吐き気が収まると、は流れる水で直接口の中をゆすいだ。
 含んだ水をべっと吐き捨てると、濡れた唇を服の袖で拭う。
 どこか未だ気持ちがざらついているような気がしていたが、吐いたことでだいぶ落ち着けたようだ。
「……聞いてた?」
 完はやたらと陸遜の話を遮っていた。
 それはきっと、こうなるだろうと見越してのことだったのだろう。
「うん、まぁまさかここまで反応するとは思わんかったけどな」
――おいおい。
 内心ツッコミを入れつつ、は引き攣った笑みを浮かべる。
「無理に笑わんでも」
「無理してでも笑っとらんと、喚き散らしたくなる」
 カラオケでも行くか、と答えが返る。
 財布がねぇ、と笑って返せた。
 あくまでマイペースを固持する完に釣られ、も、ゆっくりとではあったが平静を取り戻していた。
 友達とは、有り難いものだ。
「あぁ、あっちに全部置いてきたか。携帯も?」
「携帯も、カードも。明日、再発行手続き行ってくるわ」
 幸い、サークル用の口座を別にしており、そちらはカードも別にしてあった。釣り銭もそこそこ確保してあるから、しばらく困ることもあるまい。
「そっか。同人様様だよな」
「様様だよ」
 今度は、普通に笑えた。
「陸遜」
 完に呼ばれ、柱の影から心配そうにこちらを見ていた陸遜が小走りに駆け寄ってくる。
、今夜辺りは落ち着かないだろうから、よろ」
「よろ?」
 小首を傾げる陸遜に、はまたも笑った。
 笑って、困って、眉尻を下げる。
「……帰るん?」
「ん、帰る」
 よろしくと声を掛けるということは、『もう帰る』という意味だ。何だか心細くなって、誘い受け覚悟で問うてみたのだが、完はつれなく肯定しただけだった。
「また、連絡する。携帯復活したら、連絡くれ。パソのアドレスに、携帯番号とか送っとくから」
 転送設定しておくと言われ、ほっとした。
 趙雲の時は、逆に何も分からなかったからこそ遮二無二動けたのだ。秘密を共有してくれる人間の存在が、これ程心強いとは思わなかった。
 案外、趙雲もの秘密の重さを持て余し、それで馬超を巻き込んだのかもしれない。
 そう考えると、良く分からなかった趙雲の思考が、少しは理解できた気がした。
「時間空いてたら、来るから。何かあったら、連絡し」
「うん、じゃあ出来れば明日」
 靴を履いていた完の動きが止まる。
「明日かよ」
「だって、せめて携帯復活させたいやん。陸遜連れてく訳に行かないし」
 趙雲ですら、外に連れ出したのは相当経ってからだ。見るからに(恐らく思い込みではない)繊細な陸遜をいきなり外に連れ出しなどしたら、どんなことになるか分からない。
 携帯の取扱店は、場所によっては夜遅くでも開いている。完が来てさえくれるなら、そこに駆けこめばいい。
 この際、キャリアが変わっても諦めざるを得ないと言うものだった。
「パソのメールじゃ、さすがに緊急とはいかんし。忙しかったら、別の日でもいいんだけど……頼めないかな」
 完は、陸遜をちらりと見遣る。
「……あの……私でしたら、お気になさらずとも」
 留守番くらいできると陸遜は主張するが、今日日は留守番とて大変なのである。
 もしも訪問販売や怪しげな占い師が来た場合、陸遜が上手く居留守を使えるかどうか、甚だ疑問である。
「子供の使いでは、ないのですから」
 陸遜がむっとするのを、完とでまぁまぁとなだめる。
「そういうことは、テレビに慣れてから言え。な?」
 途端、陸遜の顔が赤くなる。
 が気を失っている間に、どうも何やらあったらしい。
 ついでに自分が失禁したのを思い出し、の顔も赤くなる。
 完は、携帯を取り出し小気味よく指を滑らせる。
