玄関の戸を潜ると、うるさかった心臓の音は更に大きく騒がしくなった。
 息苦しくなって唾を飲み込むが、それも喉に引っかかってしまい、スムーズにいかない。
「……大丈夫ですか?」
 陸遜が心配そうに振り返るが、その表情は複雑だ。
 さもありなん、とは思う。
 ただ、かねてからの希望が叶うのだから、いいじゃないかという意地の悪い感想も、ちらりと頭をかすめる。
 完の気配りは、良くも悪くも二人の行動を戒めていた。
「だめだ」
「はい?」
 上がり口で立ち尽くしていたの声は、居間に入ろうとしていた陸遜に敏く拾われる。
「……どうかしましたか」
 どうかもクソもないのだが、陸遜も戸惑っているのだろう。ここは、が年上として仕切るべき場面だった。
「ちょっと、話をしよう」
 陸遜は不思議そうに首を傾げたが、何も言わずに頷いた。
 名目上、話し合いをしようということで移動をしている。そのことを踏まえれば、改めて話し合いをしようと拳を握るの様は、滑稽なものでしかない。
 けれども、名目はあくまで名目であり、その真なる目的は、もっと原始的かつ肉体労働的なものなのである。
 ぶっちゃけ、言葉のやりとりなど蛇足もいいところだ。同意さえ出来るなら、アイコンタクトで十分な話だった。その同意に到るまでの紆余曲折を、省略できないからこそ自分なのだと、は鼻息荒くしかし落ち込んでいる。
 矛盾だなぁと思いながら、はいそいそと茶の支度を始めた陸遜を見下ろしていた。

 促されてようやく足を入れた炬燵からは、予想された熱を感知出来なかった。
 が出て行った後、陸遜はマメマメしく炬燵の電源を切り、節電に努めてくれたらしい。残滓のような温もりが、却って寒々しさを増す。
 炬燵を消した理由が、地球環境を鑑みてではなく、の財布に負担を掛けないようにする為だということは訊くまでもなかった。陸遜に、地球環境という概念はそもそもない。
 遠慮しないでいいのに、と思う。
 その分、遠慮して欲しいところが遠慮できたら良かったのに、とも思う。
 上手く行かない。
 けれども、それならそれで削れるシノギというものもあろう。
「あのさーあ、陸遜」
「伯言です」
 陸遜と呼んだり陸と呼んだり伯言と呼ばなければならなかったり、気持ちが忙しくて落ち着かない。
 眉間をごりごり掻いて気を静め、脱線しそうな会話の維持を心掛ける。
「……じゃあ、伯言」
 今度は黙って頷く陸遜に、面倒臭さを感じない訳でもない。こんな性格で、よくあの呉に居られたものだ。
 あるいは、案外逆に重宝されているという可能性も、なくはない。
 と、ここで早くも脱線し掛けていることに気が付いて、苦笑が滲む。気付いているだろう陸遜が指摘してこないのは、と同じように会話の脱線を恐れてのことかもしれない。
 慌てて口元を引き締め、居住まいを正す。
 コホンと大仰に咳払いして、今度こそと切り出した。
「……あのね、伯言。最初に言っておくと、私は、処女です」
 決して照れまい、動じまいと意気込んではいたものの、いざ言葉にしてしまうと、決意とは裏腹に顔が一気に熱くなるのを感じる。
 炬燵の電源が切ってあって良かったなどと、埒もない方向に意識を飛ばさなければ、理性の保全も難しいくらいだ。
 陸遜は、少し驚いたようだったが、を追求してくる様子はない。とりあえず一通りの話を聞こうとしているようで、この辺はもしかしたら完に言い含められてのことかもしれない。が、にとってはただただ有り難い心掛けだった。
 陸遜とは特に、二人して発言権を争うあまり、訳の分からないことになる確率が高い。
 言うなれば、陸遜にはを黙らせるに足る、孫策のような勢いまたは周瑜のような知性、孫堅のような威風や呂蒙のような人柄に匹敵する能力がない、という証であろう。
 故に未熟、以て若さと評されるのだろうが、当の陸遜に自覚があるかはまた別の話である。
 ともあれ、今、陸遜は自身を慎みの次なる言葉を待っていた。期待に応えなくては、進むものも進まない。
「あの、携帯を、買いに行った時があったじゃない? あの時、ちょうど時間が空いて、ちょうど保険証もあって、だから、ちょうどいいからっていうのもあって……」

