呼ばれて、はっと足を止める。
 隣に並ぶ陸遜が、心配そうにを見ていた。
「……えっと……何?」
「何、じゃありません。黙ったまま、もの凄い勢いで歩いてましたよ?」
 記憶がない。
 うぅんと眉根を寄せると、陸遜がほいと手を出してきた。
「何?」
「ですから。荷物、持ちますよ」
 言われて、は自分が大きな手提げを三つぶら下げていることに気が付いた。
「……あれ、お釣りどうしたっけ」
「そんなことも覚えてないんですか?」
 盛大に呆れ果てたような陸遜に、の眉間の皺はますます深くなる。
「受け取って、財布に仕舞ってましたよ。その時に、私が荷物を持ちましょうと声を掛けたの、聞いてなかったんですか?」
 正確には、聞いていなかったのではなく聞こえていなかったのだが、陸遜からしてみれば大差ないだろうことなので黙ることにした。
 固まったまま虚空を睨め付けるの姿が如何に不気味であるか、自身に知る術はない。
 ただ、それに強制的に付き合わされる陸遜は、溜まったものではなかっただろう。

「何?」
 会話が数瞬前に戻って、陸遜の口から溜息が漏れる。
「……とりあえず、荷物。持ちましょう」
 差し出される手に、ほいと荷物を預ける。
「……
「何」
 不満でもあるかと顔を上げたの目に、本当に不満そうな陸遜の顔が映る。
「私は、男ですよ」
 顔だけなら女に見えないこともない、とは、さすがに言えなかった。
 口を噤むに焦れたか、陸遜は空いた手を差し出す。
「一番小さくて軽い荷物を一つ預けて、どうするんです。全部持ちますから」
 言われて、は改めて己の手元に視線を落とす。
 大きな手提げ袋が二つ、膨れた状態でぶらぶらしている。
 陸遜の手にあるのは、おまけで買ったの靴下が入った小袋だ。何でか、ショップの店員は梱包を一緒にしてくれなかったのだった。
「いいよ」
 荷物の重い軽いなど、からすれば問題ない。
 一人暮らしだったから、例え米袋とて必要があれば担いで帰る。いつものことだ。
「持ちますよ」
「いいって」
 伸ばされた陸遜の手をひょいとかわし、はまたすたすたと歩き始める。
 追い掛けてきた陸遜が、隣に並んだ。
「……
「何」
「嫉妬ですか」
 の足が止まる。
 陸遜も、半瞬遅れて止まる。
「は?」
「……ですよね」
 幾分がっかりしたような陸遜に、はようやく我に返った。
 先程まで抜けていたエクトプラズムが、一気に戻って納まるところに納まった感がある。
 と、が呆けている隙を突いて、陸遜がの荷物を強奪した。
「ちょ」
 荷物をむしり取られて文句を言い掛けたものの、陸遜の拗ねたように突き出された唇に押されて、何も言えなくなった。
「いいんです、少しでも勘違いする私が馬鹿なんです」
 陸遜が馬鹿なら、大抵の者は皆、馬鹿だろう。
 何を言い出すやらと困惑しながら、今度はが陸遜の後を追う。
 陸遜の身長は、他の武将に比するまでもなくそれ程には高くない。
 ので、歩幅は然程でもないが、早足になると滅法早かった。駆け足に近くなるを置き去りに、どんどん前に行ってしまう。
「ちょっと、陸そ、じゃなかった、陸」
 さすがに悲鳴を上げると、陸遜の足がぴたりと止まった。
「……こうだったんですよ」
「は?」
「さっきまでのが、です!」
 幾ら何でもここまで早くはないだろうと思うのだが、それを陸遜に言ったところでやはり詮無い。
 不貞腐れたのを隠そうともしなくなった陸遜を、はどういなしたものかと悩む。
 沈黙が落ち、訝しい空気を放つ二人の姿は、周囲の穏やかな雰囲気から完全に浮いていた。昼過ぎの、子供を連れた奥様方の暇を持て余した好奇の目が、徐々に集まってくるのを感じる。
「陸そ、じゃない、陸……」
 袖を引くと、陸遜がちらりとを見遣る。
 が、動く気配はない。
「目立ってるって。目立つと、まずいって」
「誰も見てやしません。は、少し気にし過ぎです」
 一人なら誰も見なかったろう。
 険悪な雰囲気の男女(カップルとは言いたくない)だから、そして男が陸遜だから視線を集めているというのに、理解できないのだろうか。
 がうろうろ視線をさまよわせていると、陸遜が吐き捨てた。
「見られても、いいではないですか。私達には関係ない。そうでしょう?」
 関係なくはない。
 少なくとも、先方からすれば達の今の状態は、格好の話のネタである。
 一方的に楽しまれる間柄なる関係など、不健全極まりないではないか。
「……何怒ってるの」
 悩んだ挙げ句、ひとまず簡易にでも問題解決に努力することにした。水掛け論で延々見せ物になるよりは、まだしも健全だ。
「怒ってなどいません」
 水掛け論になった。
 困惑を極めるに、陸遜もわずかながら同情を覚えたか、ようやく自ら話を切り出す。
は、私にどうして欲しいと思ってるんですか」
「……えっと……」
 前にも似たようなことで言い争ったように思う。
 どちらにせよ、が陸遜に望むことなどあまりない。
 とりあえずここから移動してくれないかな、とは考えているが、陸遜自身をこうしたいとかああしたいとかいう大それた考えは持ち合わせていなかった。
「……言い方を変えましょうか。どうしたら、は私を認めてくれますか?」
 意味が分からない。
 薄ら笑いを浮かべて陸遜を見るに、陸遜はむぅっと頬を膨らませた。
「私は、に、もっと普通に接して欲しいです」
「……接してるつもり、だけど……」
 おずおず言い返すと、陸遜は大きく頭を振る。
