「趙雲殿を、愛していらっしゃるのですか」
 声音が含む獰猛さより、問いそのものに怯んでしまう。
「……え……っと、いや……」
「ですよね」
――おい。
 まともに答える前に同意されてしまい、は思わず鼻白む。
 抗議しようと開き掛けた口は、陸遜の次の言葉で封じられていた。
「趙雲殿は、どのようにされていたのですか」
 どのように、と言われ、の脳裏に趙雲と過ごした日々が蘇る。
 途端、の口元が緩んだ。
 もとい、歪んだ。
 どう言い繕っても『げんなり』としか表せない表情に、陸遜も違和感を覚えたらしい。やや引き気味に背を反らし、の顔をまじまじ見つめる。
「……あの……」
 恐る恐るの態に、もはっと我に返った。
 言っていいのか悪いのか、甚だ心許なかったが、言わずに済ませてくれる陸遜ではない。
 も遂に決心し、膝に乗せた拳をぐっと握り込む。
「……えっと……無理矢理……?」
 心の揺れが語尾を上向きに持っていく。
 何故にの疑問形にも関わらず、陸遜は、受けた衝撃からかその点については華麗に流した。
 そして、会話は繋げられる。
「は?」
 世界で最も的確かつ短いだろう相槌に、は心が折れる思いだ。
「いや、だから、……無理矢理……」
 とは言え、には他の言葉は見付けられないでいる。
 楽しい話でなし、嬉しい話でもない。是非にも聞かせてやりたい体験ではない以上、の口が重くなるのは仕様のない話である。
「趙雲殿が、ですか?」
 お前が振った話だろう、と詰ってやっても良かったが、この場合のこの問いは、問いの形を取ってはいたが実のところは問いでなく、単なる確認だということも承知の話である。八つ当たりにキレてみせても良かったが、大人げないの話が進まないのといいところがなさそうで、取りあえずは黙ってみた。
「……趙雲殿が……?」
 ともあれ、陸遜が信じられないのも無理からぬことであろう。
 何せ趙雲は、人前で被る猫の立派さには定評がある。見た目の印象も手伝って、清廉潔白勇猛果敢と、人柄を伝える四文字熟語はやたらとご立派なのが常だった。
 大抵の場合、噂という奴にはやたらに尾鰭が付くものだったが、趙雲の場合それらを裏切ることもない。どころか、噂以上の男振りに、噂は真、否それ以上と本気で讃える人も少なくなかった。
 ただ、それはあくまで人前での話であり、己あるいは己に近いと認識した人間相手には、呆れるくらい大雑把になってしまう。
 それはかつて、家人の躾をろくにせず、結果的にを追い詰めたことからも明らかだった。外の人間と内の人間からの評価がぱっきり二つに割れるのが、趙子龍という人なのである。
 その上で、外の人間たる陸遜に、あの男に無理矢理手込めにされましたと言ったとて、素直に信じて貰える筈がない。
 信じて貰えなくても一向に構いはしないが、信じて貰えないと面倒だなというのが、の素直な感想だった。
「……趙雲殿が……」
 幸い、陸遜はの言を信じたようだ。衝撃を受けつつも、語尾のはてなは消えていた。
「……いや、まぁ、最初だけ、だったけどね」
 一応、趙雲の名誉の為、補足めいた言い訳を付け加えておく。
「そもそもって言うか、私は、陸遜とかからそうだって言われるまでは、子龍がどうしてあんなことしたのか分からなかったんだよ。本人は何にも言わなかったし、私は外に出てたりしてたから、様子がおかしいとかも気付かなかったしね」
 ぼんやりと当時のことを思い出す。
 の中では遠い記憶だが、現実としてはつい最近のことだ。
 ややこしいことこの上ない。
「それで……その後、趙雲殿は……」
 控えめな催促に、思い出に浸っていたは脳裏に浮かんだままの記憶をぽろりとこぼす。
「え、お、怒ってた、かな……」
「は?」
 陸遜の動きが止まる。
「……が、趙雲殿を、ですよね?」
「……いや……」
 奇妙な沈黙が落ちた。
「……趙雲殿が、を、怒ったのですか?」
「……あー……と……うん……」
 またも沈黙が訪れた。
「何故」
 陸遜にしては珍しい、言葉を飾らぬ質問は、そのまま陸遜の動揺を示しているのだろう。
 けれども、問われたも実はよく分かっていない。
「いや……死ねって言っちゃって」
が、ですよね」
 これで趙雲が言ったとしたら、それこそ訳が分からない。
 誤解を招かぬよう、間髪入れずに頷くと、陸遜はほっとしたように肩の力を抜き、『ですよね』と呟いた。
「……ですが、趙雲殿が怒っていい場合とも思えません。言葉は確かに悪かったかもしれませんが、それ以上に、趙雲殿のしたことは許されないでしょう。死ね、と言われるくらい、当然かと」
「……そう、かな」
 あの時は、も動転していたから気が付かなかったが、そう言われてみると確かにが怒られる筋合いはなかったような気がする。
 してみると、趙雲もあの時、相当動揺していたということなのだろうか。
――うぅん。
 腕組みして考えてみるも、記憶の中の趙雲は、極めて涼しげな面持ちで遠くを見ている。とても動揺しているようには思えなかった。
