長いよ、とが文句を言い、そうですか、と陸遜が応じる。
 ここ最近、二人の恒例となった遣り取りだ。
 主語がないので分かり難いが、要するにキスが長いと文句を垂れている次第である。
 試行錯誤の末、一日二回、朝晩に交わす取り決めとなった。
 その辺り、これと言って目に見える判断基準はない。故に、も心底納得した訳ではなかった。
 ただ、ここまで延々と侃々諤々やり合ってきたこともあって、今更疑って掛かる気力もない。一か零かの問題だったから、疑うこと即ちこれまでの遣り取りすべてが無駄になる訳で、とすれば陸遜の言を信じる他なかったのだ。
「もうちょっと、何つーか、ソフトにならないもんか」
 とは言え、何もかも快諾できよう筈もない。
 不満は事あるごと、口を突いて溢れる。
 そふと、と聞き返しつつ、陸遜は手元の手帳を繰っていた。
 ややもして顔を上げると、出来ません、と、きっぱりはっきり断ってくる。
 声の鮮明さとは裏腹に、陸遜の口元には笑みが浮かんでいた。
 からの『力』の供給が上手くいっているのか、陸遜はずいぶん落ち着いたように見える。
 コンパクトながら分厚い手帳は、陸遜に請われて買い与えたものだった。分からない言葉を調べたものや覚えたことを、その都度その都度、几帳面に書き込んでいるらしい。
 それを踏まえて考えても、陸遜は物覚えが異常な迄に早く、現在カタカナ混じりの日常会話もほぼ完璧にこなす迄になった。
 楽になったと思うこともあるが、下手に意思疎通が早くなったことで、主導権はほぼ陸遜に握られてしまったような気がする。
 の世界でが世話をしている筈なのだが、世話を看られている側の陸遜に主導権があるというのは、中々解せない事実であろう。両者の性格がもたらした結果とはいえ、が腑に落ちないのも無理はなかった。
 もっとも、陸遜が気にした様子は微塵もなく、故にが幾ら解せなかろうが関係が改善されることもない。
 この点、どうしても我慢できなければ、が下剋上を試みるよりなく、けれどもがそれを成す日は永遠に訪れそうにない。
 今回もまた、当然の如く陸遜主導で話は進んでいく。
「前にも申し上げましたが、回数を増やしていただければ、そふとに出来るかと思います」
「回数増やすとえらい増えるじゃん」
 試行錯誤の結果、体得した事実である。
 キスの回数と濃度は、反り返るような急勾配の反比例を描くらしい。
 つまり、回数が多くなれば多くなる程軽い口付けで済むのが、代わりにものの一分と経たず『力』が切れてしまう。
 逆に、いわゆるディープキスになればなる程、『保ち』が良くなるらしい。
 けれども、一日一回で試した時のことを、は二度と思い出したくなかった。
 犯されるかと思う勢いで飛びつかれ、犯されているのではないかと錯覚する程の深く濃いキスだったからだ。
 一回と二回でこれ程の差が生まれるなど、まったく理解できない。二回と三回の差はほとんどないから、尚更だ。
「何度も言いますが、結局は私の充足感が最たる問題となりますから」
「……そりゃ、確かに何度も聞いたけども……」
 変遷の上で培った陸遜の主張によれば、陸遜自身が『に想われている』と確信できるかどうかで『力』の獲得量に変化が生じる。
 キスの濃度と回数は、あくまで補助的なものに過ぎないというのだ。
 端的に言って、一度契りを結んでしまえば、キスの濃度も回数もぐんと下がるかもしれない。清い仲でする口付けと契りを交わした仲でする口付けであれば、単純問題、より縁が深いのは後者と考えられるのではないか。
 ただし、あくまで『しれない』という話であって、は元より陸遜とて試そうなどとは思ってない。逆に仲がこじれる不安の方が大きかったから、余計である。
 ともあれ、重要なのは陸遜の受け止め方なのだ。キスすることで、またそれをが進んで受け入れることで、陸遜は満ち足り十分に『力』を受け入れることが出来る。
