陸遜と差し向かいに炬燵に入り、夕飯をとる。
 今夜のメニューはポークソテーだ。申し訳程度のサラダとご飯と味噌汁、ついでに浅漬けといった、至ってシンプルなメニューだった。量的に問題はないと思うのだが、年齢的に食べ盛りであろう陸遜からしてみたらどうなのか、には想像の範疇外である。
 会話は、ない。
 あの夜以来、陸遜はほとんど口をきかなくなってしまった。
 むっつり、何か不機嫌そうに黙り込んでいる。目も合わせないから、いたくご機嫌を損ねているのだろうことだけは察しが付いていた。
――でも、なぁ。
 は内心一人ごちる。
 陸遜の『要求』には応えられない。
 言い訳しようにも、間も、その理由も、その他細々とあげつらえるすべてが状況に相応しいとは思えず、結果、沈黙に甘んじている。
 自分の皿を空にすると、陸遜は黙礼一つして立ち上がった。同時に空いた皿や茶碗を重ね、台所へ向かう。
 程なくして、水道の栓を捻る音、水の流れ出す音が聞こえてきた。かちゃかちゃいっているのは、皿を洗っている音だろう。
 現代の生活の有り様に、陸遜はすっかり慣れたようだった。家の中で過ごす分には、の手助けなどなくても十分と保証出来る。
 ある意味、一番どうしていいか分からない時期でもあった。陸遜に不自由があれば、その手伝いをするという名目で、この稚拙な沈黙をなし崩しにすることが出来ただろうからだ。
 趙雲の時と違って、陸遜に怒りを覚えることはなかった。
 そのことも、を後手後手に追い詰める一因となっている。陸遜を無視するという行動に移れないからだ。
 ただただ無視される共同生活の不毛さは、の心を酷く重くする。
 現在は無職であり、ほぼ丸一日を陸遜と共に過ごしている現況も、多分に加味されよう。
 水音が止み、陸遜はそのまま炬燵のある居間を通り抜けて自室に入った。
 後ろ手に襖が閉められ、陸遜の姿が見えなくなると、己の肩の力が多少とはいえ抜けていくのをは感じる。
 静けさを取り戻した居間に、微かに陸遜の声が漏れ伝わってくる。
 携帯で完と電話しているのだろうなと、容易く想像が付いた。
 が状況の改善に積極的になれないのは、完の存在も大きいと言えた。相談することなど考えられなかった趙雲の時と違って、一人が無理に動く必要がない。
 いいのか悪いのか、正直判然としない。
 動く必要を、実はあまり感じていなかった。
 ともあれ、にも陸遜にも逃げ道があるというのは有り難いことである。当の完からすれば、『お前らちっとふざけんな』ということになるやもしれないが、怒られる程度で済むならそれで済ましてしまいたい、という甘えは確実にあった。
 そんな気持ちを見透かされた訳ではない、と思いたい。
 後でそんな風に考えてしまうくらいの絶妙さで、脇に置いてあった携帯が元気に跳ね上がった。
「わ、わ」
 マナーモードにしておいたものの、だからこその唐突な動きに焦ってしまう。
 慌てて携帯を開くと、完からの着信だと表示されていた。
 あれ、と無意識に陸遜の部屋の襖を見る。
 と、ちょうど陸遜が襖を空けたところだった。ここ数日では初めて見せる、いささか困惑した表情をしていた。
 何かあったのだろうかと思いつつ、とにもかくにも電話を受ける。
「もし?」
『もし』
 短いやり取りの後、が切り出すより早く、完から用件を突き付けてきた。
『お前、今から出てこれる? つか、出てこい』
 短絡的なお誘いから、流れるように強要への変化である。
「え、イヤ、まぁ……」
 言いながら、ちらりと陸遜に視線を送る。
 無職の身軽さ故に、今来いと言われれば応じるだけの余裕はある。
 問題は、陸遜を一人にしていいかどうかという点のみだったが、これも、先述通り陸遜のメンタルという一点のみに絞られる。
『じゃ、いいよ。出てこい』
「いいよって」
 この場合の『いいよ』は、恐らく『陸遜のことはいいよ』と言っているのだろうが、当の本人差し置いて『いいよ』はなかろう。
 些少の申し訳なさから眉を寄せるの耳に、完はぱっきり言い放つ。
『その、陸遜のことで話があるってんだもの。別に、お前んちで話してもいいけど、それだと陸遜モロに晒しもんだぞ。私ったら、陸遜殿に是非是非畳針製針のむしろに座して聞いていていただきたいんですぅってんなら話は別だが』
 それは、少しどころでなく痛そうだ。
