朝は誰にもやってくる。
 否応なしに、誰の為でもなく、だ。
 眠ったという感覚がないまま、は目覚めを迎えた。
 外は未だ暗い。
 と言っても、時計は6時を指そうとしていた。朝早い職種の人々は、疾っくに目覚めて活動している時間であろう。
 ただ、にしてみればこれは快挙と言っていい。
 寝汚いことは定評があるである。
 偏に、蜀や呉での生活習慣の改善が影響していると思われる。
 おかしなことだ。
 戻って来てみれば、の世界は日付さえ変わっていなかった。積み重ねた筈の時間がどう認識されるべきなのかも、さっぱり分からない状態だ。
 だが、の記憶には、あちらでの生活がしっかり刻まれている。
 どころか、この通り日常においても多大な影響を及ぼされている始末だ。
 にも関わらず、の体自体には、あちらでの『痕跡』が何もなかった。
 例えて挙げれば、向こうの生活で痩せた筈のの体は、元通りに戻っている。痩せなかったのではなく、こちらに戻ったことで痩せたことが『なかったこと』になったらしい。
 これは、体重計というシビアな数字と鏡での観察とから導き出された、限りなく事実に近い考察である。
 そもそも、がこの考察に取り組むに当たっては、他者による信じ難い指摘があってのことだったが、それを考えると頭が痛くなるので、はなるべく考えないようにしていた。
 ただ、昨夜のようなことがあるのであれば、話は別だ。考えなくてはなるまいし、場合によっては打ち明けなくてはならない可能性も大きい。
 かと言って、どう説明したものか、その点に及ぶとの頭は思考を止める。
 思い付けないのだ。
 何となくは分かるけれども、言葉にはならない。
 昨夜の陸遜の行動もそうだ。
 いったい、何を思って何で行動に至り、そして止めたのか。
 陸遜のことだから、陸遜に訊かなくては分からないかもしれない。
 あるいは、陸遜もやはりと同じように『分かるようで分からない』と悩んでいるのかもしれない。
 とにかく着替えて、と布団から出ると、寒さに身震いした。
 適当に着替えを探していると、部屋の隅に脱いだ後に畳まれたパジャマが置いてあるのが目に入る。
 自分で置いたものだが、は思わず顔をしかめた。
 昨夜のパジャマの上下に挟むようにして、汚してしまったショーツが隠してあることも思い出してしまったのだ。
 幾ら陸遜が『上手い』からと言って、あそこまで乱れることもなかったろうと思うと、自然に眉間に皺を刻んでいる。
 怒りとも羞恥とも付かない複雑な思いに駆られ、は着ていたパジャマを投げ捨てた。

 着替えを終えてから、かなりの勇気を振り絞りつつ襖を開けると、の目にはまず、陸遜がこちらを向いて正座をしているのが見えた。
 思わず固まると、陸遜が深々と頭を下げる。
 の頭に土下座という単語が浮かぶまで、数秒の時が費やされた。
「…………ちょっ」
 ようやく我に返ったが陸遜の元に駆け寄るまで、陸遜は微動だにせず頭を下げ続けた。
「ちょっ、止めてよ、ねぇ」
 陸遜の肩を揺さぶってみたが、陸遜は顔を上げない。
「とにかく、止めて。何で頭なんか下げてんのか、分かってないからね、私!」
 絶叫じみた声に押されてか、陸遜の頭がしずしずと上げられる。予想通りと言っては何だが、酷く情けない顔をしていた。
 それでも、陸遜の土下座を止めさせたことに安堵し、はその場にへたり込む。
「……うーと……昨日のこと、かな」
 の言葉に、陸遜はこっくりと頷く。
「失礼なことを、申し上げました」
 俯いてしまった陸遜を、じっと見つめる。
 失礼なこと、失礼なことと考え込んでいる内に、突然は理解した。
 腑に落ちるとは、このことだ。
 分かってしまえば、取るに足らない。
 要するに、陸遜は『が命じて』数多の武将と肌を合わせているのだと(古めかしい言い回しだが)考えていたらしい。道理で、失望させないの未熟でないのとしつこかった訳だ。
 が好みの男を指名していたと誤解していればこそ、自分を指名してくれと猛烈アピールをかましていたのだろう。
 だからこそ、『させている訳ではない』という一言で止まった。
 が望んで抱かれている、つまり命じて抱かせているのではないと気付いたが故にだ。
 していることに変わりはないが、がやらせているのと望まれて受け入れているのとでは、話の質がまったく異なる。
 とは言え、陸遜の勘違いを頭から責める気にはなれない。
 普通、誰かがその女と出来てしまえば、敢えて手を出そうとする人間の数はぐっと減る。略奪する労苦が付け加わるだけでも、相当な面倒だからだ。
 奪おうとする人間が奪われる人間と友情、または忠節で結ばれているとすれば、尚更重い話になるに違いない。
 けれども、女から誘惑したとすればどうだろうか。まして、女が相応に上の立場で、抱けと命じてくるとなれば生じる印象はぐっと変わる。
 納得するかどうかは別として、男側の軋轢もある程度相殺されてると考えて良いかもしれない。
 もっと具体的に例を挙げるとするならば、例えば、孫権と周泰が二人してに手を出したことが挙げられる。
 孫権が先に手を出したのだから、周泰はその忠信故にを諦めて当然だった。
 仮に周泰が先に手を出していれば、孫権は周泰への信頼故にから手を引いただろう。
 だが、結局どちらもを抱いている。
 ならば二人の関係は破綻し、互いに相争う仲となったかと言えば、そんなこともない。妙な具合に理解し合い、以前と変わらぬ親交を続けている。
 過ちで済ませ許した形跡もなく、両者共に現在進行形で関係を継続中なのである。