 あの日、は携帯の更新を待つ時間潰しの為、たまたま見掛けた産婦人科の看板に従い、その門を潜った。
 かねてから、性病を患っているかもしれないという懸念があったからだ。
 治療以前にまず事実確認をと望むには、行きずりに出来る病院を発見出来たのは、正に僥倖といえる。
 勢いのまま飛び込み、初診の質問用紙に記入を終えたは、平日の中途半端な時間だったことが効を層してか、すぐに診察室に通された。
 記入した用紙に目を通しながらの形式的な質問を終え、診察はすぐに『実質的』なものに移る。
 下半身を剥き出しにして座るビニール張りの椅子は冷たく、の緊張を高めていく。
 初老の医師は、楽にしてて下さいねと優しく言ってくれたが、言われた通りにはなかなか出来ないものだ。
 下半身から向こうを寸断するように引かれたカーテンの反対側に、人の気配を感じる。と、羞恥とも恐怖とも付かない緊張で、体はますます強張っていく。
 足と足の間に、固い感触がある。
 何か入れるのかと察しが付いた途端、背中に脂汗が滲み出た。
 生理的な反応で、これは制御しきれるものでもない。
 先生の邪魔だけはするまいと、足に力を篭めた、その直後だった。
 診察は中断を余儀なくされた。
 の絶叫が、診察室はおろか、病院中に響き渡ったからだ。
 表現するにはなかなか難しいのだが、敢えて文字に直すとすれば『いがぐぐがげうがが』という感じだったろうか。これを、伸ばしながら絶叫したと想像してみれば良い。
 医者も驚いたろうが、もまた驚いた。
 いわゆる『経験者』として診察を受けたの体は、実は未だに『清い』状態を保っていたのだ。
 理由はまったく分からない。
 ただ、それ故に挿入された『器具』がもたらした痛みは尋常でなく、衝撃が促した身体の反射は医師の顔面をベタに蹴り込むという奇跡を呼び、後にしこたま怒られる結果に繋がる。
 傷害で訴えられるかとビクついたが、怒るだけ怒って気が済んだらしい医師は、仁の心で診察を再開してくれた。
 そうして、は晴れて『処女』のお墨付きを頂いた次第である。
 曰く。
「何かねー、おっかしいなと思ったんだよー。経験人数の割には、あれー? ってねー。だから、不安もあって、一応そっとはしたんだけど、うーん、ちょっと……切れちゃったかもねぇ……あのー、でも、うん、一応大丈夫……だと思う……大丈夫、だから、うん、大事にしなさいねー」
  という実に心強い医師の言葉を信用するなら、は『一応』破瓜を免れたようだった。
 元はと言えばに非があるものの、を処女喪失の憂き目に遭わせたことは、男性医師にとってそれなり引け目に思うところがあったのだろう。
 のベタキックと処女膜破損でイーブン、ということかもしれない。
 何にせよ、自身は意図していなかったとは言え、第三者からすれば『過分な見得』以外何物でもない虚偽報告をしてしまった訳だ。精神ダメージが大き過ぎて、得をしたのか損をしたのか分からず仕舞である。
 無論、性病の疑いはないに等しかったが、それでも念の為に調べて頂くことにした。結果は郵送で届けられたのだが、開封するのに幾分緊張したのが馬鹿馬鹿しくなる程、綺麗さっぱりシロだった。

