何と言って返したものか、判断に困って口篭る。
の緊張が伝わったのか、通話相手の声もまた、緊張で更に強張ったようだった。
『あの……、分かりますか……?』
「あ……はい……」
陸遜の顔も、わずかながら強張った。
相手が誰か、察したようだ。
電話の中では、陸遜から直接の助力を得ることは出来ない。
それでも、陸遜がすぐ傍に居てくれることは、それだけで心強かった。
沈黙が続く電話にも、だからこそ耐えられる。
けれども、相手が何が言おうとしているのかは一向に分からず、困惑は増すばかりだ。
未だ言い足りないのか。
熱いコーヒーをぶちまけただけでは、気が済まないと言うのか。
何を言われても動じないようにしようと身構えるも、内心はいわれのない不安でいっぱいだ。
『あの……』
拳を握る。
何を言うつもりだ。
『ご、ごめんな、さい……すみません、でした』
ぱか、と口が空いていた。
顎が勝手に落ちたのだ。
陸遜の顔が、怪訝そうに歪む。
緊張していたところに、突如馬鹿面を晒されたのだから致し方なかろう。
電話の声は、こちらの事情を察することもなく続く。
『勝手なことを言って……酷いこと言って、すみませんでした』
「あ、はい……」
急激な変化に、頭が付いていかない。
向こうは向こうで、時間を置いて頭が冷えたということなのだろうか。
本人が目の前から消えたことで、冷静になれることもあろう。
それでも、公衆の面前であれだけ罵倒して寄越した人物が、声を震わせて謝罪している現状を、にわかには受け入れ難い。
理屈ではないのだ。
『本当は……あんなこと言うつもりじゃなくて……言い訳、かも、しれないけど……ただ……』
言い訳だ。
の立場からすれば、聞くに堪えない類のものだ。
しかし、は通話を切ることはしなかった。
何となくだが、そうしたくなかった。
また沈黙が落ちた。
今度は、ずいぶんと長い。
それでもは、自分から切ろうとは思わなかった。
何かを言おうとしている。
ならば自分は、それを聞かなくてはいけない。
そう思った。
ひたすらに、相手の言葉の続きを待つ。
『ただ……ただ、私……ただ……』
繰り返される『ただ』の一言にも、それでも辛抱強く待ち続ける。
形のない、予感めいたものがあったからかもしれない。
何を問われようとしているのか、何となく分かっている気がする。
そして、問いは遂に形を成した。
『……あの趙雲は……趙雲、ですよね……?』
待ち続けた時間を鑑みるには、どうにも馬鹿馬鹿しい限りの質問だった。
傍で聞いている者がいたとしたら、まったく理解しかねる問いだろう。
けれど、だから理解できる。
答えられる。
「はい」
これまでと異なる声の質に、陸遜の目が鋭く細められる。
雑音に紛れたか細い声は、携帯越しのにしか聞こえない。会話の内容を吟味できない以上、今、陸遜がやれることは何もなかった。
苛立ちを察していなすように頷くと、は通話相手に答えを繰り返す。
「はい、そうです」
また、雑踏が鼓膜をざわめかせる。
その中に、は微かな振動を感じ取っていた。
しばらくして、電話は切れた。
携帯を畳んで、陸遜に目を向ける。
スプーンが差し出された。
「冷めますから。先に、食べてしまいましょう」
ビーフシチューの濃いデミグラスソースの味を堪能しつつ、了承の印として、スパゲティを陸遜の口に運んだ。
謝罪を受け入れるつもりはある。
ただ、すっきりはしなかった。
矛盾した感情を、しかし陸遜はあっさりと肯定してくれた。
「それはそうでしょう、罵倒された挙句に火傷まで負わされそうになって、謝罪で済むなら戦など必要ありません」
大仰ではあるが、真理でもある。
「それより、言ってしまって大丈夫なのですか」
陸遜は、があの趙雲を『趙雲』と認めてしまったことを危惧していた。
我ながらあっさり認めたことに感動している、等と言ったら、烈火の如くのお叱りを受けそうだ。
「まぁ、でも、大丈夫だと思う」
あのスタッフの女性が別の誰かに吹聴したところで、信じてもらえるとは思えない。世迷言にも程がある。
あの趙雲、この陸遜を前にしてさえ、どれだけの人間がそうだと納得できるものか、甚だ怪しい。せいぜい、『理想のコスプレイヤー』と認識されるのがオチだ。
そこから痛い腹を探られるのは困るが、一市民にそこまでの探索が出来るものとは思わない。
否、出来るものではないと思いたい、というのが、心情に近かった。
携帯を切ってから後、やはりあそこまで素直に言うべきではなかったかという後悔が、今更ながらに湧いてきている。