「……よく、持ち直されましたね」
「……そうだよね」
 他人事のように答えてしまうのは、にとっては既に終わったことだったからかもしれない。
 その後のことを考えれば、趙雲との修羅場など序章もいいところだ。
 話が詰んで、気だるい疲労感が漂う。
 長い溜息を一つ漏らすと、陸遜は手を突き姿勢を崩した。
「……私はを勘違いしていたようです」
 勘違い、とが聞き返すと、陸遜はいつもの苦笑を浮かべる。
「私が聞いていたは、もっと……その、奔放なひとでしたから」
「奔放、って?」
 陸遜は、如何にも困った風に眉を顰めてはいたが、口元は笑っている。
 苦笑には見えなかった。
「……何」
 いささかむっとして追求すると、陸遜は人の悪い笑みと共にを見遣る。
「庭で、とか、藪の中でとか窓を開けて、とか」
「は?」
 訝しげに陸遜を見返しただが、ややもして唐突に頬を赤らめる。
 陸遜の言わんとするところを、遅蒔きながら察してしまったのだ。己の鈍さにも気付くまでに要した時間にも、どうしようもないくらい恥ずかしくなる。
 陸遜が言っているのは、が濡れ場に使用した場所だった。
「えっ、て、な、何で」
 際限なく頭に血が上り、顔はどんどん赤くなる。
 陸遜は、如何にも『仕方がないひとだなぁ』と言わんばかりの生温かい目でを見ていた。
「それは、いずれも人目をはばかる物もない、外での話ですから。誰に見られてもおかしい話ではないでしょう?」
「いやっ、いや、だって」
 否定しながらも、納得してしまうところが心のどこかにある。何と言っても、どれも屋外でのことだ。が探知できる人の気配など限度があるし、そもそも絶対に見られていないという保証などまったくない。
 相手を務めた武将達にしても、他者の存在を察していながら敢えて無視していたという可能性は、信じたくなくともあるにはある。太史慈を相手にした夜に至っては、周瑜に見られていたという『実績』すらあった。
 頭を抱えたに対し、陸遜はくすくすと声を上げて笑い出した。
 が恨みがましい目を向けても、意に介した様子もない。
「……どうも、完全に攻略を見誤ったようです」
 陸遜の呟きに釣られて顔を上げたに、陸遜はこれ以上なく爽やかな笑みで応えた。
がこういうひとだと分かっていたら、もっと上手いやり方がありましたね。失敗しました」
「失敗て、あんたね」
 未だ衝撃から立ち直れないとは裏腹に、陸遜は何がしか吹っ切れたようだった。深い眠りから覚めたような、さっぱりした顔をしている。
「どうせ煮詰まるのなら、煮詰まるだけ煮詰まって、いきなりに襲い掛かれば良かった」
 物騒な発言に、は不安定な体勢のまま後ずさりしようとして、勢いひっくり返る。
 陸遜は、ただ笑う。
 がようよう起き上がると、それを待ち受けていたかのように陸遜が身を乗り出してきた。
「だって、そうしたらも言い訳が出来るでしょう?」
 心臓が跳ね上がる。
 冗談抜きに心臓が飛び出してしまいそうになって、口をパクパクさせるに、陸遜は悪戯めいた目を向け、唇の端を引き上げた。
「……最初は、はその道に長けたひとなのだと思っていました。その後は、倫理感に板挟みされつつも、任務と割り切ってこなしているひとだと思いました。ですが、違いましたね。は、流されてしまう己に嫌悪しながらも、いちいち言い訳して自身を納得させている、卑怯ながらもあまりに弱い、あまりに弱過ぎてつい同情などという愚かな真似をさせてしまうような、無意識に狡猾なひとなのですね」
 的確な人物評に、は返す言葉がない。
 返したいという気持ちだけは多分にあるが、なまじすとんと納得してしまっただけに、返す言葉がどうにも見つからなかった。
 自身、本当の意味で自分がどのように考え、何を悩み、どうするべきかを理解していないのが現状だ。考えても一向に出ない答えにじれて、途中で思考を放棄するのが常なのだ。
 全力で口答えしたいが、言葉が出てこないと身振り手振りで示すに、陸遜はやはり憐憫を込めた笑みで応える。
「私のことも、教えて上げましょうか。私は、むしろ、の背後にいらっしゃる諸葛亮先生との縁故をこそ望んでいました」
「……え、あ、はぁ……」
 唐突な告白に、は混乱する。
 陸遜は、至ってのんびりとした表情で、付け加えた。
「ですが、今は、自身が好きです。仮に諸葛亮先生と縁がなかろうと、が隣に居てくれたらそれだけで嬉しい。たった今、そう思うようになりました」
 どう返事をしていいか分からない。
 痺れたような思考回路に無為な発破を掛けている間に、陸遜が再び口を開いた。
「だから、しないでおきましょうか」
 何が『だから』に繋がるのか、理解しようと言う気も消え失せて、は遂に力尽きてベッドに倒れ伏した。

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