「やっぱり、して欲しかったですか?」
 陸遜の言葉に、は勢いよく跳ね起きた。
 ぎっと睨め付けると、陸遜はさっと顔を逸らして追求の視線を避ける。その肩が細かく震えているのを、は見逃していない。
 笑ってやがると腹立たしくなった。
 けれども、余計な力が抜けて気持ちが楽になっているのも感じている。
「……何か、急に意地悪になってない?」
 頬を膨らませるに、陸遜は涙で潤んだ目を擦る。
 悲しみの涙でないのは、先刻承知の上だ。
 それが証拠に、ろくでもないことを言う。
は、意地が悪い男の方が好きでしょう?」
 無言で掴み掛かろうとした手を、呆気なく取り押さえられ、逆に距離を詰められる。
「言ったでしょう、勘違いしていたことに気付いたと。それを考えたら、馬鹿馬鹿しくて、取り繕っていられません」
 取り繕っていた、と聞いて、の胸がざわついた。
 陸遜は、声もなく笑う。
「……違いますよ、そういうことではなく……一応と言っては失礼ですが、あくまで貴女自身に興味があっての好意であり、行動です。確かに、私は貴女というより、貴女を得ることで得られるものにこそ、惹かれていたとは申し上げましたが、だからといって嫌悪する対象にどうこうする程、私も出来た人間ではないもので」
「いいよ、そこまで言われると、逆に何か、アレだから」
 実際、を得ることで陸遜が得られるものは少なくない。
 すぐに思い付くのは、陸遜の言通りに諸葛亮との縁故である。
 更に呉での地位の向上という、陸家再興を目指す陸遜には代え難い魅力ある特典があった。
 の取り込みは、端から見れば理解出来ない程、執拗かつ熱心に奨められている。それらの中心となっている孫堅の、本当の目的は陸遜にも定かでない。
 だが、その目的がどうであれ、を呉に取り込むことに成功すれば、それなりの待遇が確実に期待できた。
 正直なところ、陸遜が自身に求めるのは、その智のみである。体に至っては、興味の及ぶところでない。
 そも、陸遜は女性の肢体に対する興味が薄かった。
 嫌悪していると言ってさえ良いくらいだ。
。私は、それこそ家が滅ぶまで、名門陸家の後継として相応しい教育を受けてきました。学問のみならず、武や礼儀作法、身分の上下に合わせた人との接し方、勿論、ねやでのしきたりに至るまで、すべて……すべて、です」
 言い難いだろう話を突然聞かされて、は目が点になる。
「しきたり、と言うと聞こえが良過ぎますか。要するに、女性を悦ばせる技術ですね」
 いや、そんなことは聞かなくても分かるし、そも聞きたかなかったよ、という苦情を、は必死に飲み込んだ。聞かねばならないという強制的な空気を感じるのは、恐らく気のせいではない。
 強制的な空気の源になる、『聞かなかった場合に陸遜が取るであろう行動』の予想的中率は、根拠はなくとも相当に高いという確信がある。
 いつの間にか、は居住まいを正していた。
「その技術、私自身もこれはやり過ぎだろうと思うくらい、それは念入りに教わりました。好むと好まざるに関わらず、だった訳ですが。ともあれ、そうした事情で、私は女性が好きではありません」
 男が好きな訳ではありませんよ、と付け加えたのは、妙な方向に想像力たくましいに対する牽制だったのかもしれない。
「ただ、人のせいにするつもりはありませんが、その手の技術には自信があります。ですから、に対しても……これは誤解だった訳ですが……何故私を選ばないのかと、苛立っていた次第です」
 がその道の手練だとしたら、本能で感じるであろう陸遜の手腕を、何故察してくれないのか。
 選んでさえくれれば、『実証』することが出来る。
 よもや、わざと焦らして楽しんででもいるのだろうか。
 そんな身勝手な煩悶から、の何もかもを自分に向けさせることに躍起になった。言い訳する余裕もない程、自分に夢中にさせてくれようと意気込んで、本当のを見失ってしまっていた。
「余裕があるから翻弄してくるのでは、なかったのですよね。逆で、余裕がないから暴走して、結果翻弄してしまうんでしょう? 冷静に考えれば、滅茶苦茶ですからね、の言い訳は」
 我ながら矛盾しているとは思うのだが、滅茶苦茶とまで言われると面白くない。
 の顔は、自然に心の動きに釣られている。
 陸遜がまた笑った。
 何となく悔しくなって、要らぬ墓穴を掘る。
「でも、大丈夫なの、その」
「しなくて、でもですか?」
 けろっとした顔で言うもので、の方が恥ずかしくなる。
「……うん、まぁ、そう」
 の返事に軽く頷いて、陸遜は姿勢を正した。
「先程、陰陽の理を基に説明しましたが、厳密には……厳密と言うのも、おかしいですね。私の今の状況とは、合いません。そも、片方の気が足りないから正気を失うなど、まずあり得ない話ですから」
 そう言われればそうだ。
 ただ、はその点を『異なる世界間の移動によるもの』と脳内補完をしていた為、疑問に思うこともなかった。
 陸遜に思ったままを伝えると、陸遜もこっくり頷き同意を示す。
「元々……私は、何としてでもの相手に名を連ねてやろうと意気込んでいましたし……ですが、私自身の飢えを理由にするのは嫌で、とにかく私の思うような形で意を遂げなくては、と思い込んでいました。心得違いも甚だしいのですが」
 一度口を閉ざした陸遜は、口元に苦笑を滲ませる。
