馬鹿だな、の一言で、十数分に及ぶの愚痴は切り捨てられた。
「んなこと言ったって……」
 耳に押し付けていた携帯を持ち直す。
 知らぬ間に強く押し付けていたのか、一瞬耳の辺りがじんと痺れた。
 通話相手は完である。
 昼休みだとかで、電話が掛かってきた。
 次のペンネームは未だ決まっていないそうだが、様子見に掛けてくれたのだろう。
 趙雲の時は本当にテンパっていて、相談相手を持つ余裕もなかった。なし崩しとはいえ、完という相談相手が出来てみると、どうして前回も打ち明けなかったのだろうと悔やまれる。
 現在、が某ショップの片隅でぼそぼそ吐き出している愚痴の内容は『陸遜の着替え(下半身)を手伝わされた』というものだった。
 対する返答が、『馬鹿だな』だった次第である。
『んーなの、現物持って来て、やって見せりゃいいじゃん』
「生着替えしろってか」
 が口を尖らせると、掠れた笑い声が伝わってくる。
『そうじゃなくて、ファスナーの原理さえ分かっちゃえば、後はどうにでもなるじゃん。上着なんかとは違って、ジーンズのなんて上に上げればいいだけなんだからさ』
 それはそうだ。
 逆に、着せて差し上げる必要など欠片もなかったことに気が付いて、はどっと疲れを覚える。
 気配でそれを察したらしい完から、再び掠れた笑い声が届いた。
『まぁ、挟んだりすっと相ー当痛いらしいかんね。いんじゃん、初回は。触っちゃったのは、まぁ役得とでも考えとけよ』
「いや、それ無理」
 即答しておきながら、内心では役得なのかなぁと考え込んでいる。
 大概、もいい性格である。
『そんならそんでもいいけど。で、当の坊っちゃまは何してんの』
「坊っちゃまって、あんたね」
 抗議の声は、やや弱い。
 対外的には『世間知らずの坊っちゃま』で通した方が都合が良く、現実に今、陸遜は『物知らずの坊っちゃま』として店のお姉さんのおもちゃにされている。
 おもちゃと言うと人聞きが悪いが、状態としてはこれ程相応しいものもない。
 男物の、しかも陸遜に着せる服を選ぶに当たって、重責に耐えかねたが店員のお姉さんを捕まえてコーディネートを依頼した。
 平日の昼間で客が少なめだったことや、聞かれてもいないのに『引越しの時のトラブルで、当座の服もない』と泣き付いたのが功を奏したらしい。安売りで名を売っている店だけに、やんわり断られてもおかしくなかったのだが、あっさり引き受けてくれたので陸遜本体ごと任せてしまっていた。
 そんな次第で、陸遜は今、一人ファッションショー状態なのである。
 これをおもちゃと言わず、何と言おう。
 完との電話は、そのファッションショーの隙にしている訳だ。陸遜が隣に居たらこんな話、到底暴露しかねる。
 その辺の事情は完も織り込み済みで、だから気楽なものだった。
『単に、陸遜だからじゃね? その筋の人だったら、着飾らせ甲斐ある素材じゃん』
 それはそうかもしれない。
 が居る場所から、ちょうど対面にある男物のコーナーに陸遜の姿が見受けられるのだが、お姉さんの数が一人から三人に増えている。
 客の数が少ないとはいえ、シフトもそれに倣って少なかろうに、よくよく考えるとエライ話だ。
 完に見たままを伝えると、しばし沈黙が落ちる。
『……お前、とりあえずそろそろ切り上げとけよ。下手にストーカーとか付いたら、洒落にならんぞ』
 まっさか、と軽口で応じたが、四人目の参戦を目の当たりにして急激に不安になる。
 趙雲の時も、場所柄からとはいえ好意をアピールしてきた女性が居たぐらいだ。こんな場所で、しかも接客の範疇を遥かに凌駕する、あからさまな歓待振りである。
 さすがに度を越し過ぎているのではないか。
「何か、おねーさんの数が四人に増えそうだ……」
 電話は、『今すぐ回収してこい』という指示を最後に切られた。
 が携帯を仕舞いつつ、陸遜の傍らに小走りで向かうと、敏く察した陸遜が微笑みを浮かべて出迎える。
「……決まった?」
「それが、色々お持ち下さるので選びかねて。ど……が、選んでくれませんか」
 途端、店員達の目が少しばかり険しくなったような気がした。
 今時『殿』呼ばわりもないだろうと話し合った結果、陸遜はを呼び捨てにすることで落ち付いた。
 としては、年齢設定的な見地から親戚のお姉さん説を押し、陸遜もその点は同意したのだが、の呼称を『姉さん』とすることだけは頑として了承してくれなかったのである。
 ちなみに、『陸遜』は『陸』と呼ぶことになった。名前にしても字にしても、風変わりな名前の範囲では納まりそうになかったのだ。
 ともあれ、案の定な反応を、気のせいだと無理矢理思い込むことにした。
 気にしたら負けと頭の中で繰り返しながら、選んでもらったコーディネートを見せてもらう。
 シャツを四から六枚、ボトムを二三本という大雑把な注文を出していたのだが、並べられた枚数は優にその三倍を超している。
 幾らなんでも数が多過ぎる気がしたが、その場に居合わせた店員が、それぞれお勧めのコーディネートを持ち寄ったのだと考えれば、納得の枚数である。
 親切は有難かったが、すべて購入出来る程、金銭的に潤っている訳でもない。
「陸、何色が好き」
「赤です」
 想定通りの返答に、は並べられたシャツやボトムの中から赤基調のものを何枚か選ぶ。
「……赤ばっかりじゃ、着合わせに困りません?」
「困りません」
 店員の一人が不服気に口を挟むが、が答えるより早く陸遜が答えてしまって、むしろフォローに困る。
「この人、割と、こだわるタイプなんで……」