 スケジュールの確認をしているようだが、途中で陸遜が興味津々に覗き込んだ。
「これ」
 完は、陸遜から携帯を遠ざける。
「マナー違反」
「まなー」
 陸遜が舌っ足らずな発音で繰り返す。
 この辺りは、趙雲の時と変わらない。
「マナーって、礼儀のこと」
 が横から口添えすると、陸遜はあぁと頷いて、すぐに顔を赤くした。
「……申し訳……」
「いい。でも、そういうのも分かんないんじゃ、外に出た時にが困ることになる」
 だから慣れるまでは我慢しろと暗に言い含められ、陸遜は渋々ながら納得したようだ。
 携帯を畳むと、完は玄関の戸を開いた。
「じゃ、。後でメールする」
「うん。……道、分かるよね」
 完は前を向いたまま軽く手を振り、出て行った。
 足音が遠ざかるのを確認して、は玄関の戸締まりをする。
 自然に溜息が漏れた。
「……殿」
 振り返れば、陸遜が居る。
 不思議な感覚だった。
 時が経つ程に、感覚は慣れた自宅の空気に寛いでいく。
 けれど、陸遜がの家の空間に居るという事実はの心に鮮やかな違和感として深く打ち込まれ、安らごうとする気持ちを阻止してしまっていた。
 陸遜が嫌いだとか嫌だという訳ではない。
 一人で在るべき空間に、赤の他人が居るからだという訳でもない。
 そこに居るのが『陸遜』だから、はこうも落ち着かないのだ。
殿」
 陸遜は、酷く緊張した面持ちでを見ていた。
「御迷惑でしたか」
「……は?」
 意表を突かれて、は気の抜けた声を上げた。
 次いで、慌てふためく。
 陸遜の問いは、の本心を鋭く射抜いていた。慌ててしまうのは、認めたくはないがそれが事実に他ならないからかもしれない。
 陸遜は、本当はの世界に居ていい人ではない。
 居るべき世界を違えて、間違ってこちらに来てしまった人なのだ。
 それこそが、の中の違和感の原因だった。
 陸遜が悪い訳ではない。
 ないが、しかしである。
――もし陸遜が居なかったら。
 そんなことをちらりとでも考えてしまう自分に、は辟易とする。
 陸遜さえ居なければ、何もなかったことに出来る。
 それはとても失礼な思考だった。
 陸遜のみならず、『あちらの世界』でに関わった人々全員に対して失礼だ。
 泣いたことも、悩んだことも、過ぎてしまえばすべていい思い出になると聞く。
 は、思い出どころか丸ごと全てをいい夢として片付けてしまおうとしていた。心の縁として、リアルな夢として、『現実ではなかったこと』にしようとしていた。
 陸遜さえ居なければ、そんな『夢のような逃避』が叶えられるのだと、卑怯なことを考えた。
 ここに陸遜が居るにも関わらず、だ。
「……迷惑じゃ、ないよ」
「しかし!」
 陸遜は一瞬激昂し、しかし悔しげに唇を噛んだ。
 人の心を想像で決め付ける愚かしさを、陸遜は理解しているのだろう。
 そして、きっとそうだと確信しているのに、それ以上を追及しようとはしない。
 それが陸遜の『マナー』なのだ。
「ごめんね」
「……何を、謝って居られるのですか」
 は、口にすべき言葉を探して悩む。
 何を、どう言うべきなのか。
 結局正直に言う以外、なかった。
「迷惑じゃないけど、陸遜が居なければ、私、全部夢だったことに出来たかなって、思った」
 陸遜は黙っている。
 噛んだ唇が白くなり、陸遜の思いを露にしている。
 悔しい、悲しいという気持ちが真っ直ぐに伝わって、無性に泣きたくなった。
「ごめんね。でも、ホントに陸遜が迷惑なんじゃないから。単に、……単に、私が、勝手だってだけだから」
 本当に勝手だ。陸遜に申し訳ない。
 陸遜は、の言葉に何事か言い返そうとして口を開き、開いては閉じるを繰り返している。
