「何て読むか、分かります?」
話し掛けられて我に帰ったは、改めて名刺に目を向けた。
春花がいたからそのまま『しゅんか』と読んでしまったが、確かに『はるか』とも読める。ただ、わざわざ問い掛けるからには、別の特別な読み方をする名前なのかもしれない。
「……しゅんか……あ、いや、はるか、ですかね」
恐る恐る答えると、女の子はいたずらっぽく笑った。
「さくらです。さくらって読むんです、それ」
特別過ぎる。
「春の花だから、さくら。やっぱり、春の花って言ったら桜じゃないですか」
それはそうかもしれないが、春の花だったら何も桜に限った話でもない。タンポポなりチューリップなり、色々あるだろう。
まあ、代表的なところで言ったら桜なのかなあと思いつつ、釈然とはしない。
顔に出ていたものか、気付けば『さくら』も苦笑いしていた。
「あ、いや、ごめんなさい……えっと、じゃあ『さくら』さん、でいいのかな……」
言い方を間違えた、と、口篭る。
「……てか、『さくら』さん、だね。よろしく、さくらさん」
無礼を重ねたことに気分を害したのか、笑みこそ浮かべているものの、黙礼を返されるのみだ。
沈黙が落ちる。
「取り敢えず、移動しませんか。他の方の邪魔になっているようですし」
口火を切ったのは陸遜だった。
言われてみれば確かに、達四人を避けるように人の流れができている。
いかん、と完に目をやり、ぎょっとする。
心ここにあらず、といった様子ではあったが、ぼんやりしている訳ではない。唇を噛み締め、眉間に皺を寄せている。
苦渋を絵に描いたような表情だった。
「……どうかしましたか?」
陸遜の声に再び我に帰り、完に手を伸ばす。
行こう、と無意識に誘い掛けた行動だったが、の手は完には届かなかった。
の手が届く前に、さくらが完を促し、先に歩き出したからだ。
「行こう、お姉ちゃん」
おかしなことは何もない。
本当の関係がどうなのかはさておき、姉と呼んで慕い慕われる二人の仲であれば、自然な流れと言える。
だというのに、腹の底から何とも言えない暗い感情が湧き上がるのを止められない。
その感情の名を、はよく知っている。
嫉妬だ。
――いかんなあ。
こっそり胸の辺りに手を当てる。
完への依存度の高さを如実に示しているようなものだ。
「……大丈夫ですか?」
隣に並んだ陸遜が、の耳元へこそりと話し掛ける。
そのせいで、前を行く二人との間に距離が空いた。急いで追い掛けようと足を踏み出すも、何故か陸遜が動かない。
「陸そ……」
言い差し、口を押さえた。
先程注意されたばかりだと言うのに、迂闊に過ぎる。
案の定、陸遜も苦笑している。
「……さん?」
先行するさくらが振り返り、二人が動き出すのを待っている。
完は、背中を見せたままだ。
その背中にさくらの手が添えられている。
むかっとした。
なんだかなあ、と、自分に呆れる。
嫉妬されるのは煩わしいくせに、嫉妬するのは抑えられない。
自分の身勝手さに、気持ちがずぶずぶ沈んでいった。
あらかじめ決まっていたものか、さくらは迷う素振りも見せず、とあるファミレスの扉を開く。
「今日は、絶対ここな気分だったんですよー」
早い時間のせいか、店内の人影はまばらだった。
「空いてますね、やったあ」
はしゃぐさくらは、小走りして角のソファ席を陣取る。案内に立ったウェイトレスも、さくらが座ったのを確認して引っ込んだ。
空いていたから、多少の融通は利くのだろう。六人掛けの席に、奥からさくらと完、向かい合わせて陸遜とが座る。
「何にします?」
さくらは、置いてあったメニューを手際良く各人に回し、さっと広げる。
食べたい品目をはしゃぎながら探す姿は、容姿のせいもあってかとても可愛らしい。
嫉妬などして申し訳ないと後悔している時、は、ふとあることに気が付いた。
果たして、陸遜はファミレスのメニューを読みこなすことが出来るのだろうか。
――つか、陸遜ファミレス初めてだったよな!?
外食をしたことがないではないが、その際はがまとめて注文している。
陸遜が自らメニューを選択、注文したことは、実のところ未だ一度もないのだ。
平仮名片仮名は覚えている、ほぼすべてのメニューに写真が付いているとはいえ、現代人らしくスマートに注文出来るとは限らない。メインにサブ、デザート、セットにしてもライスだのパンだのサラダだの、多少の慣れがなければなかなか卒なくとはいかないものだ。
陸遜の年でファミレスの注文慣れしていないというのは、少しばかり厄介な事実なのではないだろうか。ここに至るまで、特に取り乱すこともなく動いているから尚更だ。
当の陸遜は、平然とメニューに目を通している。
心配し過ぎだろうかと思いつつ、場の面子にさくらというある意味部外者がいるだけに、不安は拭い切れない。大丈夫だろうかとがハラハラしていると、不意に陸遜が顔を上げた。
「決まりましたか?」
「え、あ、まだ……」
慌ててメニューを手繰る。
「迷ってますか?」
「あ、うん……ちょ、ちょっと待ってね……」
迷うというか心配していたのだが、これではの方が不審者だ。
少しはカモフラージュになっていいかもしれない、とも、ちらりと考えた。
ともあれ、まずはメニュー探索に勤しむ。
あまり馴染みのないファミレスだったから、無難にパスタかグラタン辺りを選ぼうかと目を走らせるが、焦ると余計な迷いが生じる。
「迷っているなら、私と取り分けしましょうか」
陸遜の言葉に、何とはなしに察するところがあって、あ、と小さく声が出た。
「う、ん、じゃ……そうしようか」
「では、注文して置いていただけますか? 私は、少々失礼します」
上手い。
それなり自然な流れを作って注文を逃れた陸遜は、行く気もないだろうトイレに向かった。本当にそうだったとしても、トイレに関してはレクチャー済みだから、恐らく問題ない。
上手く誤魔化せたと一安心していると、突然完が席を立つ。
「お姉ちゃん? 注文は?」
「ドリンクバーだけでいい」
やはりトイレなのか、陸遜の後を追うように去って行った。
今日顔を合わせたばかりの二人が取り残され、気まずい空気が漂う。
と思いきや、さくらは人懐こい笑みを浮かべてを見詰めていた。
「私、さんのサイト、見てますよ」
「あ……ど、どうも……」
怯むとは裏腹に、さくらのテンションは急激に上がった。
「素敵なサイトですよね! 最近は更新なくて、残念ですけど」
「ご、ごめんなさい」
まさか、サイトを見られていたとは思わなかった。
ウェブで公開している以上、誰が見ていてもおかしくないが、何せが扱っているのは二次創作の十八禁サイトだ。昼日中のファミレスなどで声高にお話されたくない話題である。
見た目は可愛らしげなさくらだが、どうもその辺の分別に欠けるように感じる。同人にははまりたてとかで、その辺りがまだ理解できていないのかもしれない。
体験に基づいて書いているのか等という馬鹿な質問を制し、やんわりと会話を打ち切った。
「……そういう話は、聞いてて不愉快になる人もいるから」
「えー……でもここ、おたくの街ですよ」
さくらは不服げだが、『おたくの街』に一般人が居ない訳もない。不安があるなら避けた方が賢明というものだ。
「完とさくらさんて、どういう知り合いなの?」
敢えて無難な、しかしにとっては最も興味深い話を振ると、さくらは突然携帯を取り出した。
「アド交換、しません?」
「へ?」
いきなりの申し出に戸惑うものの、明確に断れる理由もない。
気乗りしないアドレス交換は、の意に反して呆気なく終わった。
次いでさくらは、何やら携帯の操作を始める。
「送信テスト代わりに」
赤外線を使ってのアドレス交換でテストをする必要があるのかと、やや引っ掛かる。
の手の中で、携帯が震えた。
「ブログなんです。良かったら、感想下さい。あ、ブログにメールフォームとか付けてないんで、携帯に送ってくれればいいので」
「あ、はあ……」
ここにきて、は確信した。
――この子、苦手だ。
自分のブログを紹介すること自体はともかく、感想を強請るのはなしだろう。言い方がまずいだけかもしれないが、わざわざ携帯に送れ等、妙に押し付けがましく感じる。
確とした理由はないが、いわゆる『地雷臭』的なものを感じ取ってしまった。ご飯食べたらどうにか言い訳して、早目に退散しようと決意すると、未だオーダーしていなかったことを思い出す。
いけね、と、無意識に視線を転ずると、ちょうど完が戻ってきたところだった。
「あ、ごめ……」
注文していないことを詫びようとするの腕を、完が勢い良く引いた。
目を丸くするに、完は顎をしゃくる。
「陸、具合い悪いってよ」
完の言葉を理解するまで、数瞬を要した。
「……え、陸そ……」
慌ててしまい、また陸遜の名を口走ってしまった。
しかし、それどころでないとトイレに向かって駆け出す。
「り」
陸遜は、トイレに繋がる通路の途中で座り込んでいた。
具合が悪いという完の言葉通り、その顔色は真っ青だ。
「どうしたの、どこか、痛い?」
声を潜めて話し掛けるも、陸遜は視線をわずかに上げたのみだ。
かなり悪いように見える。
「……陸遜、立てる? タクシー……乗り物、用意するから、少し我慢出来る?」
頷いたのを確認して、陸遜に肩を貸す。
弱々しい吐息が頬に触れ、しかしその熱さに陸遜が感じているだろう辛さが伝わって来る。
それにしても、細身といえど陸遜は、頑丈剛力を誇る武将の一人だ。何がどうしてこうなったのか、さっぱり分からない。
視界に影が落ちたのを感じて目を向けると、完が居る。
どうしてか、怒ったような泣き出しそうな、複雑な顔をしていた。