 はそっと携帯を押さえると、改めて陸遜に向き直る。
「……ちょっとこれから、外に出てきてもいい? かな」
 陸遜は、わずかに顔をしかめて見せた。明らかに嫌ですと反応した訳だが、直後の返事は違っていた。
「……大丈夫、ですよ」
 露骨に嫌々しながらの承諾に、本当に何があったのだろうと勘繰りたくなる。
 十中八九は先日の『こと』についてだったろうし、まさかと思うが完にそのことを愚痴っていたのだとしたら、いい加減にしやがれと完がキレても仕方がない。
 けれども、電話の完の声からはそこまでの苛立ちは感じ取れず、陸遜の態度からもそこまで恥を晒した感はない。
 話の流れがどうにも読めず、は思わず首を傾げた。
『もし、もーし』
 沈黙に飽いたのか、携帯から完の声が響く。
「あ、ごめん。じゃ、どこに行けばいい?」
 言外に了承したと含ませると、今度は完が黙った。
『……うーん、じゃ、お前んとこ、駅前にカラオケあっただろ。曲数多いおたく向けの。ハナから二人で申し込みでいいから、先に入って部屋取っといて。大丈夫だと思うけど、入れんかったら、そこから別のとこ考えんの面倒だし。こっちも、もう出るからそんなに遅くにはならんからさ』
「分かった」
 の言葉と同時に、完の携帯が切れた。
 ぱちんと音を立てて携帯を畳むと、は食べ掛けの皿を手に立ち上がる。
「私が」
 陸遜が手を差し出し、の手から皿を奪う。
「ごめん、ありがと」
 他愛のないやり取りだったが、久し振りの会話でもあった。
 何となく嬉しくて笑みを浮かべたに対し、陸遜は酷く申し訳なさそうな、後ろめたいような顔をして目を逸らす。
「……すみません」
 陸遜が何を謝っているのか、この時のには分からなかった。

 幸い、指定のカラオケボックスは空いていた。
 後から一人合流になる旨告げると、ならばそれまで一人分の料金でいいと言ってもらえた。
 空いていたからこそのサービスだったのだろうが、有り難いと言えば有り難い。
 有り難ついでで、いつもは頼まないポッキーとポテトも注文した。
 こういう『気持ち』を狙ってのサービスだったのかもしれないが、双方共に利があるのなら、殊更気に病むことでもない。
 宛てがわれたルームナンバーを完にメールし、料金のことも連絡しておいた。
 了解のメールには、今電車を待っているという報告も添えられていた。早く来ると言っても、もう二、三十分は待つと考えた方が良さそうだ。
 早々に届けられたウーロン茶とポッキー、ポテトを前に、はぼんやり大きなモニターを眺める。
 一人でカラオケに興じる気にはなれないし、そも今日の目的はそれではない。
 時間を潰す目的で、来る途中で仕入れたゲーム雑誌を引っ張り出すと、ぱらぱらとページを繰る。
「おお」
 思わず感嘆の声が漏れた。
 そこには、無双シリーズの新作発表を告げるニュースが綴られていた。こんな身の上になっても、やはり新作発表には心が躍る。
 そういう意味では、はやはり筋金入りの無双ファンなのだった。
 この手の雑誌の悲しさで、特集と言うにはあまりに薄い内容ではあったが、それでもは二度三度とレビューを読み返す。新システムやら新キャラやらと、『新』の文字を数える度に期待と不安が入り交じった。
――リストラ出ないといいなぁ……てか、新キャラ登場で他の既存キャラに変な影響出んといいんだけど。
 かつてのシリーズで見られたいい点悪い点が、次から次へと思い浮かぶ。
――あそこは良かったけど、あの描写はあんまりだったんだよなぁ。けど、完はあれがいいんだって言ってたっけな。
 創作意欲に火が着いた。常備しているリングノートと筆記用具を取り出して、埒もない落書きを始めてしまう。
 さりさりと、シャーペンの芯が削れる音が微かに響いた。
 デフォルメの効いた趙雲を描き終えたところで、はっと我に返る。
 苦笑が滲んだ。
――なかったことに、なり掛かってる。
 改めて、自覚した。
 接触どころでない『関係』を『彼ら』と持った。決して夢ではない。
 夢でない証拠に、自分の家には陸遜が居る。筈である。
 にも関わらず、この現実味のなさはどうだ。
 は、テーブルに肘を突く。
 冷たい。
 やはりこれは現実だ。が狂ってしまったのでない限り、全部本当の話なのだ。
 しかし、今、はすべてを夢にしてしまえる『術』を手にしていた。
 陸遜だけを元の世界に返してしまえばいいのだ。
