結局、は最後まで目を閉じることが出来なかった。
 魅入られた、という訳ではない。
 自身も少々どうかと思ってはみるのだが、近過ぎる陸遜の睫毛から目が離せなくなった、というのがもっとも近い。
 色気も何もあったものではなかった。
 感覚が痺れて確かとは言い難いが、恐らく長い間『事』に及んでいただろう陸遜は、その身を離すなり深く長い溜息を吐き出した。
 満面の笑みを浮かべながら、どこかうっとりとして、目元の辺りを紅潮させている。
 その表情を、どこかで見た気がすると考え込んだは、すぐにあぁあれかと思い当たる。
 時期としては外れもいいところだったが、灼熱の炎天下、乾き切った喉にキンキンに冷えたビールを流し込んだ人の、あの顔だ。
 がぼんやりしている間に、呼吸を整えた陸遜が再び覆い被さって来る。
 そして、あっさり顔を上げた。
「また、何か考え事をなさっているでしょう」
 御愛想も面倒になったのか、露骨にむっとしている。
 どころか、子供のように頬を膨らませている陸遜に、はこっそり可愛いなぁと思った。
 本人が聞いたら気を悪くするだろうと思い至った時点でようやく我に返り、正常な思考能力を取り戻す。
「……イヤ、そんなことは……」
「いいえ、考え事をしていました。私には、分かるのですよ」
 誤魔化そうとするも、いやにはっきり否定される。
 妙に自信ありげな態度に、は首を傾げた。
 と、陸遜が苦笑を漏らす。
「……正直、図らずも、と言ったところですが。でも、本当に私には貴女が気を逸らしているかどうか、分かってしまうのですよ」
 どういうことだ。
 未だ理解できずに居るに、陸遜はますます苦笑の色を濃くしつつも、その理由を語ってくれた。
「私が、貴女からいわゆる『力』を得なければならない、ということは……もう、ご承知ですよね?」
 渋々ながら、頷く。
 実を言えば信じ難いというか、何せ物証を提示できない話であるから、半ばと言うよりかなり疑わしく思ってはいるのだが、一応理解はしている。
 の思考は顔に出ているものか、陸遜は少しばかり面白くなさそうに口を尖らせたが、実のないことと諦めたらしく話を進める。
「私が貴女から力を得る為に、その手の行為に及ばなければならない。……このことも、ご承知いただいてますね?」
 頷く。
 どうにも話が回りくどくて、苛々し始めていた。
 しかし、陸遜は平気なものだ。が苛々していることなど疾っくに察して然るべしだったから、案外わざとやっているのかもしれない。
 ただ、の理解の悪さは時折本気で酷くなる為、本気の親切でしていることとも考えられる。
 自覚はそれなりあるが故に、は口を噤まざるを得なかった。
 陸遜の話は続く。
「昨夜の私は……こう言っては大変失礼かもしれませんが、かなり……その、自棄になっていた気がします。言い訳になりますが、辛くて堪らなくて、かなり無礼な態度を取ってしまっていたかもしれません」
「……今は?」
 話の腰を折るようだが、どうしても気になった。
 陸遜の口振りからすれば、『自棄になった』のは過去のことであり、今現在は『正常』とでも言いたげな空気を感じる。
 思った通り渋い顔を見せた陸遜だったが、小さな溜息一つで流してくれた。
「今は、少し落ち着きました。白状すると、それなり我慢をしている訳ですが……納得なさらないと、多分、また昨夜の繰り返しになるでしょうから」
 我慢と言われて、何気なく落とした視線の先に、猛々しいものがある。
 柔らかなスウェット素材では到底隠しきれない熱い滾りに、は慌てて視線を逸らした。
 しかし、目を逸らしても不思議と陸遜の視線を感じる。
 否、絡み付いてくる。
 どうしてなのか、語るまでもない。
「……私が今、わずかとはいえ落ち着いたのは、貴女から力を得ることが出来たからです。それが何故か、分かりますか?」
「何故……」
 考えてはみるものの、思い当たることはさっぱりない。
「言いましたよね、私が力を得る為には……」
 その手の行為をしなければならない。それは聞いた。
 けれども、今したのと昨夜したのと、どんな差があるというのか。
 したことは変わらない。
 だが、昨夜は駄目で今日は大丈夫だったという。
 何が違うというのか。
「……これも言いましたね、私のことを見て欲しい、考えていて欲しいと」
