陸遜が腕を捩じる。
 握り締めた衣服が捩じりに捩じれ、水が勢いよく落ちた。
「おお……」
 ぎゅぎゅー、と、音さえ聞こえてきそうだった。
 絞り込まれた衣服から、ぼたぼたと水が落ち、やがてぽたぽたと音が軽くなったと思えば、徐々にその間隔が空いていく。
 滴が落ちなくなっても、陸遜の力は緩まない。
「……陸遜」
 きりきりと、微かながら嫌な音が聞こえてくる。
「陸遜」
 音が、段々と大きくなってきた。
「陸遜、ストーップ! ストップ、てか止めて止めて止めてっ!!」
 これ以上は、確実に破ける。
 陸遜は訝しげだ。
 向こうの服は、余程丈夫に設えられているのだろうか。そもそも、戦闘の時に身に着けているのだから、それもそうかもしれない。
 ともあれ、服を破かれる前に止められたのは幸いだった。
「後は、ドライヤー当てれば何とかなるかな」
 広げた服は、熱心に絞り込まれたお陰でかなり皺が寄っている。
「……何をしているのですか、
「ん? 皺伸ばしてる」
 服の端と端を持って振り叩いたり、手のひらに乗せて叩いたりしていると、陸遜が新たに絞った服を広げ、しみじみ見下ろす。
 不意に、ぱあーん、と甲高い音が響いた。
 びくっとして陸遜の方を向くと、陸遜は再び手を振り下ろす。
 ぱぁーん、と、やはり物凄い音がした。
「思ってたんだけど、やっぱ……陸遜達、力強いよね……」
「そうでしょうか」
 音が鳴る。
「いや、手加減しなさいって」
 陸遜が今手にしているのは、自分のジーンズだ。
 三度叩いただけで、あれだけ寄っていた皺が綺麗に伸びている。
――デニム地の皺って、取れ難いのにねー。
 どう見ても不慣れな様子で、ジーンズをぎこちないながらに上下左右へと引っ張ったりしているのだが、不思議なくらいに皺はみるみる消えていった。
「綺麗になるものですね」
 にこっと笑う。
「……洗濯、したことない?」
 家では、未だやらせたことがない。
 量的に分けて洗うのは不経済な上、が自分の下着を陸遜に洗わせることに対し、どうにも抵抗があったからだ。
 陸遜の方にも抵抗があれば話は別だが、何も言われなかったのでそのままになっている。
 もっとも、名門陸家の長子として育った陸遜のこと、日常茶飯事的に家事をこなしていたとは到底思えないから、それも当然の話かもしれない。
 朝食を作っていること自体、陸遜にとっては非日常なのだ。
 本来であれば、軍議に参加したり、新たな策略を練ったり、そういうことこそが陸遜にとっての日常であった筈だ。
「……?」
 呼ばれて、我に返る。
は、本当に考え事が多いですよね」
 笑われて、しかし曖昧に笑い返すことしか出来ない。
 考え事は多い方かもしれない。
 けれど、ここ最近は際立って多いと思う。
 悩んでいるからだ。
 考えているのは、陸遜のことが多かった。
 どうするべきか、どうしたら一番いいのか、いつも困っている。
 それは、陸遜が『異世界』にいるからだ。
「ご飯、食べようかー」
 気抜けした声に、陸遜は戸惑ったように頷いた。

 最近のラブホテルは、凄い。
 利用したこともなかったくせに、は酷く感心していた。
 ルームサービスが取れることも驚きだが、そのルームサービスを受け取るのに、顔を合わせないで済むのも凄い。
 メニューも、ちょっとしたファミレス並で驚かされる。値段もそれ程高くもなく、量が少ないということもない。
 化学調味料はふんだんに使われているのだろうが、陸遜が食べられさえすればいいのだ。
「……どう? 大丈夫?」
「大丈夫です」
 ならば、大丈夫だろう。
 念の為に、陸遜はビーフシチューとパン、はミートソーススパゲティとメニューを別にしていたが、わざわざ交換する必要もなさそうだった。
「一口、食べてみますか?」
 うんともいいとも言わない内に、シチューの盛られたスプーンが差し出される。
 指を伸ばすのだが、陸遜がスプーンを離す気配がない。
 やむなく口を開くと、口の中にシチューが流し込まれた。
のも、一口下さい」
 肉の欠片を噛み締めながら、フォークに巻き付けたスパゲティを差し出す。
 陸遜も、口で受けて食べた。
 あまりに自然な流れで、これでいいのだろうかと小さな煩悶が生まれる。
 こだわり過ぎなのかもしれなかったが、易々流されるのも何となく面白くなかった。