 思い詰めた感はなく、自分のしでかしたつまらない失敗に照れている風だった。
「要するに、その心得違いが一番の原因だったようです」
 陸遜は、視線をにぴたりと合わせる。
「私は、今、どう見えますか?」
「どう……?」
 突拍子もない質問に、は首を傾げた。
「どう……って、そうだなぁ……」
 静、という一文字が頭に浮かぶ。
 若々しく利発な、聞けば腹を立てるだろうが可愛らしい顔立ちには微塵の変化もない。
 けれども、妙に焦れたような、切羽詰まった性急さが、綺麗にすかんと消えていた。
 陸遜を前にして感じていた、肌がぴりぴりするような居心地の悪さがまったくなくなっているのだ。
「……何か……急に、大人になったというか」
 どう言い表していいか分からない。
 の言葉に、陸遜はわずかに唇を尖らせた。
 そんなところは、常の陸遜の印象を裏切らず、は不思議とほっとした。
「落ち着いた、と仰っていただけると嬉しかったのですが……まぁ、いいです」
 いいと言いながら、不平そうな唇はほどかれることもない。
 素直なのだろう。あるいは、未だ幼いと言うことか。
 陸遜は、話の続きをし始めた。
「私は、とにかく焦っていました。こんな機会は二度と得られない。ここでは私一人、他には誰もいない、ならば私が選ばれて当然だと……そう思えば思う程、焦って、苛付いて……それが、いけなかったんです」
「それ?」
 どれだ。
 話の腰を折られても、陸遜はめげない。
 慣れたのかもしれない。
「焦っていたことが、です。話を戻しますが、私がこの世界で平静に存在する為には、に頼らなければならない、ようです……確証はないですが、これまでのことを鑑みればそう結論付けるより他、ありません。そのことが、我ながら不甲斐なくて、焦る原因の一つだったように思います」
 とどのつまり、と陸遜は続ける。
「私の飢え、渇きは、肉体的な理由に拠るものでなく、精神的なものです。私は、その飢えと渇きの原因を、すべてのせいと決め付けていましたが、実は、原因はどうやら私にあったようなのです」
「は?」
 思わぬ結論に、は声を裏返した。
 何がどうしてそうなると言うのだ。
「……今、私は落ち着いているでしょう?」
 静かに笑う陸遜は、確かに先刻とは比べ物にならない程穏やかだ。
「私は、を得なければと思い詰めていました。その為に、に深く触れなければならない、と。肢体の繋がりにこだわるあまり、魂の繋がりを軽んじていた訳です」
 飢えが精神的なものであるなら、満たすに用いるべきは肉の潤いではなく、心の温もりであると考える方がすっきりする。
 陸遜は、に固執するあまり、そのことを失念していたのだった。
「……で、つまりどういうこと?」
 には未だ理解できない。
 明らかに困惑している様子のに、陸遜は笑う。
「ですから……が私を案じて下さる気持ちも、私がこの世界で生きる為の『力』だった、ということです。ですが、私は、が私を案じているという事実を無視してしまっていた。無視することで、私はから発せられる『力』を得られなくなってしまったのです」
 は思わず、ああ、と呻いた。
 そういうことであれば、確かに『致す』必要はない。
「じゃあ、私、なるべくり……伯言を心配することにする。そしたら、大丈夫なんだよね?」
「駄目です」
 おい、との手が突っ込み、小さく振れる。
 抗議の言葉を探すを制し、陸遜が先んじた。
「どれだけ案じていただいても、やはり肉の交わり程には『力』を得ることは出来ません。私がしないでおこうと申し上げたのは、あくまで『まぐわい』のことで、そこまではしないで良い、というだけの話です」
 生々しい単語がその整った面立ちを構成する唇から吐き出されるに及び、その落差に何故かはどぎまぎしてしまう。
 気付かれないように平静を装うが、顔が赤くなるのはどうしようもなかった。
「じゃ……じゃあ、どう……」
「口付けを」
 動揺を隠そうとしどろもどろになるに比べ、陸遜は至って冷静かつ率直だ。
「く」
 絶句するに、陸遜はずいと膝を進める。
「口付けすらも、お嫌ですか?」
 自分はこれだけ譲歩している。
 透けて見える陸遜の力強い主張に、は返答ができない。
 うんと言っても、いいやと言っても、陸遜が納得してくれそうになかった。
 無言のから、どんな返事を得たと思ったか、陸遜は膝を詰めるだけ詰めると、おもむろに顔を寄せてきた。
 吐息が触れる距離に来て、陸遜はかすれた声で囁く。
「……私を、伯言と呼ぶのが嫌なのではないですよね? 何故呼んで下さらないのですか?」
 唐突に過ぎる。
 しかし、は答えていた。
「言い難いから……あと、陸遜は、陸遜って名前が、すごくらしいから」
 笑みと共に零れる吐息も、の唇をなぶる愛撫のようだった。
「では、伯言と呼んで下さらなくても結構です。お好きなように、ですが、なるべくたくさん、多く呼んで下さい」
 言うなり、陸遜の唇がのものに重なる。
 熱く潤んだ感触に、『ようやく』と思ってしまった己に気付いて、は内心戦々恐々としていた。

← 戻る ・ 進む→

Divide INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →