は、濡れた頭をタオルで拭きながら、ぼんやりと考え事をしていた。
 考えるしか、なかったのだ。

 ラブホから人目を忍ぶようにして『脱出』した後、二人はまっすぐ家路を辿った。
 とにかく自宅が恋しくて、早く帰りたくて仕方がなかったのだ。
 たかが半日程度で、よくこれだけ波乱万丈な目に遭ったと思う。
 疲労困憊のに気を遣ったのか、陸遜も然したる反論もなく着いてきてくれた。
 ひょっとしたら、陸遜も疲れていたのかもしれない。
 自分は、とは異質な存在だと自ら告白したのだ。
 の反応が予想外だったとはいえ、否、予想外に間抜け過ぎたからこそ、陸遜の疲労は計り知れなかったのだろう。
 とはいえ、にはその本当のところを確認する気もない。
 気力がない。
 何とか家まで辿り着いた時、感動で眦に涙すら浮かべたは、にもかかわらず思い付きで庭に向かう。
 特にこれといった理由はなかった。
 何となく、というのが一番しっくりする。
「陸遜」
 着いて来たのは、横目で見ていた。
「どう? まだ、何も変わらない……」
 居るだろう場所に、陸遜は居なかった。
 振り返り、それでも足りず、腰をねじってようやくその姿を認める。
 着いて来たといっても数歩だったのだろう、陸遜の立っている位置は遠い。
「……陸遜?」
 沈黙が満ちる。
 早暮れ掛け落ちた薄闇の下、距離を置いた陸遜の表情は判別が付かなかった。
 は目を細める。
 そうしたところで、陸遜の表情が見えるようになる訳ではない。
 ただ、陸遜から放たれる気配が、どことなくぎこちないような気がした。
「いいえ、何も」
 が戸惑っている間に、陸遜から否定される。
 陸遜がそれ以上動くこともなかった。
「……何も?」
 が問い返す。
「ええ、何も」
 陸遜の声に揺らぎはない。
 なさ過ぎて、却って違和感がある。
 は、改めて庭に向き直った。
 何もない。
 狭くて薄暗い、剥き出しの地面に小石が埋まる、庭と称するのもおこがましいような所だ。
 それでも、ここが彼の世界との世界を繋ぐ場所の筈だった。
 には何も見えない。
 見えるのは、あちらからの来訪者のみなのである。
 今、この場所があちらと繋がっているかどうかは、陸遜にしか分からない。
 この世界に来た当時、が真っ先に確認し、陸遜もそれと知っている話である。
 そして、その陸遜が、何もないと、変わりないと言う。
 何もないと、嘘を吐いている。
 近寄れば引き寄せられ、元の世界に強制送還するだろう『穴』は、恐らくの間近にある。
 だから陸遜は近付いてこないのだ。
 あからさま過ぎて、乾いた笑いが浮かびそうになる。
 本当に笑うところまでいかないのは、陸遜が嘘を吐く理由が分からないからだった。
 を連れて帰るというなら、今が一番の好機の筈である。
 引き寄せられれば最後、相当な力をもってしなければその場に踏み止まることは出来ない。を連れて帰りたいなら、今、を抱えて飛び込めばそれでいい筈だ。
 間抜けたことに、何せはその場に存在するだろう『穴』の傍らにいる。陸遜の力をもってすれば、の抵抗など何するものでもない。
 実際、があちらの世界から帰還しようとした時、馬超一人の力では到底敵わなかった。趙雲が加勢しなければ、あのまま馬超ごと吸い込まれていたことだろう。
 よく腕が抜けなかったな、とずれた感想を抱くも、今はそれどころでないと持ち直す。
「……そっか」
 取り繕った返答に、陸遜が気付かぬ筈もない。
「はい」
 それでも、陸遜はその返答を受け入れた。
 嘘を、貫き通したのだ。
 ひょっとして、家に置きっ放しにしていた剣が惜しかったのかと思ったのだが、帰宅した後陸遜は部屋に籠ったままであるところから、それもどうやら違うようだ。
 あるいは、が油断した頃合いを見計らう気かとも考えたが、それも何だか違う気がする。
 嘘と見抜かれたと分かっていて、どんな策を講じようというのだ。
 陸遜にその気があれば、先程の時点で騙しに掛かっていただろう。
 我がことながら、は自分が騙されやすいのを理解している。
 陸遜ほどの手練れであれば、口八丁を駆使せずとも、いとも容易く騙しおおせることだろう。
 そも、剣の一振りを惜しむ陸遜ではない気がする。
 ならばに価値を見出せなくなったかと言えば、それもまた違う気がする。
 違っていなければ、ラブホでの遣り取りは鉄拳制裁に値しよう(の鉄拳など、乾いた砂の塊に等しかろうが)。
 陸遜が何を考え、どうしようとしているのか分からない。
 そうでなくとも、が考えなくてはいけないことはまだあった。
 春花と書いてさくらと読む、あの子のことだ。
 陸遜の行動に関して、考えても限はないと見切って、対処できることから片付けることにした。
 完については、連絡禁止命令が正確に解除されてないからには、向こうからの連絡を待つのが筋だろう。
