「ね、寝ない」
頭の中は、白熱したかのように真っ白になっていた。
言葉を発したことを認識するのにすら時間が掛かった程だが、言った内容には微塵も後悔していない。
無理だ。
頭の中で叫んでいることに気付いて、慌てふためき声に出す。
「む、無理無理無理無理。何で。無理」
思考と言動が一致した途端、は激しく拒絶を始めた。理由もくそもない、とにかく『無理』の一言に尽きた。
「何でって、何で」
動揺ここに極まれりなとは裏腹に、完は冷静に突っ込んでくる。
「何でって……」
理由がないのではなく、あり過ぎて、それらが一気に浮かんできて、の口を塞いでしまう。
口をもごもごと動かすばかりのを見て、完は溜息を吐いた。
責められているようで、余計に言葉が詰まる。
「……あぁ、違う違う。ごめん」
完は、顔の前でひらひら手を振って否定する。
「どう説明したもんかな……」
珍しく歯切れが悪い。はどうしていいのか分からず、沈黙して待つよりなかった。
しばらく考え込んでいた完だったが、不意にに向き直る。
「あのー、な。これから話すことって、正直、正否の判断付かんことなんだよね。保証とか出来ない、それこそ推理どころか妄想に近いレベルの話で、お前のこと糞味噌に言ってるように感じるかもしれんけど、ホント申し訳ないとは思うけど、そんなつもりはまったくないから、それだけは理解して……イヤそれも難しいとは思うけどさ、とにかく、そんなつもりはないから」
言い訳がましくてごめんな、と付け加える完の顔は、酷く複雑そうだった。
実際、言い訳がましいというより言い訳そのものに聞こえかねない内容ではあるのだが、付き合いの長さと深さのせいか、は自分でも意外なくらいすんなりと頷いていた。完の言うところの『これから話すこと』とやらを、未だ聞いてないのも大きかろう。
完もそのことは察しているのか、の頷きを見てからも疑わしい表情を消すことはなかった。
しかし、話さぬことには進むものも進まない。
遂に諦めたのか、完はウーロン茶に手を伸ばして唇を湿らせると、もう一度溜息を吐いた。
「……お前、知ってるかどうか知らんけど、ここんとこ、私と陸遜とで話し合ってるんだわ……何か、主にお前のことになっちゃうんだけど」
はぁ、と気の抜けた相槌しか打てない。そもそも本題に入っていないのだから、仕方ない。
完も、当然とばかりに軽く頷き、話を続ける。
「まぁ、何というか、私としては、『何でこういう事態になったのか、なっているのか』ってことに興味がある訳でさ。お前には悪いけど、お前の話まともに聞いてたら、フツー、いらっとすると思うよ、悪いけど」
それはそうだろう。
自身、自分の経験したことを人の経験したこととして聞いたとしたら、いらっとどころか、頭悪いんじゃないかとかオカシいんじゃないかとか、そんなことを考え出しそうだ。
完が当たり前にの『経験』を受け入れてくれたこととて、今でも不思議でしようがない。
困惑を隠せずにいると、完もまた困ったように笑う。
「……お前は、相手をいい風に取るスタンスみたいだからなぁ。私は、逆なんだよ。だから、お前が何してようと、割と平気というか……求めるものがないっつったら、お前は嫌かもしれんけど」
嫌というか、何となく傷付いた気がする。
求めるものがないというのは、即ち期待をしていないということと同義に思えるからだろう。
相手に何の期待もしない人間関係というものを『健全』と思える人とは、友達になれない気がする。何でもかんでも頼る関係は単なる依存、とて絶対に御免被りたいが、ある程度は頼る頼られる、またそれを期待するのが友達ではないかとは考えている。
完は、それがないと言い切ったのだ。
お前にそんな力はない、論外と評価されたようで、とても寂しいし恥ずかしい。
「うん、だからさ、そうじゃなくって……つか、話が逸れちゃうな。一応言っとくけど、むしろ私は私のスタンス、お前に申し訳ねーなって考えてるよ。親身になれないってことだもん。ま、でも、この話はもうここで終わりな」
が突っ込むより早く、話は打ち切られてしまった。話を始めた完が終わりと言えば、も追求しようがない。
正直、ほっとした。
追求して楽しい話題ではなかったから、どこか怖い気がする。要するに、仮に追及して、自分が傷付くかもしれないことに怖じ気付いていた。
