話が済むと、はすぐにカラオケ店を出た。
 完は、折角だからヒトカラして行くと言って居残っている。
 に気を遣ってくれたのか、それとも疲れて一人になりたかったのか、本音のところはそんなだろうと思われた。話し終えた完の顔が、酷く疲れていたからだ。
 どうしてこんなに関わろうとしてくれるのか、どうしても不思議になる。
 元々の完の人となりを考えれば、こんな風に熱心に他人事に携わろうとするタイプではなかったように思う。むしろ、面倒事は御免とばかりに、嫌なことや煩わしい人間は避けて通るようにしていた筈だ。
 、もとい陸遜が相手だからだろうか。
 会話の中で『興味本位』という言葉やそれに類する単語が繰り返し出てきてはいたが、それも何だか言い訳じみていた。
 何かあるのかもしれないと思うが、もまた、誰かの本音を探るといった行為が得意ではない。
 完ならば、いつかは話してくれるかもしれないし、実害(こう言っては何だが)を被りでもしない限り、無理矢理聞き出したいとも思えない。
 第一、あの完が焦って緊急招集を掛ける程に煮詰まっているらしい、陸遜の心配をこそまずするべきではないか。
 微妙な内容故に複雑な現況を整理すべく、ともすれば発熱しそうな頭を夜風で冷やしながら思考を開始する。
 仮定として完が提議して来たのは、『陸遜がこの世界で生きていく為に、『そういうこと』をする必要があるのではないか』ということだった。
 根拠は、陸遜の不安定な言動を類推した結果だ。
 はずっと、陸遜は拗ねてまたは不貞腐れて、あのような態度を取っているのだと考えていた。
 あの夜の言動を踏まえれば、陸遜がを『求める』のは陸遜自身の好意から、としか受け取り様がなかったからだ。
 しかし、そうでないとしたら、否、それはそれで合ってはいるが、『期待』だけでは済まされない、いわば『必需』の行為として『そういうこと』をする必要もあったのかもしれない。
 思索を続けていく内に、陸遜の類似ケースとして思い出したことがある。
 の足が止まった。
 仮定を裏打ちする為にはこれ以上なく理路整然とした見解ではあったが、それと同時にのプライドをずたずたに引き裂く見解でもある。
――子龍。
 今なら、仮定を事実として考えるなら、分かる気がする。
 あの日趙雲が唐突に浴室に乱入して来たのは、から『生きる為の力』を得る為だったとすれば、疑問は立ちどころに氷解していった。
 抱き締めた肌の下から感じる『糧の気配』に、自分が本当は何を得たいと望んでいたかを知ったとすれば、趙雲の行動は極々正当なものであったに違いない。
 それをしなければ、死ぬまでするかどうかは分からずとも、弱って正常な判断が付かなくなるとしたならば、趙雲は迷わずするだろう。
 事実、した。
 あの時点で、幾らか判断力を損なっていたのかもしれない。
 だから、唐突だった。
 筋は通る。
 それでも、の気持ちは暗く湿っていく。
 恋情が極まって暴走した結果ではなく、単に、飢えを極めてそうせざるを得なかったのだとしたら。
――私じゃなくて、良かったのか。
 自惚れと言わば言え、と半ば自棄になる。
 好いていてくれているのだと思えばこそ、そんな趙雲を好きだと(あの時は)認識したからこそ、は趙雲の暴走を恐れ、悩み、憎み、傷付きながらも許したのだ。
 への好意が歪んでしまっただけだと思ったからこそ、許せた。
 それが、もしそうでなかったとしたら、否、そうでないとした方が余程自然だった。そのぐらい唐突な行為だったのだ。
――好きじゃないから、出来たのかもしれない。
 陸遜は、の懇願を聞いて、一応は踏み止まってくれた。
 趙雲は、止めなかった。
 幾許かの苦笑を招く誤解もあったが、痛いと泣いて訴えても、戸惑いすら見せずに最後まで己の勝手を通し抜いたのだ。
 情がないからこそ、出来たことではないか。
 陸遜との結果の差異が、そのことを見事に証してくれているではないか。
 ぼろ、と音を立てて涙が零れた。
 頬を流れる間もなく地面に落ちた染みを、は呆然と見詰める。