 さくらに連絡を取ろうとして、悩んだ挙句、とりあえず『見てくれ』と言われたブログをチェックすることにした。
 正直、逃避と言って良いだろう。
 しかし、その逃避行動が思わぬ事実を露見した。
 レースや花で装飾された可愛らしいブログは、ある意味想定通りのものだったが、そこに記してある内容は、に衝撃と言っていい驚愕を与えた。
 少なくない数の書き込みを三回読み返し、読み返した後に絶句する。
 ブログには、さくらだろう『私』が語る『馬岱』という人物と、その馴れ初め、彼に対する恋慕の情が切々と綴られていた。
 それだけなら、別段珍しいとも言えない。
 なりきりの類としては、本気か遊びかの違いはあれど、ない訳ではないからだ。
 けれども、さくらが語る『馬岱』は紛れもなくが知る『馬岱』だった。
 未だ准武将扱いの『馬岱』故に、彼を創作する者は数多いが、細々と綴られた文面にある馬岱の特長、話し方、受ける印象醸す雰囲気、挙句はその装束の細部に至るまで、何もかもが一致している。
 こんな偶然があっていいものか。
 偶然と言い切る方が無理ではないか。
 だが、当の馬岱からそんな話を聞いたことがない。
 異常と言い切って良い体験をしておいて、黙っていられるものなのか。
 普通であれば、最も事情に詳しいだろうに、一言くらいあっても良さそうなものだ。
 うーんと悩んで、そういえば、と思い出した。
 かつて、馬岱に呼び止められ、彼らしからぬ質問を受けたことがある。
――もし、貴方に愛する人が出来て、その方と離れ離れになって、もう会えないかもしれないと思ったら如何しますか。
 が出した答えは、ろくでもなかったせいか覚えていないが、馬岱が恋の悩みをに打ち明けるというのが珍しくて、それで記憶に残っている。
 ひょっとしたら、と思う。
 あれが、ひょっとしたらさくらのことなのではあるまいか。
 ブログの内容と重ねてみるに、それ以外は考えられないような気がした。
 つまり、の知らないところで馬岱はこの世界に来たことがあり、そこでさくらと出会い恋に落ち、共に帰還する筈が何らかの理由で叶わず、今に至るということだ。
 さくらは、馬岱を忘れるどころか、ますます想いを募らせている。
 会いたい、と、そのものの言葉はなくとも、文章の端々から感じられた。
 手段はある。
 陸遜と共に帰還すれば、あちらの世界に移動することが出来るのだ。
 移動さえ出来れば、馬岱に会うことは決して不可能ではない。
 ただ、陸遜にその気がない。
 その理由が分からない。
 理由があるのかすら、はっきりしていない。
 確認するのは容易いが、確認することで陸遜が意固地になる可能性が少なくない。
 万事に雑なが、その辺りの妙を心得ているとは自分でも思わなかった。
 更に言えば、さくらのブログが本当に創作でないとは言い切れない。
 偶然の一致で済ませられないと言っても、事実は小説より奇なり、と昔の人も言っているではないか。
 それに、本当に行けるとなった時、では行きますと即座に応じるとは限らない。
 行きたいと思うのと、実際行くのとでは、掛かる覚悟に天地の開きがあるからだ。
 そも、行けると教えて、信じてくれるものかどうか。
 だいたい、行けると教えるということは、陸遜があの陸遜だと信じてもらう必要がある。
 どうやって証立てれば信じてもらえるというのだろうか。
 下手をすれば頭の中身を疑われて、引いては完に迷惑が掛かるやもしれない。
 信じてくれたとしても、陸遜には恐らく帰還する気がない。
 否、基本問題、とさくら、二人も連れて帰還できるのだろうか。
 趙雲と跳んだ時でさえ、最終的には振り解かれた。
 世界の住人でないが故に、反発する何かが生じるのやもしれない。
 正確なところは分からない。
 こちらに跳んで来た時も、は気絶してしまった。
 聞いた話によれば、気絶したの傍らには陸遜がいたらしかったから、弾き飛ばされずに済んだのだろう。
 けれども、あれはが崖に落ちるところを助けようとして、つまりしっかり掻き抱いていたからこそ弾かれずに済んだという可能性もある。
 陸遜に確かめなければ本当のところは分かるまいが、陸遜に帰還の気がない以上、素直に話すかどうか。
 第一、それで二人は無理だとなったらどうすればいい。
 さくら一人を連れて行け、と言ったら、陸遜はどう返してくるだろう。
 あっさりはいと応じるか、激怒し断固抗議してくるか。
 どちらもあり得そうで、なさそうで、は首をひねって唸ってみた。
――いやでも、ひょっとしたら、いや待てよ……。
 関係者でありながら、決定権は何もなく、交渉できる立場にあれど、その内容は甚く繊細で手に余るときている。
 結局、考えることしかやることがない。
 行ったり来たりの思考の迷路に、は深入りしていくのだった。

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