互いに露骨に嫌な顔を見せ合ってしまうと、どうにも会話が生まれない。
嫌悪から始まる関係など、どう考えても不毛なものでしかなかろう。会話というものはどちらかと言えば健全なものだろうとは見なしている次第で、真逆のベクトルを示す両者が繋がりある順序として成立するとは考え難い。
要するに、無視して遣り過ごすことこそ、最善と思えた。
シャツのボタンを留めながら駆け寄って来た陸遜も、途中での様子に気付いたようで表情を引き締める。
ここで陸遜と合流することで、事態は更にややこしくなると確信した。
ぎりぎり黙礼と取れる程度に頭を下げ、背を向けたの手が掴まれ、引き戻される。
掴んでいる相手は勿論、件の女性スタッフだ。
非礼が過ぎる。
「ちょっと」
さすがに黙っていられなくなって、文句の一つもぶつけてやろうと振り返った先で、女性は突然ぽろぽろと大粒の涙を零し始めた。
卑怯だ、と、は眉を顰めた。
泣かれてしまっては、非礼もくそもない。傍から見れば、絶対的にが悪だ。
「あの」
とりあえず離せ、と腕を引くも、女性は泣き続けたまま、握った手の力を強くする。
痛いし、面倒だし、とにかく腹立たしい。
ボタンを留め終え、ジャケットに袖を通した陸遜も、何事かと困惑している。
距離を置いているとは言え、の身内であると分かる程度には近い位置取りに、は密かに励まされていた。
「……あの、離してくれないですかね」
勇気を奮い起こして精一杯した意志表示を、女性は無言で顔を横に振ることで無にしてしまう。
苛立ちと困惑がピークに達しようとした時、こちらに走り寄って来た人が居た。
「何をしてるんですか!」
険しい声音に、この人も誤解していると察しが付いた。けれども、膠着した状況を打破してくれそうな人だということは間違いない。
は、出来る限り冷静でいようと息を吸い込んだ。
「こ、この人、離してくれなくて」
声が震えてしまった。
濡れ衣とはいえ、あからさまに不利な状態だったから、それでも頑張った方だと自画自賛する。
駆け付けてきた女性は、胡散臭い視線でを睨み付けながら、の腕を掴む女性スタッフに声を掛けた。
「どうしたの。持ち場離れちゃ、駄目じゃない……それとも、何か問題あったの?」
けれども、女性は手を離さない。
何も言わず、ただただ涙を流している。
スタッフリーダーと思しき女性も、状況が掴めず困惑し始めたようだ。
「……あの、何が……」
救いを求めるようにに話を振ってきたが、とて何が何だか分からない有様だ。首を横に振ると、スタッフリーダーの眉間に深い皺が浮く。
陸遜が、の横に立った。
「こちらの女性が、私の連れに突然絡んできたようなのですが……」
「このひと!!」
陸遜の言葉を遮るように、泣いていた女性が叫ぶ。
「このひと、二股掛けてんの!!」
辺りが一瞬、静まり返った。
場所を移ろうというスタッフリーダーの提案に乗って、達は会場にあるカフェテリアの隅に陣取った。
飲み食いする気にはなれなかったが、場所を借りる以上はということで、一番安いホットコーヒーを注文する。
「……あの。ホントに、何があったんですか」
未だ泣き続けている女性スタッフは先に席に着かせ、達とカウンターに並んだスタッフリーダーが、こっそり訊ねてきた。
だが、も返答に困る。
誤解しているらしいことは見当が付いたが、それを説明しようとするととても一言二言では済ませられない。
小さく唸るを制して、陸遜が口を開いた。
「先日、……彼女、と居たのが私と違う方だったので、何か誤解をされているようです」
スタッフリーダーは、何か思い当たる節があったのか、その説明だけで理解したらしい。あぁ、と何度か頷くと、苦い表情で座っている女性に目を向ける。
早い時間とは言え、設置を終えたサークルの人間らしき人々がそれなり席を埋めている。その内の、かなりの人数が興味深げに視線を送って来るのを感じて、は辟易していた。
無関係、あるいは友人の立場であればやむなしで済ませられたと思うが、今回の場合、どう考えても不本意に過ぎるとばっちりだ。うんざりしない方がおかしい。
注文したコーヒーが、トレイに乗って差し出される。
受け取ろうと伸ばしたスタッフリーダーの手に、トレイの重みが伝わることはなかった。
陸遜が先に受け取り、当然のように運んでいったからだ。
ここ最近の家事の成果か、片手でトレイを運ぶ陸遜の姿は整然として、酷く目を引く。詮索したげな不躾な視線が、あっという間に憧憬のそれに変わるのを見て、は苦笑する。