「……ホントはあれだよね、私がぶつぶつ言うのもアレだよね」
 素直に受け入れることで陸遜の満足度が上がるというなら、事後の不満は以ての外ではなかろうか。
「あぁ、いえ、それは別に」
 照れているだけと受け取ってますから、とさらりと言われ、の顔が赤くなる。
 くすくす笑っている陸遜の顔は、正に穏やかと言うにふさわしい。
 からかわれるのは何だが、陸遜が落ち着いたのは本当に良かったと思う。
 からかわれるのは何だが。
「……じゃ、これからもぶつぶつ言うわ」
「お手柔らかに願います」
 軽く頭を下げると、話は終わったとばかりに陸遜は腰を上げる。
 朝食を作る為だ。
 との口付けが日常化してより、朝食は陸遜の担当となっている。
 特にが命じた訳でなく、逆に陸遜から提案したことだった。
 簡単なものだけだからと陸遜は言うが、その献立は日々充実しており、が作る夕食よりも味も見栄えも良いという有様である。
 そして、ぽかんと空いた時間をは無為に過ごす。
 やることは腐る程あるが、一人で居る貴重な時間を、無為に過ごす贅沢をこそ味わいたい。
 陸遜とこちらの世界に戻ってより、が失っていた大切な時間だった。
 本当に無為に過ごしている訳でなく、雑多な、それこそこれからの生計やら方策やらを考えることで、自身の思考を整理もしている。
 のそんな言い訳じみた考えを、陸遜が察しているとも思えないが、然して文句を言ってくることもないので、黙認されてはいるのだろう。
 テレビさえ点けず、炬燵にもぐってぼんやりしていると、陸遜が皿を携えて戻ってくる。
 その手の経験はなかろうに、プロのウェイターよろしく四皿五皿と一度に運んでくるのが恐ろしい。どれだけ基本の能力値が高いのだろうかと心胆寒からしめる。
 今日のメニューは、厚切りトースト、水菜とツナのサラダ、ミネストローネ、チーズオムレツに山盛り温野菜の付け合わせ、よく冷えたりんごジュースと温かい紅茶だった。
 どちらかと言えば麺を好んだ趙雲と異なり、陸遜はパンが好きらしい。
 特に食パンやバケットが好きな辺り、本当にパンが気に入っているのだろう。
「……陸遜」
「はい」
「それ、違う……」
 オムレツにケチャップでハートマークを描いていた陸遜は、きょとんと目を丸くする。
「しかし、てれびでは、こうすればより美味しくなると」
「うん、その辺は、何というか、気持ちの問題だ」
 の抽象的な説明は陸遜には伝わり難いらしく、不思議そうに首を傾げられてしまう。
 陸遜相手にフェチズムを語るには、の神経が保ちそうにない。
 なまじ、命じればコスプレの一つや二つ、何なく受け入れてくれそうな陸遜だけに、どうにも堪らなかった。
 むっつりと口を閉ざしたに何事か感じ取ったのか、陸遜は素直にケチャップを下ろす。
「……では、何と描きましょうか」
 うん、描かないでいいんだ、そもオムレツに何か描こうというのが違うんだ、とは、もう説明するのも面倒だ。
「陸遜の、りく」
 の言葉を受けて、陸遜は嬉しそうにケチャップを握り締める。
 書き取りも、ひらがなに関しては問題なく書けるようになっていた。
 カタカナも、悩みはするがそこそこいける。
 意外に漢字が難しいらしいが、おバカタレントと揶揄される芸能人が台頭するこのご時世、幾らでも誤魔化しようはある。が一緒に居るよう心掛ければ、何とでもなる話だ。
 こういうところも、陸遜の能力の高さを如実に語っている。
 とにかく、知識の吸収が全般に半端なく早いのだ。
 やや歪な『りく』の字が描かれたオムレツが、の前に置かれる。陸遜のものには、の名がひらがなで描かれていた。
 引っ掛かるものはあるが、目をつむる。
「いただきます」
「……いただきます」
 手を合わせて一礼する姿に、違和感はない。
 最近、少しずつ外食に連れ出しているのだが、陸遜に異常を感じたらしい人は見当たらなかった。
