陸遜の口付けは、その見た目からは想像も付かない程に荒々しく、雑だった。
 まるで本当に飢えているかのようで、は知らぬ間に拳を握り込む。
 食い込む爪のもたらす痛みに気付き、以て自分が怯えていることをようやく覚って焦る。
 飢えていると思うこと自体、陸遜に対して酷い偏見を抱いているかのような後ろめたさがあった。
 意識を中空に放り出す感覚で、敢えて何も考えないようにする。
 そうでもしないと、抱えた感情を陸遜に見抜かれるような気がした。
 固く目を閉じ、頭の中が空っぽになるイメージと同時に、完全な暗闇を想像する。
 矛盾した色合いの空想は、の意識を逸らすことを成功させた。
 と、不意に陸遜の手が離れる。
 疑問に思う間もなく、陸遜自身もから離れている。
 二人の間にどっと流れ込んだ空気が、どうにも寒々しい。
 え、と陸遜に視線を投げると、初めて見る萎れた表情に、改めて驚かされる。
 今まで見てきた陸遜は、怒ったり拗ねたりすることはあっても、こんな弱々しい顔をさらすことは決してなかった。触れれば折れてしまいそうな脆さを感じて、の心臓は鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
「り……伯、言……?」
 我ながら媚び媚びしい声音だ。
 情けなくなりつつも、他に手立てもなく、は陸遜を見つめる。
 けれども、陸遜はの視線を避けるように目を伏せ、よろけながら背を向けた。
 置き去りにするかのように、か細い小さな声で告げられた『おやすみなさい』の一言が、の胸に突き刺さる。
 何をしてしまったのか、正直まったく分からない。
 分からないが、何がしかしでかしたからこそ、あれほど陸遜を傷付けてしまったのだろうし、そうとしか考えられなかった。
 だがしかし、いったい何をしてしまったのだろう。
 分からない。
 荒っぽさに辟易したのが伝わってしまったのだろうか。
 飢えていると見下したことがばれてしまったのか。
 それとも、敢えて集中しないよう努めていたのがいけなかったのか。
 どれもありそうで、あるいは全てなのかもしれない。
 取り残され、居間に満ちる灰色掛かった蛍光灯の光が、を責め、押し潰そうとしているかのようだった。
 溜まらず灯りを消せば、今度は闇がを責める。
 自室に逃げ込んでも、奇妙な負い目は消えてはくれない。
 やるせなくなって、つい、パソコンを起動させた。
 本を読む気にはなれなかった。
 紙の匂い、ページを繰るといった心穏やかなものからは、距離を置きたかった。
 かといって、音楽を聴くような気分でもない。
 一つ事に集中するようなことは、何もしたくなかった。却って、陸遜のことを思い出されそうだ。
 唸る雑音とモニターの独特の光の下、無為なネットサーフィンをしているくらいが、気持ちを紛らわせるのには丁度いい。
 実際のところ、そこまで考えてパソコンのスイッチに手を伸ばした訳ではなかった。ただ、眠ろうにも逃げ場のない思考のループに陥りそうで、素直に横になる気になれなかったのだ。
 パソコンは、思ったより早く起動した。
 モニターに並ぶアイコンの列を見ると、無性にメールが気になり始める。
 見ない方がいいと言われ、サイトのメールフォームは閉じてある。有害と思われる悪意のこもったメールは、完の手により別フォルダに納められている筈だった。
 ならば、見てもいいのではないか。
 単なる広告メールは勿論、もしかしたらリア友からのメールが届いているかもしれない。
 一応、それらを確認しておいた方が良いのではないか。
 受信しないことで、解除されてしまう配信メールもあるかもしれない。溜まり過ぎて、不具合を起こす可能性も十分あった。
――いっか。
 思い付く限りの言い訳を一通りこさえてしまうと、深く考えることもなく、はメールソフトを立ち上げた。モニター画面がちらつき、メールソフトのウィンドウが開かれる。
 フォルダの横に並ぶ小さなプラスの記号がわずかに気になったが、それを開けようという気まぐれには至らなかった。
 未だ、そこまで自棄にはなっていないらしい。
 いいような悪いようなだが、そこまで気にしても仕方なかろう。
 の視線を引き戻そうとするかのように、カチカチカチ、と硬質な音が聞こえてきた。かと思うと、溜まっていたらしいメールが勢い良く並んでいく。
 しばらく見ていなかったせいか、凄い量だ。
 次々に表示されるメールの件名を、何の気なくぼんやり眺める。
――あれ?