 陸遜に、動じた様子は一切ない。
「……そう言えば、どうしてなんでしょう」
「はい?」
 唐突な質問の上、その内容がまったく分からない。
 訝しむに対し、陸遜は淡々と話を続ける。
「完殿は、どうして私にあんなことを仰ったのでしょう」
 その『どうして』かと納得し、分からないなりに考えてみる。
 完は、何故陸遜にの『代役』を申し出たのだろう。
「……どうしてっていうか……だから、あれじゃない……?」
 言い難い。
 要は、完が陸遜に横恋慕したか何かだと思う。
 好意的に、または邪推を除いて考えれば、の負担を軽くしようと意図してくれたと取っても良い。
「仮に、完殿が私の為にと、善意から行動を起こして下さったのだとして」
 陸遜が言いたかったことは、の言い難いこととは少しばかり違っていた。
「何故、あの場だったのでしょう」
「……ああ」
 それは、確かにそうだ。
 何故、あの場だったのだろう。
 時も場所も悪過ぎる。試しだとしても、あまりに浅慮ではないか。
 陸遜は携帯を持っているし、どこぞに呼び出せば済む話である。を通すのが嫌だったとしても、ならばあの場では打ち合わせだけすれば事足りる筈だった。
 何故、完はあの場を『決行の場』として選んだのだろう。
「……何か、焦ってた、とか……」
 思い当たる節はなく、思い付きで漏らした言葉だった。
 けれども、陸遜は頷いた。
「そうだと思います。理由は、分かりませんが……完殿は、何か焦っていたのだと思います」
 ペンネームで己の性格を色付けるような奇人とはいえ、常に冷静を絵に描いたような完らしくない行動と言えた。
 らしくないと言えば、と、ふと思い出す。
「陸遜も、らしくなかったね」
 具合が悪いとはいえ、さくらを突き放した態度はいつもの陸遜からは想像もつかないものだった。
 指摘するも、陸遜はけろりとしている。
「そうですか? 私はいつも、あんなものですよ」
「えー……」
 どうしてもしっくりこない。
 陸遜は、悠然とシチューを一口啜ってから、おもむろに口を開いた。
「私は、嫌いな相手には、早い段階で態度に示すことにしていますから」
 開いた口が塞がらない。
「利用価値があれば、また別ですが」
 塞ぎようがない。
 堂々と言っていい話ではないと思うが、陸遜はこれ以上なく堂々としていて、非難の余地があるのかすら窺わせなかった。
 大した大物っぷりである。
 としてもさくらは苦手なタイプではあったが、ほとんど言葉を交わしていなかった陸遜が、ここまで拒絶するのは筋違いだろうという気もする。
「そこまで、言わんでも」
 ほとんどひとり言めいた呟きに、陸遜は口を尖らせる。
「見ず知らずの男にべたべたするようなひとは、嫌いです」
 べたべたというか、一応介助してくれようとしたのだと思うのだが、陸遜からしてみると違った思惑があるようにでも見えたのか。
 座り込んでいたさくらの姿を思い出し、少し可哀想になってくる。
 後でメールしようと、改めて心に決めて、ブログのことを思い出した。
 読んでから謝罪を送った方がいいのか、とりあえず謝罪してから読んだ方がいいのか。
 内容が謝罪である以上、急いでメールした方がいいとは思うが、陸遜がさくらを嫌っているらしい以上、目の前でメールを送るのも躊躇われる。
 どうしたものか。
 何とはなしに、脇に置いてあった鞄から携帯を取り出した。
 途端、手にした携帯が震える。
 思わず携帯をお手玉するに、陸遜は無言の視線で何事か問うた。
 慌ててディスプレイを確認すると、数字の羅列が表示されている。
 誰かの携帯番号らしいが、誰のものかは定かでない。
 首を傾げながら、それでも念の為と携帯を開いた。
「はい」
 通話ボタンを押してすぐ、聞こえてきたのは雑踏のざわめきだった。
 ずいぶん大勢の人が行き交っていることだけは分かる。
 発信者の声は、聞こえない。
 いたずらか間違いか、判断に迷う。
「あの」
 一度促して、返答がなければ切ろう。
 そう思って声を掛けると、小さな吐息が耳に届き、次いで震える声が聞こえてきた。
『……あの……』
 すぐ分かった。
 あの、スタッフのひとだ。
 は、知らぬ間に唇を噛み締めていた。

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