 何をどう言うべきなのか、悩み、迷っているのだろう。
 気遣いもせず勝手を言うを傷付けてやりたい衝動に駆られ、同時にそんな気持ちをたしなめる理性にまた苛立ち、葛藤して苦しんでいる。
 分かり過ぎるくらい分かってしまう陸遜の中の嵐に、は苦い思いを噛み締めた。
「……嫌、だったのですか。私達と一緒に居ることが」
「嫌じゃないよ」
 即答する。
 これだけは、揺るぎない自信があった。
「嫌じゃない。けど、陸遜。私の立場って、やっぱり変だよ。そう、思わない?」
 あれだけの男達に愛され、求められ、関係を持ってしまった。
 ゲームであればいざ知らず、現実であるとなるとどうにも話が違う。
 戸惑うし、信じられないし、どうしていいか分からない。
 だから、逃げたくなる。
 夢としてなら、受け入れられる。
「どうしていいか分かんなくなって、投げだせるんならって、考えちゃったんだよ」
 そう思ってしまったのは悪かったが、思うだけは許して欲しい。
「もう、そんなこと考えないようにするから」
 陸遜は、むっつりと黙りこんだ。
 露骨に腹を立てているのが分かって、は何も言えなくなる。例えどんな言葉でも、言えば火に油を注ぐだけだ。
 しばらくして、陸遜がぽつりと漏らす。
「思うのですが」
「……うん」
 えらくぶっきら棒に口元を歪めている陸遜の顔を、は内心珍獣を見る思いで見詰める。
 普段から礼儀正しい陸遜が、こんな表情をすることもあるのだと初めて知った。
 その陸遜の表情が、いきなり崩れてに目前に詰め寄る。
「言わなければいいことではありませんか!? 別に、本当のことを言うのが礼儀という訳ではないでしょう! 思っても、それは構うことではないかもしれませんが、何もわざわざ私に教えて下さらなくてもいいことではないですか!? 違いますか!?」
 まくしたてられ、は思わず身をすくめる。
 確かに陸遜の言う通りなのだが、納得するより先に陸遜の勢いに気圧されていた。
 こく、こくと必死に頷き、同意を示す。
 陸遜は肩で息をしていたが、深呼吸して一歩退いた。
「本当に、勝手です」
「……ごめん」
「私のことを、呼び捨てになさるし」
 はっとする。
 そう言えば、いつの間にか陸遜と呼び捨てにしている。
 完に釣られたのだと思う(そもそも、萌え話をする時にいちいち殿だの付けてはいられないから、以前は完と同じく常に呼び捨てだった訳だ)が、指摘されるまで気が付かなかった。
「ごめ、じゃない、も、申し訳ないです、陸遜、殿……」
「今更」
 慌てて詫びるも、陸遜は受け入れてくれない。つんと顔を逸らし、居間に戻っていった。
 がへろへろと追い掛けると、先程まで座っていた場所に戻っている。
 どうしたものかと悩みつつ、完の居たところに腰を下ろそうとすると、天板をぴしぴしと叩かれた。
 揃えた指先で、すっと隣を指し示す。
 おどおどしながら隣に移るが、陸遜が口を開く様子はない。
 何だかな、と卑屈な反感を持ち始めた頃だ。
「喉が渇きました」
 ぴしぴしと天板が叩かれる。
 またも気持ちを見透かされたようで、は焦って茶を淹れに走る。
 差し出されたほうじ茶を啜り、陸遜は小さく溜息を吐いた。
「……今回は、見逃してあげましょう」
 思い切り上から目線のお言葉に、は口の中で『えぇー』と呟く。
 途端、じろりときつく睨め付けられ、は視線を下げて服従するより他ないと知る。
 思わぬところで主導権を握られてしまったようだった。

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