流していいことと悪いことがあるのは分かっているが、この場合がどちらに当てはまるのか、即座に判断できる能力をは持ち合わせていない。
だから、完の作る流れに逆らうことが出来なかった。
我ながら言い訳じみている。
これが良くないんだろうな、と自己嫌悪すると同時に、腹の底が重くなるのが感じられた。
もう少し上手く出来たらいいのに、と幾らか憂鬱になる。
「話、戻すわ。上手く話そうとすると余計に上手くいかんみたいだから、端的に言うよ」
「う、うん」
考えなしに頷いたことを、はすぐに後悔した。
「陸遜、飢えてるみたいなんだわ」
「うえ」
完の言葉は、最初漢字に変換されることなく鼓膜から吸収される。『うえ』という音の単語は少なくなく、故にの理解を促すに到らず、完の言葉を更に赤裸々にする羽目に陥る。
「だから、このまんまだと強姦しかねないって。陸遜が、お前を」
ぎゃあ、と呻くに、ぎゃあじゃねぇだろと突っ込みが入る。
しかし、ぎゃあと言わずに何と言うべきだ。
「あ、あ、あの、あのさーぁ、陸遜だよ? あのー、確かにちょっとアレなとこもあるかもしれんけども、でも、さすがにそれって、いくら何でもさ……」
グダグダ過ぎて、自分でも何を言っているのか分からない。しかし、言わずにいられない。
いくら何でも、陸遜に対して酷過ぎないか。
「だから、言っただろ。私は、陸遜と話をしてるんだって」
いやでもと言い募るの無駄口を遮って、完は無理矢理話を続ける。
「つか、陸遜自身がどうこうじゃないんだって。……話が端的過ぎたかな。とりあえず、一通り聞いてくれん?」
「あ、うん……ごめん」
いつの間にか前のめりになって、半腰に浮いている腰を戻す。
「いや、謝らんでいいけど。つか、うん、とりあえず話続けよっか」
完はウーロン茶を一気に飲み干し、気持ちを切り替えたようだった。ほっと短く息を吐く。
どうも、本当に話し難い話題らしい。
「……あのな、さっきも言ったけど、私は今の『事態』に付いて追求したい訳よ。下世話な話、興味本位だけどな……あぁ、ごめん、こういうこと言うから話が逸れるんだよな……まぁ、置いといて、で、陸遜に話聞いてる訳なんだけどね。話してると、どうしても話がずれる。私がその場の状況訊いてるのに、陸遜はその時のお前の話をしだすのね。例えば、何か気付いたことはないかとか、何か見なかったかって訊くじゃん? そうすっと、陸遜、当ったり前にお前のこと話始めるのよ。最初は気付かなかったんだけどさ、慣れてくると、ますますお前の話しか、せんくなってなぁ……何だろーなー、とか思ってたんだけど、どうも本人も違和感みたいなもんを感じてたらしくて、で、ついさっきなんだけども、ぽろっとね。これはヤバいんじゃないかってことを漏らしてね」
――私はどこか、おかしいのではないでしょうか。
「メシをな。食うじゃん? その時は、少し落ち着くんだってよ。だけどもさぁ、メシ食い終わって、一息吐いて、ぱっと顔を上げるとお前がそこに居る訳じゃん? そーすっと、手を、ホントに無意識なんだけど、伸ばしそうになるんだってよ。お前に」
「はぁ?」
早速話の腰を折ってしまい、は慌てて口を押さえる。完にも察するところがあるのか、苦笑いで流してくれた。
「何でメシ食って、って思ったかもしれんけど。実際、陸遜も自分で何でだって困ってるみたいだったしな……でも、『それに見合う条件』を『考えるだけ』だったら、ホンット簡っ単に浮かぶもんがある」
何だ。
が目で問うと、完は大仰に腕を広げて見せた。
「世の中には、セックスすることで力を得るって教えやら宗教やらが、ごまんとあるんだぜ」
「……はぁあ?」
食事を取ることは、即ち生きる力を得る為の基本的な行動である。
その食事とそういうことは、並べていいものではないとは思う。
けれど、完の言う通り『そういうこと』で長生きが出来るとか若返ることが出来る、という思想があることもまた、厳然たる事実だった。
「んで、最初の話に戻るんだけど」
驚愕しているを余所に、完はあくまで淡々と話を続ける。
淡々としているように心掛けているだけ、とも取れなくもないが、赤裸々な話に浮足立っているには、そこまで気を回せるだけの余裕がない。口を開けては何も言えずに閉ざし、テーブルに手を掛けては下ろす、といった無意味なことを繰り返すのみだ。
