夜は疾っくに明けた。
 少しでも眠っておこうと、布団の中であがいていたは、時計の針が八時半を指した時点で無為な努力を放棄した。
 眠れなかったのは自分のせいだというのに、体は至ってもっともらしく、不満たらしげにみしみしと軋む。強制された訳でなし、横になるにはなっていたのだから、ここまでだるくなることもなかろうに、と思えた。
 気持ちの問題だということは、薄々察しているところだ。
 と言っても、の胸の内にあるのは怒りではない。
 確かに最初は、憤りのような胸苦しさに苛まれ、目尻に涙さえ浮いていた。
 けれども、いったん完の立場を鑑みれば、自分の怒りは甚だ筋違いに思えてならなくなった。
 友人の性の話など、敢えて聞きたいものではない。
 酒飲み途中の馬鹿話としてならともかく、特にの場合、まともに相談に乗りたいと思えるような深刻な話でもなかった。
 何せ、槍族制覇だの呉国コンプだのといった、尻が軽いにも程がある、頭痛なしには語れない悩みだ。本当に悩みと言っていいのかすら、定かでない。
 その上、相談を持ち掛けていたのはだけではなかった。陸遜も、しかも矢印の先はまたもやに向けての悩みをぶつけ、あの完が口篭もるような赤裸々に熱い語りをしてのけたらしい。
 口では理解を示していたとしても、いい加減うんざりして然るべしではないか。
 少なくとも、が自分に置き換えて考えた時、完の立場はうんざりという言葉の意味と程度を遙かに凌駕した。
 甘え過ぎてしまったのだ、と思う。
 如何に寛容に接してくれていたからとしても、最低限の節度は保つべきだった。
 どれだけ言葉巧みに聞き出しに掛かられようが、自身に現実味がなかろうが、閨の話は明かすべき秘密ではなかった。
 好き放題に寄り掛かられて、重みに耐えかねたのだとしても、決しておかしくない。
 溜まった鬱憤が、陰湿なメールという形を成したとて、当のが完を責められようか。
 文句があるなら直接言って欲しかった等、自分本位な言い訳に過ぎない。
 それを言ってのける程、は図太くなれなかった。
 溜息を吐く。
 考えれば考える程、完を責める気は薄れていった。
 けれども、素直に謝る気には到底なれない。理由がどうであれ、やり口が卑怯なことには違いないからだ。
 第一、が謝罪するということは、完に『お前がしたことはすべてお見通しだ』と宣言するに等しい。
 つまり、これきり絶縁になる覚悟も必要になると言うことだ。
 そこまで踏ん切れているとは言い難い。
 むしろ、まったく踏ん切りが付かないからこそ、完を責める気になれないのかもしれなかった。
 完という友人を失うことを、は自分が傷付くことより恐れている。
 その上で、自分という人間が一人の友人を失うことをこれ程までに恐れているという事実に、少しばかり感動していた。
 同人友達という枠を越えた相手と認識していることが、嬉しくもあり怖くもある。
 ともあれ、しばし静観することに決めた。
 すぐに判断していい問題ではない。
 少なからず、時間が必要だ。
 逃げかもしれないが、そうしては心の整理を中断する。
 一つの問題が片付くと、今度は別の問題が頭に浮かんでしまう。
 陸遜のことだ。
 譲歩を重ねた結果が破綻というのも理解に苦しむが、現実そうなっているのだから認めざるを得ない。
 だが、認めざるを得ないのだから、いつも通りに過ごせるというものでもなかった。
 陸遜の朝は早いから、もう起き出しているに違いない。
 どんな顔をしていいのやら、複雑な思いが顔に出る。
 一気に強張った顔の筋肉を、指先を使って無理矢理ほぐし、意を決してパジャマを脱ぎ捨てた。

 恐る恐る襖を開けるも、そこに陸遜の姿はなかった。
 居間どころか、家全体がしんと静まり返っている。
 早起きと単純に言っていいのか迷うくらい、文字通り日の出と共に起きるのが日課の陸遜にしては、珍しい。
 昨日の今日だったから、未だ寝ているか、不貞腐れて部屋に閉じこもってでもいるのか。
 どちらかと言えば、後者の方が陸遜らしい。
 とは言え、顔を合わせ難いのはも同じで、無理に引っ張り出してやろうとも思えなかった。
 洗面台に向かうと、顔を洗い歯を磨く。髪をとかしてさっぱりしたところで、朝食作りに取り掛かる。
 陸遜は化学調味料系が苦手だということが分かって以来、はそれらを出来るだけ使わないように心掛けていた。本人の希望もあるし、まったく使わないこともないが、やはり気に掛かってしまうのは仕方のない話だろう。
 化学調味料を使わないということは、しかし、それだけ手間暇が掛かることでもある。出汁はまとめて取るようにしていたが、毎食となると幾ら量があっても足りるものではない。
 よって、朝起きたら出汁昆布を水に漬けておく、というのがの習慣になりつつあった。
 一日分の出汁を、朝作るのだ。色々試したが、何となくこのやり方が一番楽で、落ち着いている。
 無職ならではの結論だろう。仕事をしていたら、こうはならなかった筈だ。
 趙雲の時は、途中で退職をしたとはいえ仕事をしていた。
 今回も、外に仕事を持っていたら、現実から意識を逸らせる場所があったのなら、もう少し何とかなったのだろうか。
 生活費のこともあるし、そろそろ考えないといけないかもしれないな、とぼんやり考える。