 言った。
 頷いて同意するも、陸遜の笑みは苦い。
 出来の悪い生徒に手を焼いている風で、どうも尻の座りが悪かった。
「あの……」
 降参だ。
 上目遣いに答えを強請ると、陸遜は如何にも仕方ないといったように小さく首を傾げる。
「何と言ったらいいか……結局、私が力を得る為には、の協力が是が非でも必要、ということなのですよ」
「協力」
 ならば、しているつもりだ。
 突き飛ばしている訳でなし、おとなしくされるがままになっていた。
 別に、昨日は嫌々、今日は喜び勇んでということもない。
 何が違うというのか。
「……先程は、私のことを考えていたでしょう?」
「いや……」
 考えてはいなかった、と思う。
 思考停止していたという方が正しいか。
 目を開けていたから、網膜に映る陸遜の睫に見入っていた。
 それが、考えていたことになると言うなら、そうなのかもしれない。
「昨日は、私のことを考えてはいらっしゃらなかった」
「…………」
 こちらは、確かにそうだと頷ける。
 意識を敢えて逸らそうと、違うことを考えていた。
 確かに、指摘されれば納得するしかない相違点だが、一つ疑問がある。
「……何で、そんなこと分かるの」
 の心はにしか分かり得ない筈だ。何故、陸遜が言い当てることが出来るのか、どうにも不可解だった。
「ですから、図らずも分かってしまうのだと申し上げました」
 勢い余ったのか、陸遜の膝が、ず、と小さな音を立てて前に進む。
 思わず後ろへと体が逃げようとした。
 斜めに傾ぐ視界が、それを上回る速度で引き戻される。
 陸遜の腕が、素早くを捕らえていた。
 抱きすくめられる形で、陸遜の『講義』は続く。
「私が貴女から力を得る為に、貴女の協力がどうしても必要なのです。貴女の力という奴は、触れるだけで手に入るような代物ではない。貴女が進んで私に与えて下さるよう、意識していただく必要があるのです。……分かりますか?」
 の頭の中に浮かんだのは、冷えて汗を掻く銀色の缶だった。
 広大な熱砂の砂漠の真ん中で、陸遜がその缶を必死に弄繰り回している。
 縦にしても横にしても、振っても叩き付けても缶は開かない。
 その缶のプルタブは、何故か内向きについていて、中からでないと開けられない。
 とんだ不良品である訳なのだが、例えそうだとしても、中身は渇望する水分が詰まっているのだ。
 なまじ手の中に欲するものがあるから、乾きは格段に増していく。
 辛かろう。飢えと乾きは人の体を直に焼く。
 やがて陸遜は理性を失い、缶そのものを破壊したい衝動に駆られるに違いない。
 中身を多少零してしまうとしても、揺れる水音だけを聞かされ続けるよりはずっと良いではないか。
「……私が、与えるように意識するって……」
 つまり、どういうことなのか。
「私を私だと意識して下さい。私を認識し、私に抱かれているのだと自覚して下さい」
 単純明快な答えだった。
 しかしは眉根を寄せる。
 一見容易に思えても、意外に難しいことはが一番よく知っている。たやすく出来ることならば、そもそも問題にはならない話だ。にしてみれば、野外で裸になるのを恥ずかしがるなと言われているようなものである。
「……していただかなければ、困ります」
 陸遜も、眉間に皺を深々刻む。
 それはそうだ、が出来なければ陸遜が乾く次第で、乾きが極限に達すれば陸遜は理性を失って凶暴化し、を襲うだろうことは既に分かっている。
 にとっても陸遜にとっても、避けたい事態に変わりはない。
 応じるしかなかったが、葛藤そのものは止められない。は黙して煩悶する。
 と、陸遜の口から思わぬ名が出た。
「ですが、趙雲殿には出来たのでしょう?」
「子龍は、だって」
 意識したことなど、一度たりとてなかった。
 だから、こんな大揉めになったことそのものがない。
 はっとする。
 陸遜にとって、この事実がどれだけ自尊心を傷付けるものなのか、考えるまでもないことを今更ながら気付いてしまった。
 後に続く言葉がない。
 けれども、陸遜にの腹芸など通用する筈もない。
 澄んだ目の奥に、危うい光が点る。
 不穏な空気をはらみつつある場に、は自身の失態を覚り、青ざめるのだった。

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