初動をトチった。
 誰かに指摘されるまでもなく、ははっきりと自覚していた。
 芝居じみた己の驚きぶりに、ならばいっそ本当に芝居なのだということにして切り抜けようとするも、浮かべた笑顔はがっつり引き攣ってしまう。
 観念するしかなかった。
 前述通り、ここ最近の主導権は完全に陸遜に握られている。
 それは、某軍師並とまでは言わないが、かなり近いところまで鍛錬された洞察力から成る位置関係だった。
 証明するかのように、陸遜はの横に立ち、モニターの画面にちらりと目を向ける。
 原因を特定されたことを察した。
「…………」
 小さく溜息を吐きながら、はわずかに体をずらす。
 空いたスペースに、当然のように陸遜が身を乗り出した。
「……数字と、アルファベットはまだ読めないだろうけど、これ、IPアドレスっていって、何て言うかな、その人から書簡を送ってきたっていう証拠、みたいなものなのね」
 モニターをなぞるの指先を、陸遜は頷いて理解を示す。
 メール自体は、陸遜も携帯で使っている。
 パソコンでも同じようなことが出来ると教えてあったから、ここで説明するのは省略した。
「で、これ、完からもらったメールね。……で、これ、最近来てる中傷メール」
 二通のメールのIPアドレスを、陸遜はしばらく見比べていた。
 何とも居たたまれない。
 言ってみれば、完から罵られているのをわざわざ陸遜に見せているのと同様だったから、どうにも気持ちいいものではない。
 完の後ろ暗い面を見せることと、頼みとしていた筈の友人から痛罵されている自分の情けなさとが醸す重みで、の肩は徐々に下がっていく。
「……同じ、ですね」
 間違いではないかとばかりに何度も見比べていた陸遜は、やがて静かに結論付けた。
「……だよね」
 目の錯覚であればそれに越したことはなかったが、そうでないことは既に決している。
 だが、陸遜の言葉は続いていた。
「ですが、同じ人物ではないようですね」
 は、と思わず声に漏らしていた。
 同じではない、という言葉の意味が理解できない。
 IPアドレスは、いわば名札である。その人がその人であるという署名である。
 それが同一である以上、別人の訳がない。
 確固たる前提が、の思考を白に染め上げた。
「……いえ、多分……いえ、十中八九、片方は完殿とは別人です」
 陸遜にしてはきっぱりと、推測を口にする。
 十中八九と言ってはいるが、いつもの癖から逃げ道を用意してしまっただけで、その表情には隠しようもない自信が滲んでいた。
 つまり、陸遜は、二通のメールの送り主が完全に別人である、と言っているのだ。
 何を馬鹿な、と眉を顰めると、陸遜はにメールを幾つか開けるように指図する。
 言われるがまま、完からと分かっているメールを三通、中傷メールを三通開く。
 陸遜は、それらすべてに目を通すと、こくりと小さく頷いた。
「いいですか」
 最早確信を隠さない陸遜は、が開いたメールの中から、それぞれ一通ずつを選択する。
 まず開いた完からのメールをスクロールさせ、そこ、との手を掴んで静止させた。
「……ここ。『見られたら』、とありますよね。で、こちら」
 同じく中傷メールの方もスクロールさせ、静止させる。
「ここですね。『見れたら』とあります」
 つまり、と陸遜はを見る。
「完殿は、割に執拗というか、ほぼ確実に『られる』という風に表記される癖があるんですよ。対して、この中傷者は、ほぼすべての類例する単語を『れる』と表記しています」
 表記と言っていいものかどうかはおいておきますが、という陸遜の言葉は、筋違いの茶々入れを警戒してのものだろう。
 ともあれ、陸遜の指摘には改めてメールを見返した。
「……でも、でもさ、逆にさ……」
 の主張はこうだ。
 逆に、そうした癖をあらかじめ分かっていて、その上でわざと違う書き方をしているのではないか。
 とあるミステリーにもあるネタだ。
 音読した文章を複数人に書かせたところ、犯人は書状の送り主とは別人を装おうとして、特徴的な箇所を敢えて真逆に変えて書く。そして、そのことが実は決め手になるのだ。書状の文章を知らない限り、文章にある特徴をまったく正反対にして書くことは出来ない、というのがその理由だった。
 完もそうだとしたらどうだろう。
 自分が普段『ら抜き』をしないよう心掛けているとしたら、正体がばれないようにら抜き言葉を使う、ということはないだろうか。
 有り得ないとは言い切れない。
 口ごもり尻すぼみになったの後を受け、陸遜は再び口を開く。
「ところが、完殿は絶対使わない、という訳でもないのですよ。実際、私との遣り取りの時には、私くらいの世代の者は、らを抜いて話したり書いたりする方が自然だろうからと、強いて多用して下さいましたし。……そんな方が、同じ時期に同じようにらを抜いた言葉を多用した中傷文を送ったりしますか?」
 特に完の性質を鑑みれば、その手の幼稚な間違いは犯すまいと、陸遜は断言する。
 もしかしたら、ひょっとしたらそうかもしれない……と、の心はわずかに揺れた。
 しかし、あくまでわずかだ。陸遜の推察は、どこまでも推察の域を出ない。
 どこかしら納得し難いの仏頂面に気付いてか、陸遜は微かに笑った。
「それから」
 の動作から扱い方を覚えたものか、極々自然な流れでマウスを奪うと、ぎこちないながらも操作し、モニターに映るメールを開いていく。
「句読点、でしたか、それらの使い方もかなり違います。中傷者の文章は、句読点がほとんどありませんが、完殿はむしろ、私がお借りしている教材で見受ける文章よりも、尚多く使われているように思います。……ある意味、かなり特徴的ではありませんか?」
 の気持ちが、今度こそ確実に揺り動く。