 第三者たる陸遜からすれば、二人の関係は到底理解できないに違いない。元々、女を共有するような間柄ではないからだ
 そこで、自らが孫権を望み、周泰を求めたとすればどうか。
 蜀の重臣、君主孫堅が招いた立場ある女として、その息子や臣下を寝屋に招き入れたとしても、口うるさく喚き立てる者は少ない。
 何故なら、は孫堅によって『そうしていい』と認められているからである。そもそもの条件がおかしいのだ。
 よって陸遜の誤解に満ちた仮説は、推察の上では明確な整合性を得ている。
 逆に、事実は小説より奇なりを地で行く現実にこそ問題があるのである。
 実際、孫権も周泰もを抱いているが、それはの望んだことではなく、単に許し受け入れた結果に過ぎない。
 のスタンスは、あくまで『望まれるから受け入れる』に一貫している。
 誘ったことも確かにないではなかったが、回数にして片手で足りる。
 その相手に関しても、ある程度は限定していた。
 大体、は自分から誘えるような気性でない。
 その気になるならない以前に押し倒されていることが多く、嬉しいような情けないような、複雑怪奇な心境にあるのだ。
 そんなことを考えている内、は段々と腹が立ってきた。
 陸遜がの『乱行』を好意的に見ていてくれるのは有難いことなのかもしれないが、だからと言って淫乱と見なされていたのでは堪らない。名誉を著しく傷付けられたような気になって、けれど傍目からはそうとしか見えまいとも思うので、怒鳴り付けるのも筋違いな気もする。
 どうしていいのか混乱するあまり、は無言になった。
 だが、無言ながらきりきり吊り上がる眉は、の不機嫌を露骨に示している。
 むっつり黙りこくったまま、己の不機嫌を露にするに、陸遜も困ったように眉を顰めた。
「……あの」
 何とか打開しようと意気込んだか、陸遜が躊躇いながら口を開く。
「ですが、あの……如何でしたでしょう、か」
 如何、と言われても、何がどう如何なのかが分からず、は目を瞬かせて陸遜の眼を凝視する。
 陸遜の頬が薄らと染まり、同じ質問を繰り返した後、一言添えた。
「……昨夜の……」
 言葉が耳に届くや否や、は勢い良く立ち上がっていた。
 意味はない。
 ただ、皆まで言ってくれるなという気持ちがを突き動かしたようだった。
 陸遜は戸惑って、仁王立ちで虚ろな目を虚空に向けているを見上げている。
 妙な空気が流れたまま、一分近くが沈黙に埋め尽くされた。
「あの……」
 陸遜は、幾らか崩れ掛けていた膝を改めて揃え、に向き直る。
「……私は、と言いますか、私、も、貴女を望んで……います。私の、こういう言い方はおかしいかもしれませんが、……『腕』、の方は、昨夜ご披露した通りです。如何でしょう、私は……その、相手として、どうでしたでしょうか」
 の反応はない。
 陸遜が、聞こえていないのかともう一度口を開こうとして、の手に止められた。
 聞こえてはいた、いたのだが、脳の方が陸遜の発言を理解するのを完全拒否していた為に沁み渡らなかったのだ。
 しばし凝り固まった脳細胞と格闘を続けていたは、ふらりと自室に帰っていく。
「……ちょっと待ってて」
 言い差し、閉められた襖の向こうで、何やらがさごそと不穏な音が続く。
 しばらくして戻って来たは、小脇に抱えた紙袋を陸遜の手に押し付けた。
「……?」
 首を傾げる陸遜に、いいから見なさいと無言のゼスチャーが示される。
 紙袋の中を覗き込んだ陸遜の動きが、ぴたりと止まった。
「……
「うん、それ、使って」
 が持ち出したのは、かつて趙雲用にと購入したエロ本だった。
「……使うと言っても……何に使えと、仰るのですか」
「うん、自慰?」
 途端、陸遜の目にこれまで見なかった程の殺気が籠もる。
 あちらの人にとっては、自慰は単なる『恥ずかしい』行為ではなく、『辱め』に等しい行為だという話がある。下ネタとして気軽に口に出していいようなことでなく、自ら公表するのは勿論、しているだろうと揶揄されれば名誉に関わる問題として扱われる訳だ。
 は、この点まったく理解していなかった。
 今度は陸遜が立ち上がり、吊り上がった目でを睨め付ける。
 と、くるりと背を向けて、与えられた部屋に向かい、振り返りもせず中に篭ってしまった。
 陸遜が何に対して怒ったのかも曖昧なまま、は呆然と閉ざされた襖を見遣る。
 そういえば、子龍も相当怒ったなぁと、ぼんやり思い出していた。
 陸遜の言葉を、遅ればせながら脳が聞き取り、処理を始める。
――私も、貴女を望んでいます。
 胸の奥がむず痒くなるような、切羽詰まった熱を感じさせる声が、何度も蘇っては繰り返された。
 頭の中で再現された陸遜の姿を、目を閉じてしみじみ眺める。
 少年独特の柔らかいラインを残した輪郭に、綺麗な朱色が滲んでいる。
 女のからしても、艶っぽい、赤面したくなるような色気だった。
 もしも『あちらの世界』でこんなシチュエーションを迎えていたとしたら、もうっかり流されていたかもしれない。
 だがここは、の世界だ。
 冷静に、落ち着いて物事を考えられる余裕がある。
 そして、にはおいそれと陸遜を受け入れられない事情があった。
――処女だってこと、言っておいた方がいいのかな。
 言える訳がない。
 言ったところで、信用してもらえるとも思えない。説明も出来ない。
 悩んだ挙句、は沈黙を選んだ。
 それがどんな結果を招くことになるかなど、最早の埒外だった。

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