 違う点で振り返られるのはしょっちゅうだったが、そこを気にすると疲労が増すだけなので、気にしないのが吉である。
「今日は、どうしますか」
 フォークの先で水菜を弄りながらを窺う陸遜の目は、何やらきらきらと瞬いている。
 陸遜は、とにかく外に出たがった。
 例え近所を散歩するだけであろうと、外に出るとなると嬉しげに着いてくる。
 一度、会社に退職関係の手続きに行ったことがあったが、その時も着いていくと行ってきかなかった。
 仕事だからと半ば無理矢理置いていったが、あまりにごねるので、帰宅してからまた外出すると約束しなければならなくなったくらいだ。
 お陰で、自宅に残した陸遜が気になって気になって、上司と同僚の嫌みがまったく耳に入らなかったのは有り難かった。
 会社での手続きは目途が付いたので、後は職安に通うことになろう。
 意地でも着いてきそうなのは想像に難くなかったが、今から考えて悶絶するのも馬鹿な話だ。
 その時はその時だと、投げ遣っておくことにする。
「ドラッグストアにでも、行くかなぁ」
 台所洗剤が切れそうなのを、昨晩確認していた。
 それだけの為にわざわざ出掛けることもなかったが、陸遜を黙らせるにはちょうどいい。
「どらっぐすとあに行くなら、おーぶんしーとを所望します」
「オーブンシート?」
 聞き返すと、パンを焼くのに要るのだという。テレビでやっていたか何だかで、そんな知識を得たらしい。
が詳しいれしぴを教えてくれると、言っていたではありませんか」
 偶々、近所のベーカリーで焼き立てのパンが買えたことがあって、陸遜がやけに気に入って大騒ぎするものだから、パンの焼き方を調べてやろうかと言ったのを思い出した。
 その場のノリで流していたのだが、どうも本気にしていたらしい。
「……え」
「え」
 気まずい沈黙が落ちる。
 陸遜は、がこの手の沈黙が苦手と見抜いてしまったらしく、何がしか要求があるとすぐこんな空気を作って寄越す。
 軍師らしいと言えばこの上なく軍師らしいのだろうが、卑怯の一言でも問題なく済むやり口だ。
 けれども、こと今回の場合、朝食のパンを焼きたいからオーブンシートを買ってくれというだけの、無理難題では決してない話なだけに、敢えて逆らう理由がない。
「いや、いいけど……」
「では、足りない材料も買って下さい」
 まるでの返事を見透かしていたかのようで、苦笑する。
 恐らく見透かしていたのだろうし、それを悟られても平気の平左で構えていられる図太い神経に、いっそ憧れたくもなる。
「足りない材料……」
「ぱそこんで調べられるのでしょう? 今ある材料は分かっていますから、れしぴさえいただければ私が確認します」
 何だこの可愛い奥様は、と内心悪態を吐きながら腰を上げる。
 食べ終わってからでいいと言ってくれるかと思いきや、陸遜は期待を滲ませてを見ているばかりだ。自分はちゃっかり食事を続行させているのが、何やら腹立たしい。
 パソコン前に移動して、黒いモニターに目を落とすと、急激に心が冷え込んでくる。
 完から送られたメールの内容が、の記憶の底から勢いよく蘇ってきた。
 メールを開かなければいいだけ、と意を決し、息を飲む。
 パソコンの電源を入れると、硬質な起動音が酷く耳障りだった。
 モニターに光が宿り、軽やかな音楽とともにOSのスタート画面が表示される。
 居並ぶアイコンの中でも、メールのそれだけが異様な存在感を放っていた。
「完殿ですか」
 心臓が止まるかと思った。
 食事を続けているものと思っていた陸遜が、いつの間にか背後に立っていた。
 何故かフォークだけ持っているのが、非常に間抜けで、奇妙な現実味を帯びている。
「完殿と、何かありましたか」
 わざわざ言い直さなくてもいい。
 それにしても、そのフォークは何なんだと、は眉間に皺を寄せた。

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