隣に居たスタッフリーダーの女性も、気付けば同じように苦笑していた。
「……大変でしょう、色々」
その言葉が、に向けてのものだと、一瞬分からなかった。
「ああ、いえ……」
何と言ったらいいのか、はお茶を濁した。
それ以上は会話も続かず、陸遜の後を追う。
テーブルに辿り着くと、二人を待っていたらしい陸遜が、トレイを手にしたまま立っていた。
「…………」
戸惑いながらも腰を下ろすと、本物のウェイターよろしくそれぞれの前にコーヒーを置く。
最後に自分の前にコーヒーを置くと、陸遜はようやく席に着いた。
沈黙が落ちる。
周囲の視線に感じる好奇の色はますます濃くなって、の口を重くしていた。
そも、何を話せばいいのだろうか。
がちらりとスタッフリーダーの女性に目を向けると、溜息を吐きつつも、覚悟したように姿勢を正した。
「……えっと。この人が、前に言ってた人なんだね?」
スタッフリーダーの声に促され、女性はしばし黙然とした後、こっくり頷く。
「教えてもらった電話番号に何度も電話しても、出てくれなかったって?」
「は?」
思わず、声を出していた。
携帯をあちらの世界に置いて来てしまった都合上、出られなかった時間があるのは事実だ。
とは言え、こちらに戻ってから携帯の再発行は迅速に、それこそ翌日には終えている。
一度や二度ならまだしも、『何度も』掛けられて気が付かなかった、ということはないと思う。
慌てて携帯を取り出し、着信履歴を辿る。
やはり、それらしい電話番号の着歴はなかった。代わりに、あることに気が付く。
「あの……非通知は、着拒してんですけど……」
「……非通知? 非通知で掛けてたの? 聞いてないよ?」
スタッフリーダーの声が硬質化し、女性は顔を逸らして身を守るように体を縮込めた。
わざわざ非通知で掛けていたのか。
呆れる気持ちを、寒々とした怖気が暗いものに塗り替える。非通知で電話を掛けて寄越した理由に、前向きな類のものは浮かばない。非通知にこだわって掛けて来たと思しき女性の心理に、得体の知れない怖さを感じる。
「……そう言えば。携帯繋がんないのに、おかしくない? 家に行くの、何度もドタキャンされたって、確かそう言ってたよね? どうやって約束取り付けたの」
「えっ」
またも声が出てしまう。
電話が通じないのに家まで来ていたのか、と思うと、背筋が薄ら寒くなった。
写真を送るという名目だったので住所は教えていた。その気になれば探すことはできると思うが、そんなことはしないと思い込んでいたのだ。
今時、あまりに迂闊だったと思う。招待制なりパスワード方式なりのSNSやブログは幾らでも用意出来るのだから、画像での受け渡しはネットで幾らでも可能な訳だし、リアルの住居を教えることは、まずない。
あの時は、かなり苛立っていたから、半ば売られた喧嘩を買うようなノリで教えてしまった。
後悔しても、時既に遅しという奴だ。
スタッフリーダーの女性は、女性の非が明らかになった分だけ、どう対応するべきか判断に迷っているようだった。
わずかな応酬を鑑みても、女性スタッフがの悪評を立てていたことに疑いの余地はない。その範囲がどこまでなのかは未だ分からなかったが、スタッフリーダーの女性の態度を見る限り、極身内のみだとは考え難かった。
何故こんなことをしたのかをまず確認するべきかもしれないが、それについては確認以前の問題で、趙雲への横恋慕故とはっきりしている。
しかし、最重要な当事者たる趙雲は、この場どころかこの世界にすら居ないと来ていた。
どうしたものか。
長い間沈黙が続き、不意に、開場を告げるアナウンスが響いた。
が無意識に、声のする方へと顔を巡らせた瞬間、強い力で後ろに引っ張られた。
へ、と、状況を認識しようと顔が後ろへ向く。
頬の辺りに熱い感触が走り、瞬時に異様に冷たくなった。
じわ、と滲むように痛みが走ると同時に、の居た位置にコーヒーを満たした紙コップが投げ付けられたのだと理解した。
頬をかすめたのは、未だかなり熱いホットコーヒーだった。
の体を抱き寄せた陸遜は、が頬を押さえたのを見て、立ち上がりざまを自身の後ろへと引きずり込む。
子供がおもちゃを振り回すような軽い動きだったが、実際は相応に育った成人女性一人が対象である。力が強いどころの騒ぎでなく、異常な怪力と言えた。
は、体ごと易々持って行かれた驚きで本来以上の痛みを感じてしまい、細い悲鳴を上げる。
釣られて立ち上がる者も居て、辺りは一気に騒然とした。
「何よ!」
女性が叫ぶ。
「家、ホントに行った訳じゃないもん、いいじゃない! ちょっと、偶々用があったから、近所歩いてただけ! 何で私が、こんな責められなきゃいけないの!?」
「そういう問題じゃないでしょ!!」
スタッフリーダーが諌めると、女性は意味不明な金切り声を上げた。
どん引きする周囲を余所に、女性は一人白熱している。
「私の方が、好きだもん! あんたなんかより私の方が、ずっとずっと、ちゃんと好きなのに!」
わっと泣き伏す女性に、スタッフリーダーはひたすらうろたえるばかりだ。けれども、スタッフとして関わりがある程度の関係では、この場を仕切る義理も術もない。カウンターの方から飛んできた店員の相手をしているだけ、まだ誠実と言えた。
混乱する頭で、は女性の言葉を繰り返している。
――私の方が、ずっと、ちゃんと、好き。
そう言い切ることが出来るのを、羨ましく思う。
趙雲が好きだと、趙雲にするのだと、そんな風に思えた時が、にも確かにあった。
それがいつだったかは、もう思い出せない。
ちゃんと好きだと言い切る女性に、返す言葉を見付けられなかった。
揺るぎない敗北感が、の心を冷たく満たしていく。
泣きたかったが、涙が出ない。
好き勝手に泣いている女性が、酷く妬ましくなった。
「……何よ」
顔を歪めたに気付いたか、女性は眉を吊り上げた。
「趙雲が居る癖に、今日はそんな陸遜連れててさ。あの時、人に喧嘩売ってきた癖に、よくそんなこと出来るよね! 趙雲が可哀想。あんたなんかと一緒に居たら、趙雲、可哀想!!」
は、傍で聞いてたら、頭おかしいと思うよな、とぼんやり考えていた。
言葉で殴り続けられて、自分も少しばかりおかしくなっているような気がする。
薄く笑うに、余計に苛立ったらしい女性の罵声が続いた。
「何、笑ってんの!? 陸遜に乗り換えたんなら、趙雲、もう要らないよね! 頂戴よ。私に、趙雲、頂戴!!」
私が一番好きなんだから、と女性は続ける。
ずるい、とは胸の内で呟いた。
――そんな風に、はっきり言い切れるなんて、ずるい。
自分は、そんな風にはもう言えない。
あの夜、四角くくり抜かれた影の向こう、月明かりに照らされた趙雲の笑みを見たあの時、は趙雲を、趙雲だけを好きだとは言えなくなっていた。
だのに、このひとは、の前で趙雲を好きだと言い、趙雲以外の男を隣に立たせるを詰る。
――何も、知らない癖に。
指の先までしんと凍えて、周囲の音も女性の罵声も、どんどん遠くなる。
そのの視界が、がくんと揺れた。
はっと覚醒したの目に、陸遜の紅潮した頬が映る。
激しい怒りを押し殺した眼は、女性を射抜き、見えぬ手と化して口を塞いでいた。
居合わせた誰もが味わったことのない殺気は、その場を瞬時に制圧してしまう。
陸遜の口が、ゆっくり開いた。
「一番に思うことが、想い人の隣に立つ為の条件だと言うなら、何故貴女の隣に趙雲殿は居ないのです」
女性が、さっと青ざめる。
「……貴女の言葉は、どうしようもない妄言です。私が趙雲殿でなくて幸いでした……趙雲殿であれば、今頃、貴女の命はありませんよ」
それこそ妄言と受け止められかねない言葉だったが、笑う者は一人も居なかった。
趙雲と言う男が聞いて居たらこの女は殺されるのだと、率直に信じられる凄みが陸遜の声音にはあった。
一段と鋭い眼光に貫かれ、女性は押されるように椅子に腰を落とし、手のひらで顔を覆うとか細い声で泣き始めた。
泣きじゃくる声の合間に、だってだってと呟いている。
聞きたくなかった。
陸遜が身を翻すと、その進路に居たスタッフリーダーの女性が、ぴょんと後ろに飛び退く。
「二度と、このひとと関わりませんよう。これ以上要らぬ関わりを持とうとするのなら、私が容赦しません」
淡々とした口調なだけ、底辺に潜む威圧は計り知れない。
スタッフリーダーは、無言で何度も頷いていた。
陸遜に手を引かれ、はカフェテリアを後にする。
会場を抜けると、未だ列を成す人の群れが目に入った。
幾人かは興味深げな目をこちらに向けてきたが、駆け足に近い陸遜の速度に引っ張られ、行列はすぐに遠ざかっていく。
「……陸遜」
息が切れ、限界を感じて陸遜の名を呼ぶ。
と、突然陸遜の足が止まった。
背中に激突し掛けて、ぎりぎりで回避する。
の努力を褒めることもなく、陸遜はまっすぐ、しかし遠くを睨め付けて、唇を噛み締めていた。
「一番好きだなんてこと、何にもなりません」
寸の間が空き、言葉は続く。
「そんなこと、私がこの身で証明できます」
吐き捨てるように呟き、また唇を噛み締めた陸遜に、は何も言えなかった。