 突然、得体の知れない不安がを襲った。
 不安の正体は、悩む間もなく呆気なく明かされる。
 如何にもそれらしい広告メールに混じって、空白の行が、それもかなりの数が表示されていた。
 件名が空白のメールは、なくはない。けれど、これ程多いものでは決してない。
 そも、は自分のサイトから送られるメールにも、区別できるようにきちんと件名を付けている。件名なしでメールを送ってくるような相手にも、心当たりがない。
 つまりこれらは、あからさまに『怪しい』メールだと名乗っているようなものだった。
 しばらくして、メールの受信が止まる。受信件数は、優に三百を越した。
 それらメールの件名は、ほぼ八割が空白だ。
 異常である。
 普通に開ける気にはなれず、中身の確認をしようとまずプロパティを選択する。
 ウィルスでも添付されていたらと思うとぞっとするが、一応添付ファイルが付いているようなものは見当たらない。プロパティを開いて感染するウィルスがあるかどうかまでは、の知識では判別付かない。何かあったらウィルスソフトが対応してくれるだろうと、そんなところだけ気楽なものだ。
 とにかく、今見たい、見なければと、訳の分からない使命感に背中を押されていた。
 プロパティからメールを覗くと、長々と続く英文の後、続くメッセージはたった一言だった。
 淫乱、と。
 それだけの、正にただの一言ではあったのだが、を打ちのめすには十分足り得た。
 意味なく泣きそうになりながら、恐々と次のメールを覗く。
 見て、次、また次と、段々手が止まらなくなった。
 言葉や長さに多少の差はあれど、そこにあるのは罵詈雑言以外の何物でもない。通報しようと思えば通報できる程度の低いメールの連続に、はやがて疲れて手を止めた。
 念の為、最初と最後を含め、適当に選んで目を通してみたのだが、徹頭徹尾悪口しかない。
 しばらくの間、は唇をきつく噛み締めていた。無意識に指を当てたことでそれに気付き、緩めた途端、急に馬鹿馬鹿しくなる。
 最初は、メールの内容を真に受け、傷付いたような気もしたのだが、今はこの執拗さに呆れ果てるばかりだ。
 問題は、どこでメールアドレスが漏れたかということだったが、ずっと同じメールを使っている関係で、絶対に漏れないという自信もない。
 一度揉めると修復が難しいのが同人関係と割り切っていたこともあり、調べたIPアドレスによると、差出人はすべて同一人物らしいということもあって、とりあえず着信拒否の設定を組んだ。
 本気で訴えてやろうかという考えがちらりと浮かぶが、自宅に陸遜が居る手前、面倒事になるのは極力避けたい。
 腹立たしいことこの上ないが、この際無視を決め込むのが最善と、届いたメールを作った別フォルダに移す。
 全部まとめて消してやっても良かったのだが、わざわざメールアドレス直通での嫌がらせ、同一IPでの堂々振りも鑑みて、後々何かあった時の為に、一応保存だけはしておいた方が良かろうと考えた。
 判別にIPアドレスを利用すれば、メールの移動作業は一瞬で済む。
 クリックした瞬間、すかっと綺麗になった画面に、わずかばかりすっとした。
 そのまま、残ったメールを開けてみる。
 ざっと見てみても、あからさまに広告と分かるメールばかりで、幸いというか知人友人からのメールはないようだった。
 逆に気が楽になり、興味の引かれたものを適当に選んで、だらだらと目を通す。
 セールの期限が切れてしまったものも多かったが、スイーツや雑貨の特売を眺めるのは、それなり面白かった。
 目を通すだけ通し、読まなかったものと合わせ、ある程度溜まれば削除していく。
 最後の一通に目を通している時、は気が付かないでいいことに気が付いた。
 何故気付いてしまったのか、後々悔やむ羽目になる。
 開封済みのまま残してあったメールの件数が、嫌がらせメールを移動させたにしても、妙に少なくなり過ぎていた。
 今日受信した分以上に減っている件数に、は首を傾げ、何気なく先程作ったフォルダを開く。
 不愉快は不愉快だが、軽蔑の感情が浮かぶくらいには余裕があった。
 タイトルなしのメールの列を、上に向かってスクロールさせていくと、急に件名付き、開封済みのメールの群れが現れる。
 十や二十どころでないメールの数は、それだけ長い間親交のあった証とも言えよう。シンプルかつ言い捨て型の件名も、二人の仲をそのまま指し示しているようだった。
 は、痺れたように震える手で、メールのIPアドレスを表示させる。
 示されたのは、当然ながら、嫌がらせメールと同じIPアドレスだ。
 そして、それらメールの差出人は、が現在最も頼りにしていた友である、完だった。

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