと陸遜に手を振った完は、ここまでで結構と言わんばかりにぴしゃりと戸を閉めた。
 足音はすぐに聞こえなくなり、完が本当に去っていったのだと静寂に悟る。
 は、三和土に降りて玄関に鍵を掛けると、陸遜を振り返った。
「……何か、食べたいものとかあります? えぇと、肉とか魚とか」
 陸遜に訊いても、料理など答えられる訳がない。
 慌てて食べたい食材に質問を変えたが、陸遜は案の定困り顔でを見詰めるのみだ。
 お気遣いなく、と言ってくれるのは有り難いが、そんな答えは却って悩みの元となる。
 せめて、食べられないもの、食べたくないものでも分かれば有難いのだが、それを答えるだけでも、今の陸遜には難題中の難題だったろう。
 陸遜が悪い訳ではない。
 ただ、知らないだけなのだ。
 は、自分が向こうの世界に行った最初の頃を思い出す。
 知らないことをまるで能なしのようにあげつらわれて、毎日のように陰口を叩かれ、時にはずけずけと当て擦られていた。
 辛くなかったとは到底言えない、針のむしろのような日々だった。
 陸遜には、あんな思いをさせてはなるまい。
 させてたまるかと勢い込んだ。
「明日、一緒にスーパーに行きましょう」
 小首を傾げる陸遜の手を引き、はスーパーの説明をしながら台所に向かう。
「私、今は仕事ないから、一日陸遜殿に付き合えるし。こっちの世界、あっちにはない色々な食材があるから、色々見て、試してみましょう。まぁ、今日のとこは乾麺か何か茹でて、簡単に済まちゃうとして……お昼の残りもあるし、明日の朝はご飯炊いて、おにぎりにでもして、朝一でスーパー行って。ね、そうしましょう」
 突然饒舌になったに、陸遜は戸惑っているようだ。
 だが、にガスコンロの前に連れて来られ、目の前で火を点けられた途端、陸遜の目はきらきらと輝き出した。
 は、いったん点けた火を消すと、
「やってみて下さい」
 と陸遜に指し示す。
「いいのですか」
 陸遜が驚いたように目を瞬かせ、恐る恐るの態でスイッチに手を掛ける。
 カキ、と固い音がした。
 陸遜は不思議そうに何度か回そうとするが、固定されたかのようにスイッチは動かない。
 その陸遜の手に、は手を添えた。
「そうじゃなくて、こう」 
 力を込めると、スイッチが奥に押し込まれ、そのまま捻るとコンロに火が点く。逆に回して、消す。
 が手を離すと、陸遜はの顔を伺いながらスイッチの摘みを掴み直し、捻る。
 火が点いた。
 陸遜は嬉しげに笑い、誇らしそうにを見る。
「これ、何で火が点くか、分かりますか?」
「はい、完殿に伺いました。こちらを捻ると目に見えない燃える煙が出て、それで火が点くのですよね?」
 だいたいそれで合っている。
 けれども、わずかに足りない。
「……煙が出て、でもそれだけで火が点くのはおかしいですよね?」
 ガスはあくまでガスだ。
 それ自体は非常に燃えやすいものではあるけれど、ガスがあるから火が点く訳ではない。
 は、陸遜を屈ませて、目の高さをコンロに合わせた。
「いいですか、良く見てて下さいね」
 がゆっくりとスイッチを入れると、カチカチと小さな音がして、火花が散る。
「あ」
 陸遜は、火花を見て察したらしい。
「燃える煙が出ると同時に、小さな火打ち石のようなものが働くのですね!」
 概ね正解である。
 理解してはしゃぐ陸遜を宥め、もう一つ質問を出した。
 もしも『見えない煙』が出ているにも関わらず、火が点かなかった場合はどうなるだろうか。
 陸遜は数瞬考えてすぐ、『まさか』と呟きながらの顔を見た。
「……うん、火薬と同じくらい、ううん、もっとかもしれない、爆発してこんな家、すぐに燃え尽きちゃうからね。気を付けて」
 便利な分、扱い方を誤ればとても危ないのだと念押しし、ついでにガス栓の説明を加える。
 多少手間は掛かるだろうが、この機に、家の中のガスと家電類の扱い方を陸遜に教えてしまうことにした。一通り覚えてしまえば、意味なく惨めになることは、まずないだろう。
 陸遜が家事をどう思っているかは分からないが、それで『やること』が増えれば、少なくとも余暇を持て余し自虐的な思想に陥ることもないのではないか。
 大概おせっかいだなと思わないでもないが、陸遜がこの世界に居る間は、が世話をするしかなかった。
 陸遜が嫌がったとしても、他に手立てはない。
「……それは、何をして居られるのですか」
「昆布で出汁取るの」
 は不思議顔の陸遜を追い立て、冷蔵庫の説明に入る。
 それが済んだらトースター、次は洗濯機の使い方と風呂の沸かし方と、教えることはまだまだ山のようにあるのだ。
 化学調味料をなるべく使わないようにするのだ等と、説明している暇はなかった。

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