「全然です。全然、普通に接してくれてないではないですか」
 の胸の内では、えー、という盛大極まりない不満の声が漏れる。
 どうしろと言うのか。
「普通は、普通です」
 陸遜の目が、妙に潤んで見える。
 虐めているような心持ちになって、やたらと焦ってきた。
「……せめて、もっとちゃんと言って下さい」
「……イヤ、こないだ『黙ってろ』って言ったじゃん……」
「そうではなく!」
 激昂されて、しまったと後悔するが遅かった。
 陸遜は、手にした荷物をぶんと振り上げ、それに驚いたが反射的に後退る。
 勢い良く落ちてくると思った荷物は、意表を突いてのろのろと下げられた。
 やけにしょんぼりとした風な陸遜の姿に、はうろたえる以外することがない。
「陸そ……陸」
 離れてしまった距離を、恐る恐るながら一歩前に進み出ることで埋める。
 俯いた陸遜の顔が、それでようやく見えるようになった。
 今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……は、孫策様の方が、良かったのでしょうけれど」
 何のことだ。
 唐突な物言いに、呆気に取られる。
 陸遜の独白は続く。
「でなければ、凌統殿か、せめて甘寧殿だったら良かったと思っているのかもしれませんが」
 ここで、ようやく察しが付いた。
 この世界に、の世界に一緒に来るのが孫策、または凌統、甘寧だったら良かったのだろうと、陸遜はを咎めているのだ。
「誰が来ても、同じだよ」
 考えるより先に、口が動いていた。
 これに関しては自信を持って言える。
 誰であろうと、この世界での生き方を教え、覚えさせ、守っていくのは相当に骨が折れるに違いないことだ。むしろ、陸遜は手間が掛からない方だろう。
「……そうでしょうか」
「そうだよ」
 微妙な間が空いた。
「……私、何か、陸遜を外に連れ出し過ぎちゃったかな……」
 ぽつりと呟きが漏れる。
「そんな!」
 反論しようとする陸遜を、は手で制し押し留めた。
「この世界、便利だよ。たぶん、陸遜達の世界より、よっぽど簡単に、色んなことを知ることが出来る。子龍はね、そういうの、あんまり知ろうとしなかったんだ。よく退屈しないなって思ってたんだけど、違ってたのかもしれない」
 趙雲は、敢えて知識を得ないで済むよう工夫していたのかもしれない。
 ここが自分の世界ではないと十分理解していたから、いつか自分は帰るのだと決めていたから、ここで得る知識は自分にとって毒となるかもしれなかったから、それで引き籠っていたのかもしれなかった。
 本当のところは趙雲本人に訊いてみなければ分からないことだったが、そう考えれば趙雲の行動が納得できる。
 外に出ようとしたのは、が外に連れ出してからのことだ。
 安全だと判断したのか、帰還する時分を察したのか、そこまでは分からないが、趙雲が用心する意図は分かるような気がした。
 この世界は、便利過ぎる。
 自分を甘やかし、人との繋がりを軽視しやすい世界なのだ。
 いい意味でも悪い意味でも取れる事実だが、趙雲は悪い方に取ったのだろう。
 としても、仮に趙雲がそう判断したとしたなら、それはある程度は正しいことと思えた。
 車に乗り慣れれば、馬や馬車での移動は苦痛だろう。
 テレビやラジオに聞き慣れれば、情報の伝達の遅さに苛立つことになるだろう。
 豊富な食生活に慣れれば飢えを恨むようになり、水道やガスの便利さに慣れればないことの不便さに打ちのめされる。
 武将として、そんな緩みは恥ずべきことだ。
 だから趙雲は、どうしようもない点をのみ除いてこの世界から自身を隔離した。
 あり得る話である。
 だとすれば、これは趙雲のみに当てはめればいい話ではない。
「陸遜、帰るんだから、あんまりこの世界に慣れない方が、きっといいよね」
 考え直さなくてはいけないかもしれない。
 は、陸遜に何かをして欲しいのではなく、何もしないでいて欲しいのだと初めて気付いた。
 何もせず、ここに来る前の陸遜と何も変わらず帰って欲しい。
 それこそが、が望むことだった。
「私は」
 答えを得、終結し掛けた話に、しかし陸遜は食い付いた。
「私は、そうは思いません」
 負け惜しみかと思った。
 違った。
「私は、と一緒に帰るつもりです」
 陸遜の声は、わずかに震えていた。
「だから、帰った時、話の途中でが言い淀んだり、言い直したり等もうしなくていいように、私はの世界のすべてを知りたい。がこの世界の話を何の気兼ねもなく出来るくらい、がこの世界を懐かしんだ時に話し相手になれるくらい、私はこの世界の何もかもを覚えてしまいたい。私は、私の世界で、にとって掛け替えない人間でありたいのです」
――それは、いけないことでしょうか。
 問い掛けの形を取ってはいたが、陸遜がの答えを求めていないことは明らかだ。
 露骨なまでに剥き出しになった陸遜の利己心に、はただただ圧倒されていた。
「帰ってくれますよね。私と、一緒に」
 陸遜が手を差し出す。
 が迷っている間に、陸遜はの手を引き寄せ、がっちりと握り込んでしまった。
「……絶対、一緒に帰ります。でなければ、私は帰りません。決して、です」
 言葉に偽りがないことを証すかのように、陸遜の手は固くの手を捉えて離さない。
 真剣な眼差しがあまりに鋭くて、は気付かぬ内に震えていた。

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