そんなことでもやっていなければ、大声を出して喚き散らしてしまいそうだった。
しばらくはの出方を伺っていたような完だったが、の思考処理能力が破綻していると見るや、止めを刺しに掛かる。
「お前、陸遜と寝る気ない?」
わぁ、という悲鳴を上げ掛ける。
ぐっと堪えたのは、自分でもあまりにふざけているような気がしたからだ。
代わりに、何故か目の端がじんわり濡れる。
泣いたって仕方がない。
だからといって、冷静には対処できなかった。
「……そんな嫌? 何で嫌?」
「嫌……っていうか」
陸遜のことは嫌いではない。
だが、『嫌いではない』というだけで、どうこうしたいと思える程好きな訳ではない。
好きではないのに寝ろと言われて、はい分かりましたと安請け合いは出来なかった。
「何で駄目?」
「…………」
完の問いに、答えられない。
言いたいことは分かる。
が白状した経歴を鑑みれば、今、何故陸遜だけが駄目なのかと責められても仕方がない。
状況が許さなかった、という言い訳はきかない。
何故なら、それは自身がずっと否定してきた理由だからだ。これまでずっと、は『自分は自分の意志で許して来た』と考え、納得することで、自分の矜持を守ってきた。
今更都合良く否定するつもりはない。
「……私も、この手の話に精通してるって訳じゃないし、ざっと調べたところですぐに詳しくなれるもんでもないし。でも、嫌々やっても何とかなるって記述は、どうしても見付けらんなかった。だから、お前がその気になんなかったら、陸遜が暴走したって事実が残っちまうだけで、何もならなかったってことになると思う」
もしそうなったら、最悪を極めることになる。
何故なら、そんな最悪の関係になったとして、陸遜はの庇護なしに生きられる状況にないし、そんな陸遜をが見捨てることは、心情としても許されないからだ。
心が完全に遮断された状態で、あの狭い空間で、錆び付いた怨念紛いの感情を抱いたまま生活しなければならないとしたら、籠の鳥どころでなく息が詰まるだろうことは想像に難くない。
仮定しただけでもげっそりしてきて、は、口の中に湧く苦い何かに眉を顰める。
と、突然ノックの音が響き渡った。
驚く暇もなくドアが開き、カラオケ店の店員が顔を出している。
「遅くなってスイマセン、御注文のウーロン茶でーす」
歌うように朗らかに宣言すると、さっとウーロン茶のグラスを置いて立ち去っていく。
つむじ風のような登場と退場に、淀んだ空気が否応なしに一掃されてしまった。
「……あ、悪い」
完は、空にしたグラスを摘まみ上げる。
飲み干してしまったのがのグラスだったと、ようやく気が付いたらしい。
もっとも、当のも今まで気が付いていなかったのだから、詫びてもらうのもおかしな気もする。
むしろ、完らしからぬミスに、冷静に見えていた完もやはり動揺していたのだと実感した。
そこまで負担を掛けていることに、またそこまで心を砕いてくれていることに、本当は感謝しなければいけないのだろう。
にも関わらず、口は一向に動かない。感謝の言葉も浮かばない。
熱く膿み散らかした、ささくれだった気持ちばかりが心を満たしていた。
「……失敗したなぁ」
新しいウーロン茶のグラスを取ると、完は極自然な流れでの前に置き直す。
間違えて飲んでしまったことを恥じているのかと思ったが、違った。
「予想がどうとか正否がどうとか、ンな言い訳せんで、これはこうでこうなんだ! ……ってぱっきり言っちまえば良かったんだよな。したら、お前だってもう少し割り切れて考えられたよなぁ……バカだ、私ゃ」
――例え自分が泥を被ろうとも、それで話が丸く収まるのであれば。
そんな潔い前提に基づいていなければ、到底口に出来ない言葉だった。
「ごめん」
完の男気に釣られるように、感謝よりも先に詫びの言葉を漏らしていた。
途端、完は慌てたように首を振る。
「何でお前が謝んの。下手こいてんのはこっちだって、言ってるじゃん」
「うぅん、ごめん……ごめん、ホントにごめん」
遮る完に被さるように、は詫び続ける。
誰かに対してこれ程申し訳なくなることはないだろうと、は人生で何度目かの猛省をしていた。