 新しい出汁の準備を済ませると、冷蔵庫の中に仕舞っておいた昨日の出汁の残りを取り出し、鍋に移す。適当に刻んだじゃが芋と玉葱を具にして味噌汁を作った。冷や飯を卵チャーハンにして、漬け物を添えると、後は食べるばかりになる。
 さて、と改めて陸遜の部屋に目を向ける。
 未だに出てくる気配のない陸遜に、どう声掛けていいものか。
 正直、無視しても良し、声を掛けるだけ掛けて食事を置いておくのも良し。
 構い過ぎても良くなかろうが、構わな過ぎるのもどうかと思う。
 結局、自分が後ろめたいからごちゃごちゃ言い訳を考えているのだと、は自嘲した。
――私は、貴女と恋がしたかったのですよ。
 熱を吐き出すような言葉が、鼓膜に鮮やかに蘇る。
 かつては、想ってくれるのが一人であったならばと考えた。
 今、の前に居るのは陸遜だけだ。
 そして、陸遜はを想っているのだという。
 であれば、は陸遜を受け入れるべきではないか。
 単純にイコールで結ぶ思考の連結に、けれどもイエスと答えることが出来ない。
 相手は誰でもいいのではなかったのか。
 何度も同じことを考えている。
 何度も同じループに陥っている。
 何度考えても、答えは出ない。
 溜息しか、出ない。
 小さくも重い息を吐いて、は陸遜の部屋に向かう。
 完の想定を、陸遜はそうだと認めたが、途中で止めてしまった辺り本当かどうか怪しくなってきた。
 恋愛感情を暴走させて、抱けるなら抱いてしまえとを欺くような陸遜ではないと思うが、では昨夜のあれはいったい何だったのかと自問しても答えが出ない。
 やっぱり嘘を吐かれたのかと、それ故の『発言』と捉えれば、何となくだが納得は出来る。
 陸遜も年相応の男の子なのだと思えるし、苦笑はしても腹は立たない。
 ともあれ、年頃だろうが年増だろうが、腹は減るのだ。特に、一日の最初の食事は大事だと、栄養学関連の先生方はこぞって仰っている訳だ。
 開き直って、陸遜の部屋の襖を叩く。
 ぼすぼすと間抜けな音がするが、中に聞こえれば十分である。
「り……伯言」
 呼んでみたが、返事がない。
 未だ拗ねているのかと、一旦は呆れてみたが、ふと、もしかして本当に居ないのかもしれないと気が付いた。
 以前、趙雲が家から出て行ったように(実は庭に居た訳だが)、陸遜もどこかへ行ってしまったのではないか。
 もしそうだとしたら、どうやって探し出し、どうやって連れ戻そう。
 陸遜に、現在地を説明できる知識があるとはとても思えない。
 焦り、返事のないまま襖を開ける。
「陸遜!」
 けれども、陸遜は部屋に居た。
 予想は裏切られたが、予想通りであった方がずっとマシだった。
 ベッドの下に転げ落ちるようにして倒れ伏した陸遜は、苦しげに息を荒げて胸を押さえていた。余程苦しかったのか、寝巻に与えたスウェットの襟は引き千切れ、その裂け目は固く握り締めた拳の中に続く。白い肌は焼かれたように真っ赤に染まり、異様な汗が全身を濡らしているのが分かった。
 病気だ。
 それも、かなり重い。
 自分の血の気がすっと引く音を、ははっきり耳にした。
「り……陸遜……?」
 声が震えてしまうのが情けない。
 指先の触れた髪の一房が、しっとり濡れている。汗で濡れてしまったのだろう。
 触れた額は、ただただ熱かった。
 閉じていた陸遜の目がうっすら開き、の姿を認めてわずかに微笑む。
 しかし次の瞬間、視線は中空へと逸らされた。
「……大丈夫ですから……放っておいて下さい」
 大丈夫な訳がない。
――完を。
 呼ぼう、相談しようと腰が浮き、まま止まる。
 頼り過ぎだと自戒したのは、つい先程のことだ。
 でも、いやでもと、腰を浮かしてうろたえる。
 あまりに情けない様ではあるが、が気付ける余裕はない。
「……大丈夫、ですから」
 かすれた声で、陸遜が吐き捨てる。
「大丈夫な訳、ないでしょう!」
 泣きそうな声で怒鳴るに、陸遜は怒りを露にして言い返してきた。
「貴女が居たら、堪えられるものも堪えられないと言ってるんです! 正気を失くして襲い掛かる前に、早く、私の側から離れて下さい!!」
 叫ぶなり、力尽きたのか陸遜は顔を伏せた。
 ただ、拳が白く変色する程強く握り締められていて、力が入らないのではない、嘘偽りなく凶暴化しつつある自身を律しているのだと証していた。
 は、ただぽかんと間抜けた顔を晒すばかりだ。
「……え……え、だって、それって……え?」
 昨夜、途中で止めたのは陸遜だった。
 自分を見下ろすの視線が鬱陶しいのか、陸遜は重たげに瞼を開き、抗議の色濃い眼を向ける。
「……だって、貴女は……私のことなど、考えては下さらないのでしょう?」
「考えて、下さらないって……」
 否定しようとして、出来なかった。
 陸遜の荒々しい口付けの最中、意識を中空に飛ばしたのは紛れもない事実だ。
 黙り込んだに、陸遜は苛立たしげに眉を顰め、矢庭に手を伸ばした。
「私は、警告、しましたよ」
 掴まれた腕を、振り払おうと思えば出来たかも知れない。
 だがは、引かれるままに陸遜の腕に抱かれ、組み敷かれるままに床に伏していた。
 陸遜との距離が近い。
 視界のほとんどを陸遜の顔が占めているという近さに、は目を閉じることが出来なくなった。
 間近にある陸遜の口が、微かに開く。
「……私のことを、考えていて下さい……」
 触れた唇が震えているのが、何故かとても可哀想だった。

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