「……正直、だから、それで、踏ん切りが付かない……っていうのもあって……」
 陸遜の為に、出来ることはしてあげたいという気持ちはある。
 けれども、失ったと思っていた処女が、思いがけず失われてはいなかったという事実が、の執拗な未練を生み出していた。
 自分の体を与えることが、陸遜の存命に繋がるという理論が納得し難いと言うこともあったが、最たる理由はやはりこれだろう。
 沈黙してしまったの顔を、陸遜はじっと見詰めている。
 次の言葉を待っているようだったが、の頭は最早燃え尽きた灰と同じで、真っ白だ。話す気力も既に尽きていた。
「……それで、終わりですか?」
 しばらくして、陸遜が重々しく口を開いた。
「……うん……」
 言うべきことがないかと言われれば、どうだろうと首を傾げるところだが、では言えと言われても何も思い浮かばない。
 渋々ながら頷くと、陸遜は剣呑な目付きでを眺め回していたが、不意に脱力したような溜息を吐いた。
「それだけですか……」
 かちんとくる。
 それだけと言われればその通りだが、それだけと言い切られる程度の軽い話ではない。
 の不満は、陸遜の険しい視線にあっさり打ち砕かれる。
「では、破瓜さえしなければ良いですね?」
「……う、うん……て、え?」
 体が萎縮して聴力まで落ちた、という訳ではなかったが、思いも寄らぬ申し出に思わず聞き返してしまう。
「え? じゃ、じゃあ、その、しなくても……」
「それは、します」
 するんだ、と漏らしたに、陸遜はします、と力強く返した。
「破瓜せずとも、その寸前までで何とかなります……というか、します」
「なるんだ……」
 頷く陸遜を見ながら、はぼんやり、『ならいいか……』等と納得し掛ける。
 しかし、よくよく考えれば、『破瓜しない』というだけで、あんなことやこんなことはする訳だ。
 以前陸遜にされたことを思い出して、顔が赤くなった。
 陸遜が、再び溜息を吐く。
 かなり譲歩したのを未だ愚図愚図言うかと責められているような気がして、は首をすくめた。
「……でも、なら、先に言ってくれれば良かったのに……」
 憎まれ口を叩くに、陸遜は容赦なく舌打ちを浴びせる。
 またも萎縮して首をすくめたに、陸遜は改めて膝を向けた。
「言わなかったのではなく、言えなかったのです。私がこのことに気が付いたのは、貴女に拒絶された後でしたから」
 拒絶という言葉を、わざわざ選ぶのか。
 頭から押さえつけられている分、反発する気持ちは強い。
 むっとするのを見てかどうか、陸遜は静かな怒気に燃える表情を、一転してあからさまに気落ちしたものに変える。
「な、……何?」
 動揺を隠せないを、陸遜はじっと見詰め、ふっと反らす。矢庭に立ち上がると、の目の前に手を突き出してきた。
 ぴんと伸びた手は、今これからすぐにでも、という意味だろう。
 露骨な意思表示に、は焦り、うろたえる。
 動揺しても仕方がないと分かっていたが、いざとなると腰が引けるものだ。
 第一、陸遜の口からきちんと説明された訳ではないのだ。
「……や……っぱり、しないと……」
 ダメなのかと首を傾げれば、駄目だとこっくり頷かれる。
「わ、私じゃないと……?」
 頷かれる。
 万事休すだ。
 手だけでなく震えるのを、恐る恐る伸ばせば、伸ばし切る前に捉えられて引っ張り上げられた。
 勢い、陸遜の腕の中に飛び込む形になる。
 細身の癖に妙に筋肉質な肢体は、恐ろしい程力強かった。
「……何故、言わなかったと仰いましたね。このことに気が付いて、何故すぐ打ち明けなかったのかと、そういう意図で仰っているということで間違いありませんか?」
 ない、と言えばない。
 ただの憎まれ口だったと自分でも分かっていたのだが、それを言える気安さは微塵もなく、はそうだと応じるしかなかった。
 陸遜はに頷き返し、かなり不機嫌そうに眉を寄せている。
「私は、貴女と恋がしたかったのですよ」
 ぎょっとして目を剥くに、陸遜の眉間の皺は更に深くなる。
「……でも、もう、諦めました。もう、いい」
 ちょっと待ってと言う前に、待てない陸遜がの口を塞いでしまっていた。

← 戻る ・ 進む→

Divide INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →