しばらく無言で茶を啜っていた陸遜が、不意にくすりと笑った。
 が目線を向けると、陸遜は柔らかな笑みを零しての目線に応える。
 元々整い過ぎる程に整った顔立ちだから、優しげな微笑みはその美貌を三倍増しくらいに引き立てる。
 心臓が妙にどきどきして、を酷く焦らせた。
 陸遜に対しては、特に年の差のせいもあって特別な感情を感じない。
 時折、おや、と思うことはあっても、気の迷いで済ませることが出来た。
 だから、今回もそれに倣うことにした。
――もう、これ以上は……っ!
 傲慢かもしれないが、切実である。
 特に陸遜は、年若のせいもあってか突っ走る時はとにかく限界まで突っ走ってしまうような感じがする。
 憧憬を感傷的に捉えてしまう幼さ、勘違いしても過ちと認めないような意固地さを、陸遜は二つとも備えているように思うのだ。
 たぶん、間違いではない。
 様々な瑕瑾が積み重なって、に陸遜を避けさせる要因となっていた。
 ではどうしたらいいと問われても、答えが出るような問題ではない。
 敢えて追及せず、『自分の思い上がりだ』ということで収めた方が、どう考えてみても楽なのだ。
 陸遜としても、そうに違いないと思い込むより先に我に返ることが出来た方が、うんと良い。筈だ。
 誤魔化した方が、いい。
 結論が出ると、の行動は早かった。
「完から、何か聞いた? どんな話、したの?」
 まくしたてるに、陸遜は少々面食らったようだ。
 異世界に飛ばされてすぐのことで、一番混乱しているのは陸遜だろう。
 ちょっと手口が汚いかなと思いつつ、はその混乱を利用していた。
 誤魔化すのであれば、話の方向を捻じ曲げて紛らわせ、会話の中に埋めてしまうのが一番だ。
 陸遜は、の問いに困惑しながらも、考え考え答えを口にする。
「……えぇと……完殿が仰るには、私の居た世界と、こちらは、平行世界というものだそうで……」
 は驚いて目を見開く。
 幾ら何でも、かっ飛ばし過ぎではないか。
 平行世界、つまりパラレルワールドの定義は、いわゆるSF小説のそれだ。陸遜が知る由もないだろう単語を使って解説するなど、完らしくもない不手際に思える。
「へ、平行世界……って、分かる……?」
 恐る恐る訊ねるに対し、陸遜の反応は至極あっさりしていた。
「はい」
 簡単に『YES』と言い切った陸遜に、は唖然とさせられる。
 絶対に分からない、分かる筈がないと思うのだが、陸遜は分かると言う。しかも、嘘を吐いているようにも見栄を張っているようにも見えない。
 があまりに驚いているのが可笑しいのか、陸遜は苦笑いをしながら逆に教えてくれた。
「……つまり、異世界、ということでよろしいんですよね? 私達の国にも、そういうような伝承があるのですよ。山深く分け入った若者が、この世のものとも思えぬ世界に迷い込んだとか、後日もう一度その世界を尋ねようとして、行ったまま帰れなくなったとか遂に見付けられなかったとか……殿は、御存知ありませんでしたか」
 知っているような、知らないようなだ。
 少なくとも、陸遜がそんな話を知っているとは知らなかった。
 陸遜がくすくす笑い出す。
殿は、珍しい話をたくさん御存知だと伺ってはいたのですが……私達が知っているような話は、却って御存知ないかもしれませんね」
 語り部に語るような愚行を犯す者など、なかなか居るまいと陸遜は結んだ。
 言うなれば、が諸葛亮に孔子の教えを説くようなもので、確かにやれと命じられたとしても御免被りたい所業だ。
 陸遜の話によれば、完の説明は実に分かりやすく見事なものだったと言う。
 滔々と語る陸遜の口調に、完への尊敬の念が滲んでいるのがよく分かり、何となく面白くない。
 それはさておき、完は、ここが陸遜の居た世界とは別の世界であること、陸遜の世界によく似た『ゲーム』があるということまできっちり理解させたそうだ。
 はっきり言って、驚愕以外の何物でもない。
 いきなり『貴女はゲームの登場人物です』と言われ、納得し了承できるものだろうか。
 だが、完は陸遜を納得させ、陸遜はその事実を了承したのだと言う。
 如何な言葉を尽くせば、そんなことが納得できるのだろうか。
 言葉もないに、陸遜は曖昧に微笑む。
「いえ、勿論私も『げーむ』というものがどんなものかまでは知りません。見せていただけるとのことでしたが、私が『てれび』に驚いてしまって、その御説明を受け終わった時には、殿が目を覚まされましたので……」
 実物を見てないから、まだ実感が湧かないのだ。
「……見てみる?」
 テレビとプレステの電源を入れれば済む話だ。
 だが、陸遜は即座に断ってきた。
 さすがに、未だその境地に至っていないらしい。
 何となくだが理解できるような気がして、も強制はしなかった。
 そういうものがあると聞いて『そういうものがある』と冷静に受け止められるだけ、陸遜は頑張っていると思う。
「あ、そうだ」
 何より、まず確認しなければならないことがある。
 立ち上がったの顔を、陸遜はあどけなく首を傾げて見上げていた。

 一度閉めた玄関を開け、庭に出る。
 陸遜の靴は如何にも履くのに時間が掛かりそうだったから、庭用のサンダルを貸した。
 ビルの谷間にぽつんとある小さな借家を、陸遜は珍しいものでも見るようにじろじろと眺めている。
 実際珍しいのだろうが、見せたいのはそれではない。
「陸遜殿、こっち」
 返事がない。
「……陸遜」
 やはり、返事がない。
「………………伯言」
「はい、何でしょう」
 たっぷりと間を取る嫌みを食らわせたつもりが、陸遜には通用しないらしい。取って付けたような爽やかな笑みで応じてくる辺り、むしろの方が精神的に被害甚大と言えた。
「……こっち。この辺りだと思うんだけど、何か感じる?」
 陸遜の表情が締まり、至極真面目な顔付きに変わる。
 辺りを見回しながら一歩二歩と進み、しばらくその場にたたずんでいたが、不意に振り返って首を振った。
「駄目かぁ」
 があちらの世界に行った際、帰るべき道はが最初に転がり落ちた場所にあった。
 であれば、当然陸遜の場合も……と見当を付けたのだが、外れてしまったようだ。
「……いや待てよ」
 もう一つ、肝心なことを思い出す。
 にしても、そして趙雲にしても、『帰還』する迄に結構な時を費やした。
 突然見知らぬ世界に放り出された点は置いておくとしても、すぐに『戻れる』とは思わなかったし感じなかった。
 ならば、『来た道』が『帰り道』になるには、幾らかの時間が必要になるのかもしれない。
 仮ではあるが、そう結論付ける。
 が気付いて顔を上げると、陸遜は薄く微笑んでを見ていた。
 何故かが焦ってしまう。
「り……伯言、不安じゃないの?」
 いきなり見知らぬ世界に放り出されて、頼るべき縁故もないと来ている。
 は、不安になった。
 一人きりで、何が何だかまったく分からなくて、怖くて、心細かった。
 陸遜はそうではないのだろうか。
殿が、いらっしゃいますから」
 涼やかに、穏やかに、そしてきっぱりと言い放つ。
 貴女が居るから、何も怖くはないのだ、と。
 の顔が一気に赤くなった。
 実に気障ったらしい宣言は、しかし年若い陸遜の口から放たれれば真摯な告白と化す。
 直向きな目と微笑む口元があいまって、の胸を貫いてしまう。
 勘違いしてはいけないと自身を律するも、それが逃げ口上に過ぎないことをも理解している。
 こうなると、どう誤魔化しても陸遜がに思いを寄せているのは否定しようもない事実だった。
 誤解だと思う。
 陸遜は、何かとんでもない思い違いをしているに違いないのだ。
 けれど、は相手の気持ちを否定する愚行を何度も繰り返している。
 言い換えれば、多少は学習しているのだ。さすがに同じ過ちを繰り返そうとは思わない。
 大切なのは、どうはぐらかすかだ。
 多分、違うが。
「……そうだね、私も、最初は一人だったけど、すぐに趙雲が見付けてくれたから。あの時は、ほっとしたなぁ」
 かなり棒読みに近い誤魔化しだったが、陸遜は潤んだ眼差しを引っ込めて、むっと膨れた表情に転じた。
「趙雲殿、ですか。そう言えば、先程も趙雲殿のお名前を伺いました」
 気のせいか、陸遜の背後から黒いものが沸き立っている。
「私は、殿は南方の隠れた里の御出身と伺っていたのですが、嘘を吐いておいでだった、と考えてよろしいですか」
 潤んだ眼差しが引っ込んでくれたのはいいが、その魂は暗黒面まで落ち込んでしまったらしい。
 フォースを呼び覚ませ、と胸の内でずれたツッコミを入れるも、さすがの陸遜でもあのSF超大作を知る由もないから、単なる無駄な足掻きに過ぎなくなった。
「いや、だって、完から話聞いたって……」
「私は」
 凛とした声が、の弱腰な声をきっぱり遮ってしまう。
殿の口から、直に、伺いたいのです」
 陸遜はの両肩を掴むと、にっこり笑って顔を寄せた。
 目が笑ってない。
「こんなに冷えて……お寒いでしょう、話は中でゆっくり伺いましょうか」
 言うなり、くるりと方向転換させられる。
 はいはいと掛け声も軽やかに押し出され、は抗う術もない。
 あの世界の将達に共通の馬鹿力は、こちらの世界にあっても健在らしかった。
「ちょ、陸遜!」
「伯言です、殿」
 間髪入れずに訂正されて、が何か言い返す前に玄関へと押し込まれていた。

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