 確かに、そうなのだ。
 出先で待ち合わせ等の例外を除き、完のメールはほぼ毎回長文が届く。
 しかも、一文一文が滅法長く、物書きの特性からか、句読点の付け方や促音撥音の描写に妙な癖がある。分かり易いところを挙げれば、メールであっても三点リーダーを二つ並べることだ。これは普通、まずやらない。
 そして、行間はほぼ皆無と言っていいくらい、ほぼ隙間なく詰めてくる。自動改行になっていなければ、ちょっと敬遠したくなるレベルで文字が敷き詰められているのだ。携帯となると、こちらの文字幅を踏まえ、それこそ空白もないような有様だ。
 その上で、驚く程に読みやすいという度し難い文章を、完は書く。
 だからこそ完には長年の固定ファンが居て、離れないのだとは想像していた。
 恐らく、漢字と平仮名の比率、単語や句読点のバランスを追及しての結果だろうが、完の文章に存在する偏執的な几帳面さが、中傷メールには一切見当たらない。
 わざとと言えばわざとと言えなくもない。
 だが、例えば文章に挿入された改行及び空白のまちまちさといい、誤字脱字をほぼ気にしていなさげな印象の文体といい、完が書いたとは思えない破綻じみた何かを感じる。勢いだけで書いたとするには、説明し得ない明確な差があった。逆にこれをわざと作れるなら、寧ろ尊敬の対象だろう。
「……うー……ん……」
 の中に迷いが生じた。
 嬉しいことの筈なのだが、不思議なことに、完から中傷を受けていないかもしれないという新たな事実に居心地悪さを感じてしまう。
 いったん受け入れた事実が引っ繰り返されるという、それだけのことがどうにも苦々しい。
 偏に、心が狭いところにもってきて、怠け者の認識がそれと下した認定を、今更覆すことを躊躇っている。
 否、ひょっとしたら、『ああよかった』と胸を撫で下ろした後、再び実はやっぱりそうでしたと引っ繰り返されるのが恐ろしいのかもしれない。
 どんでん返しが一度きりで納まらないのは、創作界の当世流だ。
 返し返して返しまくって、その衝撃を楽しめるのは、それが他人事だからだ。自分でないと理解しているからだ。
 現実問題、自身で体感するとして、不幸のどん底に落とされるなど一度もなくて構わない。
 だがしかし、である。
「うー……ん、そう……かなぁ……」
 嬉しいどんでん返しは、何度あっても構わない。
「……う……ん、………………かも……」
 矛盾だ。
 しかし、これが真実だ。
 自身を納得させるように頷いたに、陸遜も頷き返す。
「何となく、という違和感は、大切にした方が良いですよ。当たることも多いですし、当たってなくとも、殊、他人に迷惑を掛けなければ問題ありませんからね」
 陸遜は改めてモニターに向かい、幾つかのメールを読み下し、更にもう一度うんと頷く。
「私には、これが完殿の成した書状には思えません。完殿であればもう少々分かり難く、例えば……こちらのめーるのように、一言のみを表現豊かに延々送り続けるでしょうし、ほとんど見ていないと知っている筈のぱそこんに、めーるを送り続けるのも奇妙です。それに、あいぴーあどれす、でしたか、このことは、完殿はご存知ないのですか?」
「いや……」
 が知っているのに、完が知らないような特別特殊なネタではない。
 パソコンを使っていないと知っているなら、それも手だと考えられなくもないが、そこまでするならIPアドレスくらい変えて寄越すだろう。
 その為の方法は容易に用意できるのだし、この手の中傷メールでまず調べるのはIPアドレスだと分かっているだろうし、関係を破綻させたくてわざとやっているなら、もっと手間のかからない方法を選びそうなものだ。
「あー……そうか……」
 IPアドレスが同じだからといって、同一人物とは限らない。
 同じパソコンを使っている、つまり家族なら、あるいは同じ回線を使っているマンションのような複合住宅だとしたら、多少強引ではあるが同じIPアドレスになる可能性はある。
 完が、どこで誰とどのように暮らしているのか、は知らぬままでいる。
 話さなかったし、聞かなかった。
 それがいけないとするならば、しかしこれは取り返しの利くミステイクである。
 訊ねてみればいいだけの話だ。
 それが怖いというならば、とりあえずは心穏やかに保留を心掛けるのも良い。
 完がした、ではなく、もしかしたらしたのかも、程度に状況が改善されたことは、の心に幾許かの湿り気を与える。
 ガサガサかさついた心の砂漠に、小さいけれどしっかりと、オアシスの水が湧き出したのだ。
 ふ、と、短いながら深い溜息を吐いたは、この時すっかり忘却の彼方に追いやっていた事実を思い出す。
「……陸遜、何で、フォーク?」
 の指差す方向を目で追った陸遜は、ややへどもどしながらフォークを背後に回し隠す。
「あ、いえ、慌ててしまって」
 フォークの反対の手には、携帯が握られている。尻ポケットに突っ込んでいたようだ。
 に見せるように提示された画面には、とある一通のメールが開かれていた。
――いそぎ:しばしれんらくすることあたわず。
 漢字に直せば、『急ぎ:しばし連絡すること能わず』だろう。つまり、突然だが連絡出来ない状態になった、という報せだ。
 どういうことかと顔を上げたは、聞き覚えのある質問を再度耳にする。
「完殿と、何かありましたか?」
 はめられた、と言うのは被害妄想に過ぎるだろう。
 ならば、自らはまりに行った挙句、手前勝手に踊った憤りはどこにぶつけたらいいのだろうか。
 思い詰めてもどうにもならない悩みに、は無意味に下唇を噛んでみた。

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