 言外に申し訳なさを滲ませて軽く頭を下げたが、その店員は不機嫌そうに唇を引き結び、選ばれなかった服を片付けに去ってしまった。
 こういう店だから、自分のセンスを否定されたようで腹が立つのだろう。
 悪いことをしたとは思うが、にしてもどうしようもない。
 当の陸遜は、気にした様子もなく購入予定になった服を興味津々として覗き込んでいる。
「……あれ、そう言えば、裾上げは?」
 思い出したように呟くが、残った店員の一人が笑いながら手を軽く振る。
「いえ、逆に、裾がちょっと足りないのがあったくらいですから……」
 現代っ子に合わせて長めに作られるようになってきているだろう裾丈も、陸遜に掛かれば未だ足りないらしい。
 お前どんだけ足長いねんと突っ込みたくなるが、未だ完全に打ち解けたとは言い難い陸遜相手では、なかなかそうもいかない。
。もう一枚、シャツを買ってもいいですか」
 思い掛けない唐突なおねだりに、は面喰いながらも頷く。
 掛けてある服から選ぶのかと思いきや、陸遜はどこかへふらりと行ってしまった。
 戻ってくるまでは会計も出来ないので、自然手持無沙汰になる。
「……何か、面倒掛けちゃってすいませんでした」
 残った店員達にだけでもと頭を下げると、却ってごめんなさいと声を潜めて謝られてしまった。
「彼、すっごくカッコイイじゃないですか。何でも似合うから、つい、調子に乗っちゃって」
「いや、男物の服とかあんま分からないんで、助かりました」
 話はこれで終わったかに見えたが、何故か店員達はその場を去らない。
 何か物言いたげな、そわそわとした雰囲気に、は妙な居心地の悪さを覚える。
 完の、『ストーカーとか』のくだりが蘇って、落ち着かなくなってきた。
 勿論そこまでではないにせよ、もしも何がしかの接点を求められれば、先々厄介なことになるのは目に見えている。
 何せ、世界中のどこの国にも戸籍がない身の上である。
 不法入国者として訴えられても、帰る場所すらないと来ては、どう扱われるのか想像も付かない。
 にも何らかの処罰は下されようが、それ以前の問題で、穏便に日々を過ごす為には不安材料は出来る限り削いでおくに越したことはないだろう。
 そう考えると、趙雲の『引き籠り』は正当な理由があってのことだったのではないかと推測できる。
 あの時はやや異様に感じていた(それこそ庭に出ることさえもほとんどなかった)けれど、敢えて『外界』と繋がりを持たないように気を付けていたのかもしれない。
――イヤ待てよ。
 その割に、同人イベントに付いてきたがったのは何だったのだろう。
 場所や内容については、着いて来て欲しくなさに散々説明した筈だったから、進んで行きたがっていい場所でないことは理解できた筈だった。
 外に出るだけだったら、スーパーだのデパートだの、それこそもう少し出掛ける甲斐のある場所があっただろう。
 に対する嫌がらせとしても、あんまりな仕打ちである。
 またも趙雲の考えが分からなくなってきて、は首を捻った。
「……あのー」
 声を掛けられたと、一瞬分からなかった。
 きょろきょろと辺りを見回し掛けて、先程の店員達が未だの周りを固めていることに気付く。
 居心地の悪さが一気に戻って来て、の口元は苦笑いに歪んだ。
「あの、……ここら辺にお住まい? ですか?」
 ここら辺という程近くもないが、否定する程遠くもない。
 けれども、近所だと正直に答えることが有益であるとは思えず、はぎこちなく首を傾げる。
「えっと……どうして、そんな?」
 店員達の顔に焦りの色が見える。
 然したる理由はなかったのかもしれないが、だったら尚更、一々詮索されたくはない。
 好意故の質問だったとしても、後ろめたいからすれば『して欲しくない』類の質問だ。
 お願い事をしておいて、というやましさはあるが、願わくば興味本位で関わろうとはしないでいただきたい。
「いえ、あんま大した意味はないんですけど……週末、セールやるからどうかなって思って」
「そうそう、そうなんです。チラシ、持って行かれますか?」
 本当にそうなのかという疑問は残るが、あまりに明確に拒絶するのもおかしい。
 礼を言うだけ言って、来られたらと曖昧に流した。
「ですかー、すっごく安くなるんで、是非是非!」
「私達の誰かに声掛けてもらえれば、すぐ応対しますんで! あ、何なら、またコーディネートもしますから!」
 遠慮しないで、という申し出は有難いが、しばらく来ない方が良さそうに思えた。サイズさえ分かってしまえば、一人でも何とかなりそうなことだしと、内心こっそり考えている。
「お待たせしました」
 ちょうど陸遜が戻ってきたので、潮時とばかりにその場を切り上げ、レジに向かう。
 会計をしてくれたのは、先程機嫌を損ねた店員だった。
 が、酷くにこやかで愛想もいい。
「……週末、セールやるんですよー。チラシ入れときますんで、是非いらして下さいね」
 手のひらを返すような態度の変化に、は目を丸くする。
 陸遜は、ただにこにこと笑うばかりだ。
 会計を済ませると、外に出てしばらく歩く。
「……あのさ」
 何かしたのかと語尾に含むと、陸遜はまた一段と笑みを深くする。
「別に、何も。ただ、あの方が片付けに行かれた中の一枚を、やはり購入させていただきたいと申し出たまでです」
 合間に一言二言加えましたがと陸遜は足したが、その『一言二言』が曲者だったことは疑いようもない。
 意外と図太いのだろうかと、陸遜への評価が揺らぎ始めていた。

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