 少なくとも、あちらの世界に行った後、趙雲はに精一杯の愛情を手向けてくれていた筈だ。言動も行動も、不器用で一部歪ではあっても、鈍いでも勘違いしようのない、歴然としたものだった。
 けれど、始まりはそうでなかったのかもしれない。
 気付いた途端、あれ程積み重ね蓄積されて来た筈の確かで愛おしい感情が、脆く崩れ始めていた。
 始まりが偽りならば、どこからが本当だと言うのか。
 偽りから始まったと思しき感情を信じられなくなったとして、それを責められたくはない。
 同情であればまだしも、罪の意識から生じた恋情など、有難くもなんともなかった。
 逆に、罪滅ぼしから好いてやったというような傲慢ささえ感じられて、吐き気を覚える。
 しばらく立ち止まって泣いていたが、人目があることを思い出し、慌てて歩き出す。
 平日ということもあってか、幸いの涙に気付いた者は居なかったようだ。居たとしても、赤の他人の涙に気を遣う奇特な人間が早々居るとも思えない。
 徹底した無関心が、今のには有難かった。
 再び歩き出したことで、停滞していた思考も動き始める。
 今は、ここに居ない趙雲のことよりも陸遜のことを考えてやらなくてはならない。
 完の言ったことは突拍子もなかったが、趙雲の時のことを考えればまったくの見当違いとは言い切れそうもないからだ。
 陸遜が暴走めいた真似をして以降の態度が、が受け入れなかったという不満によるものでないとすれば、何がしかの体調不良または精神の不安定からくるものと考えてもおかしくはない。
 年の割には礼儀正しい、どちらかと言えば他人行儀なところのある陸遜の気質を鑑みれば、へのあの態度は一種異様と言えなくもないではないか。
 どうしてもっと早く気付かなかったのかとも思うが、今更後悔しても後の祭りである。
――気を許してくれている証拠、みたいに思っちゃってたしなぁ……。
 完の、『お前は相手をいい風に取る』と言った声が蘇る。
 あれは、褒めているようでもあるが、逆に苦言を呈しているのかもしれない。あんまり自分の都合のいいように取っている、と、本当は言いたかったのではなかったか。
 あちらの世界とこちらの世界、両方を体験したこそ、一番陸遜を気遣ってやれる立場にある。
 本来あり得ない立場に立たされている陸遜のことは、何より優先して考えてやらなくてはならない筈だった。
 趙雲の時には、もう少し気を配っていたような気もする。
 それが、完という心強いアドバイザーを得たことで、自分は手を抜いても大丈夫だと勘違いしてしまったのかもしれない。
 反省は幾らしてもしたりなかったが、今すべきはとりとめもない反省よりも、今後のことを考えることだ。もしも陸遜が、本当に完の言うような状況にあるとしたら、確認しなければならないことが幾つかある。
 一つは、陸遜の『不調』の原因を確かめること。
 一つは、その不調をどうすれば取り除けるのか話し合うこと。
 一つは、もしその不調を取り除く方法が一つしかないとして、それはでなくてはならないのかということ。
 そして最後に、もしでなければならないとなった時、果たしてはそれを受け入れることができるのか、ということだ。
 本音を言えば、後半二つに関しては自信がない。
 と言うより、出来ればそうならないで欲しいというのが正しい。
 重ねて言えば、もしそうであったとしても他に方法がないものかと思考が逃げの一手を打つ。
 何故だろうと考える。
 今までは『許して来た』。そして『許して来れた』。
 陸遜だけが、何故駄目なのか。
 年が若いからか。
 ならば、姜維はどうなる。一つ二つの年の差が、そこまで歴然とした区別を受ける理由に値するのかどうか。
 恋愛感情がないからか。
 けれども、恋愛感情がないにも関わらず関係を持ってしまった相手も居ない訳ではない。どころか、そういう関係の方がずっと多いように思う。
 ほとんどの場合、は受け身で在った。
 それでいいというより、そうであると考えないようにしてきた気がする。