現住所が割れており、その上で近所をうろついていたという実績まで作った相手だ。
あの趙雲が本物だとしたら、会いたくなって然るべしだろう。
会いたくなるのが当然だと、分かっていながら答えてしまったのは、何故なのか。
――でも、嘘は、吐けなかったんだよなー。
違うと答えるのは容易い。
黙り込んで、答えを誤魔化しても良かったのかもしれない。
だが、にはどちらも出来なかった。
滑稽極まりない問い掛けを、それでもせずには居られなかった彼女の真剣味を、嘘偽りで汚したくなかったのだ。
通話の最後、彼女が泣いているのが分かった。
泣きながら、恐らくは有難うございましたと言って、切った。
イベント会場という混沌のただ中で、そんな電話を掛けてくるのもどうかと思わないでもないが、掛けようと思い、実際掛けてきたことに対し、素直に凄いと思ってしまう。
あんなことを仕出かした相手に、しかも二度と関わるなと恫喝された相手に対し、謝罪の電話を掛けるのは勇気が要っただろう。
謝罪がついでであったとしても、どうしてもあの趙雲を『趙雲』だと確かめたかっただけだとしても、それは称賛されるべき勇気だ。
私の方が、ずっとちゃんと好きと叫んだ声が蘇る。
事実かどうかはさておき、純粋にそう信じているのだろう。そういう、自信があるのだ。
やはり、羨ましいと思う。
趙雲だけを、そうでなくともたった一人の人を、今生この世この人限りと宣言できる強さをは遂に持てなかった。
理由がどうあれ、の現状は、不特定多数に唾棄されるべきものだろう。
その後ろめたさが、に偽りを吐くことを許さなかったのかもしれない。
――でも、だったらいっぺん錦馬超やら小覇王やらに、俺は本気だって迫られてみたらいいと思う!
数多煌めく群雄を前に、拒否して拒否できない状況まで追い詰められたら、いったい何人の女子が抵抗できるものだろう。
いっそ見物だとすら、思う。
自身の尻軽には目を瞑り、はそんな言い訳を一人ごちてみる。
あの英雄達が自分の為に狂うのを見てしまったら、倫理もモラルもどこ吹く風だ。
と言って、倫理が風で消し飛ぶものでなし、故にはいつまで経ってものままな訳だが。
悶々としながら最後の一口を噛み締めて、ご馳走様と手を合わせる。
陸遜もちょうど食べ終えたようで、少し遅れて手を合わせていた。
「じゃ、ちょっとドライヤー当ててくる」
服が濡れたままでは帰れない。
陸遜の(馬鹿力の)お陰で、時間が経てば乾きそうなところまできていたが、さすがに泊まるつもりにはなれなかった。ドライヤーを当てていれば、程なくして乾くだろう。
「手伝います」
陸遜が立ち上がろうとするのを制す。
「いいよ、ドライヤー一つしかないし」
備え付けのドライヤーは、言った通り一つしかない。
陸遜が手伝おうとしてくれても、却って邪魔になりかねなかった。
けれども、陸遜は引かなかった。
大丈夫ですからと立ち上がり、を先導して洗面台に向かう。
フロントに頼んで、もう一台借りる気だろうか。
だとしても、内線と思しき電話機のあるドア側には向かう素振りもない。
どうするつもりかと内心首を傾げるの前で、陸遜は干しておいた服の一枚を手に取った。
片手を大きく振り上げる。
弧を描く軌跡を、炎が彩った。
「はぁ!?」
思わず叫んだ。
陸遜の手にした服に炎が燃え移っている。
「え、ちょ、ちょ!!」
慌てて消そうと腕を伸ばし、炎に触れて手を引っ込める。
そして気付いた。
「……熱く、ない……?」
陸遜は、服の表面を撫でると、肩を落とした。
「うーん、やっぱり効果はないみたいですね」
そういう問題ではない。
「……陸遜、あの、今の、何……?」
の目には、炎が燃え盛っているように見えた。
ところが、既に鎮火したとはいえ、その衣服には焦げ跡一つ残っていない。
「は、知りませんでしたか? 私の力は、炎の属性なので」
乾かないかと思って、等と言いつつ、また腕を振る。
炎が渦を巻き、衣服を舐めるようにして燃え移った。
「もっとも、煮炊きに使えるものではありませんので……試してみる価値はあるかと思ったのですが」
三度目の炎が上がったところで、陸遜は諦めたらしくドライヤーを手に取った。
騒音に近い音が間近に聞こえる。
熱風が顔に当たって熱いくらいなのだが、今のはそんなことに構っていられなかった。
陸遜が本当に『陸遜』であったことを、とは『違う』のだということを、ここに来てようやく実感した気がしていた。