 そして、条件さえ揃えば実に呆気なく叶ってしまう話だということも、は自分の体験で、これ以上なく理解している。
 陸遜が如何に一人で帰らないと宣言していたとしても、だ。
 どうしたものか。
 本当にどうしようというつもりもなく、何とはなしの流れで思索に耽る。
 本気で悩んでいないが故の軽い思索だ。
 本気で悩むには、あまりに重い問題だった。
 どうするのが一番良いのか。
 誰にとって、誰の為にという点で、一気に胡乱になる価値観である。指先で突けば四散してしまう、水に浮いたインクのようだ。
 ぼうっとしていると、後頭部に軽く鋭い衝撃が走る。
「……った!?」
 頭を抱えて振り返ると、いつ入ってきたのか、完が呆れた顔でを見下ろしている。
「痛い、何!?」
 半ばキレ気味に叫ぶと、完はの座すソファを回り込んで隣の席に腰を下ろす。
「何もも何も、お前、全然反応せんから」
「……ぼーっとしてたから……」
 その理由は言い難かった。
 事情を洗いざらい話した完相手だとは言え、そもそもがあまりに荒唐無稽で不条理に満ちた、あまりに信じ難い話である。自身の行動も、理屈に叶ったとは到底言えない、その場その場の突拍子もないものばかりで、お恥ずかしいにも程がある。繰り返し、まして自慢げに話せるような類のものでもない。
 黙ったを完が追求することはなく、その手元をひょいとのぞき込むに留まる。
「お前、ホントに趙雲好きだねぇ」
 意表を突く言葉だった。
「好きじゃないよ」
 反射的に返した言葉に、完の目が丸くなる。
「……あ、いや、うぅん……」
 何故か無性に恥ずかしくなって、はもごもごと口ごもる。
 完は、ソファの背もたれに深く体を預けると、何とも言えない薄笑みを浮かべた。
「……何か、ああ、今になってよーやく得心した気がすんなぁ」
「何、が」
 心の底から納得することが出来たと言わんばかりの、これ以上なく晴れ晴れとした完の言葉に、は無意味にうろたえてしまう。
 どうしてなのかは、分かりたくなかった。
「うん、まぁ、あの趙雲は、ホントに趙雲だったんだなぁって」
 分かっているのかいないのか、完はそんな言い方をする。
「どういうこと」
 突っ込まなければいいとは思う。
 けれども、突っ込まずにはいられない。
 不思議な話だ。
 完は、どこか面映ゆいような、それでいてくすぐったそうな顔をして、頭を掻いている。
「うん、お前の話は、全部、ホントに今更なんだけど、全部本当だったんだなぁって、今、確信した」
 眩暈を感じて、倒れ込みそうになった。
 顔がやたらと熱くなり、目元にじんわり水気が溢れる。
――違う違う、私はさっき、ホントのホントの今さっき、現実味が全然ないな、夢の話にしちゃえるんだなって確信したばっかなんだよ。
 の心の声は、音として発せられることはなかった。
 やたらと顔を赤くして、茫然自失としているを、完は謎の生物を見るようなやや冷たい目で観察する。
 おもむろに指を伸ばすと、テーブルに広げられていたゲーム雑誌をとんと突いた。
「これ、先月号だぜ」
「……は?」
 いきなり変わった話題に、はいまいち乗り切れない。
 完は構った様子もなく、雑誌を手に取りぱらぱらめくった。
「ほれ。最新号は、明日発売。ちょっと気の利いた奴なら、もう手に入れてネットに情報流してる」
「嘘ん」
 しかし、完の言うとおり、次号発売は明日の日付を指している。最新号と思いきや、一ヶ月遅れた号をうかうか手に入れてしまったらしい。
「お前、ホント間が悪い」
 馬鹿にしたように笑われても、事実であるが故に分が悪い。
 さすがにも、やってしまった感を否定も出来ず、うぅと唸るくらいしか出来なかった。
「……んで、まぁ、お前が間ぁ悪いって保証が出たとこでアレなんだけど」
「保証まで言うか」
 即座に反応するも、完は既に違うことを考えていたようだ。重たげな視線が、切り出す事柄の重量を物語っている。
 がその重さを理解したのは、完が実際その話を口にしてからだった。
「お前、陸遜と寝る気ない?」
 しんと静まり返った部屋の空気の重さを、何に例えたら良かっただろう。
 は、言葉どころか意識でさえも、一瞬真っ白になる程の衝撃を受けた。

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