 矛盾してはいないか。
 そんな状態で、どうして許すの許さないの、自己責任だのと言い切ることが出来るのか。
 陸遜のことでは、『命に関わるかもしれない』というこれ以上ない『理由』まである。
 この期に及んで四の五の言う必要もない、歴然とした『理由』だ。
 確かにそうであるとは言い切れないかもしれないが、試して駄目だということもない。
 少なくとも、まったく知らない土地、まったく知らない世界に何の前振りもなく飛ばされて、頼る者はしか居ないという劣悪な環境なのだ。精神的にだけでなく、それこそ肉体的にもに依存したとして、それでもぎりぎり安定できるか分からないくらいに不安だろうし、不安でおかしくない。
 趙雲の時のように何もかもが手探りという訳ではないのだから、にも出来ることを思考するだけのゆとりはある。
 であれば、やれることをしてやるのが人として当然ではないか。
 陸遜がこの世界に飛ばされて来たのは、そもを助ける為だった。
 それが余計な御世話だったとは、口が裂けても言うべきでない。心の底から感謝してしかるべきであろう。
――……でも、なぁ。
 理由もある、情もある。
 それでも踏み出し切れない逃げ腰な自分に、は自己嫌悪を感じていた。
「……あぁ、もう」
 足を止め、背筋を伸ばす。
 顔を上げると、自らの頬をぴしゃりと思い切りよく叩いた。
 空気の冷たさとは裏腹に、じんじんと熱くなってくる。
 その鮮明な対比が、を落ち着かせてくれた。
 考えても答えは出ない。ならば、考えても仕方がないではないか。
 とにかく陸遜に確認をして、何もかもがまずそれからだ。
 勢い込んで足を踏み出すと、小走りに近い早歩きになる。
 感情がそのまま速度に現れたかのようなの気合いは、眠っていた野良猫が慌てて逃げ出す程だった。

 細く暗い道を抜け、自宅前まで戻る。
 その頃には、あれ程勢い込んでいた心が不思議な程に萎え果て、行きつ戻りつのうじうじした自分に返っていた。
 最強モードが解けてしまった、アクションゲームのキャラクターのようだ。
 なまじ張り切っていただけに反動は激しく、自分の家の前でありながら、不審人物よろしくうろうろと歩き回っている。
 いきなり玄関の戸が開いた。
 陸遜が立っている。
 足にのつっかけサンダルを履いているのが、何故か一番気になった。そんなことを気にしている場合ではないと理解はしているのだが、我ながらよく分からない。
「……お帰りなさい」
 ぽつりと呟く陸遜の口元に、薄く笑みが刷かれる。
 どこか無理をしているようだったが、陸遜が笑ってくれるのを見るのはとても久し振りな気がした。
「た、ただいま」
 裏庭に向いていた足を慌てて引き戻し、玄関に向かう。
「あの……待っ、てたとか?」
 不審者の気配に気が付いて出て来たにしても、少々早過ぎる気がした。それに、玄関から顔を出した時の陸遜の表情は、明らかに相手が誰かを心得ていたように思える。
 の問いに、陸遜は一瞬逡巡して見せた。
 わずかな間があって、小さく肯くと、言い難そうに目を逸らす。
「……完殿から……連絡を、いただきまして。その……話し難いことだろうが、この際、照れずに、腹を割って話すように……と……」
 やられた、と思った。
 完は、の逃げ道を塞ぐべく早々に手を打っていたらしい。
 それまで強く根付いていた、感謝しなければという強迫観念じみた謝意や改悛の気持ちが、ぼん、と音を立てて消え去った。
 司馬懿が諸葛亮にしてやられた時、きっとこんな気持ちになったに違いない。
 曰く、『あの野郎……!』だ。
「ああ……うん……」
 内心の複雑な感情が、その複雑さ故に胸に詰まって言葉にならない。
 向かい合っていた陸遜が、を招き入れるように半身をずらす。
 物理的にも逃げられない状況に追い込まれ、は自らを確実に破綻せしめるであろう鉄火場に、向かわざるを得なくなったのだった。

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