翌日、はカラオケルームに来ていた。
偶然なのだが、先日利用した時と同じ部屋だった。
何となく嫌な印象を受けつつ、手持無沙汰にウーロン茶を啜る。
時計を見ると、待ち合わせ時間を二十分は過ぎていた。
場所と時間の指定をしてきたのは、向こうの方だ。
先に入っていろとは言われていたが、それにしても遅過ぎやしないだろうか。
部屋番号を間違えて教えたかと確認しても、メールに記した番号は正しいものだ。
してみると、純粋に遅刻しているということだろう。
何だかなぁと思う。
会いたくて会う相手ではないだけに、マイナスポイントは加算するばかりだ。
と、前触れもなくドアが開く。
「あ、なーんだーせまーい」
そこに顔を出していたのは、さくらだった。
つかつかと進み入ると、腰から飛び降りるように座る。
柔らかいばかりのソファが大きく揺れ、の尻まで浮き上がった。
「もしかして、二人って言っちゃったんですか? 五人とか六人とか、言っておけば良かったのにー」
は首を傾げる。
「えっと……後から、誰か来るの?」
「は? 何でですか?」
さくら曰く、五人だ六人だと言っておけば、その分広い部屋を借り受けられる。実質使うのは二人なのだから、差額を払う必要はないし、そもそも何故そんなことを気にするのか分からない、皆やってる……だそうだ。
眩暈がした。
やはり、とは相容れない気質なのだろう。
だが、そうも言っていられない。
「……あの、ブログのことなんだけど」
「あ、早速見てくれたんですかーありがとうございます」
困惑する。
ブログを見て、訊きたいことがあるとメールしたのは昨夜の話だった。
その返答として、今日会おうと指定された訳で、つまりさくらはがブログを見たことは知っている筈なのだ。
ずれた返答をする子だなぁと、更に腰が引ける。
「どうでした?」
目をきらきらさせながら、両手の指先を合わせて上目遣いに覗き込んでくる。
顔の造作が整っているから、見る人が見ればきっと愛らしく胸をときめかす仕草なのかもしれないが、すっかり引いているにしてみれば、困惑するばかりだ。
「え、えっと、……凄く、リアルで……」
「えー、そうですかー?」
褒められたと取ったのか、さくらは嬉しそうに体を揺らす。
次は、他はと目が訴えている。
「読み易くて、文章は短いのに理解しやすいって言うか……」
「気を付けて書いてるんですよ、分かってもらえて嬉しいです! あ、そうだ! 良ければ、さんの原作もやりましょうか?」
「え」
どうしてそんな話になる。
「え、あ、いや、今は、休止してるので……」
「えぇー、いつ再開するんですかー? ファンの人、絶対待ってると思いますよー?」
まくしたてられ、へどもどする。
「いや、でも、今はホントに、ちょっと手が空かなくて」
体ごと後ろにずり下がるの態に、さくらもようやく前のめりの姿勢を戻した。
唇を軽く尖らせる様は、やはり可愛らしくはあるのだが、大袈裟でわざとらしくも見える。
ある種のおたく特有の所作と言えなくもないが、端から悪印象のには、逆に痛い人特有の所作に見えてしまった。
――馬岱殿、ホントにこの子なんですかね!?
申し訳ないながら、馬岱に対する印象まで悪くなっていく。
個々の好みの問題であるから仕方がないが、坊主憎けりゃの例えもある。選んだ相手により、その人への評価が下がるのは特段変わった話ではない。
可愛らしく膨れていたさくらが、不意に深い溜息を吐いた。
「……でも、仕方ないですよねー。あんな可愛い彼氏が居たら、原稿なんかやってる場合じゃないっていうか」
「え」
ぎくり、とした。
理由は分からない。
ただ、寒気がした。
その理由も不明だ。
「彼氏ですよ、ね?」
念押しするように、一音一音に力がこもっている。
「彼氏、っていうか」
うろたえる。
途端、さくらが食い付いてくる。
「えー、彼氏じゃないんですか、えー!!」
どう答えたものか。
何をどう答えても嫌な方向に食い付かれる気がして、言葉が浮かばない。
「えー、彼氏じゃないんですかぁ……そっかぁ……」
ふっと目が合う。
「可愛いですよね、彼氏」
「…………」
は口籠る。
彼氏ではないと言わせたがっている気がした。
言えば、まずいことになる。
そんな予感がした。
「名前、何て言うんですか?」
「え?」
「彼の」
ああ、と我に返る。
冷や汗を隠しつつ、座り直して背筋を伸ばす。
「陸、です」
「……へぇえ、陸? 陸、ですかあ……へぇー」
いい名前ですねー、と、あからさまに棒読みされた。
むっとする。
顔に出たのだろう、さくらがいかにも焦った風に振る舞う。
「え、私、何かやっちゃいましたか!? え、ごめんなさい! あれっ!?」
苦笑いが漏れる。
というより、苦笑いするしかなかった。
いちいち大袈裟に見えていた動作が、それまで以上に大振りになり、まるで舞台の上の大根役者を見ているような気持ちにさせられる。
当たり前だが、謝意や反省などは微塵も伺えない。
うんざりし掛けただが、転瞬、ぎょっとする。
さくらの目に突然涙が浮いたからだ。
みるみる大きく膨れ上がった涙は、あっという間に決壊し、頬を伝って零れ落ちる。
嗚咽を漏らして泣き出したさくらに、はただただ動揺するばかりだ。
ノックがあり、返事を待たずに店員が入ってきた。
さくらの飲み物を持ってきたらしいが、店員が入ってきたと同時にさくらの嗚咽は号泣に変わる。
店員の持つトレイが斜めに傾ぎ、載せられていたアイスティーも大きく揺れた。
「あ、こちらに、置いときます」
ずいぶんと嵩の減ったグラスを乱雑に置き、店員はそそくさと退去していった。
ドアが閉まると、さくらはすんすんと鼻を鳴らす。
「ごめんなさい、私、良く分からないけど、何かしでかしちゃうみたいで……また私、何かしちゃったんですよね? 気に障ることしちゃって、ごめんなさい……」
もやもやする。
「……あの、『へぇえ』とか、こんな言い方しない方がいいよ……馬鹿にされてる感じ、するから」
「そんな……そんな言い方、したつもりないです……でも、もしかそんな風に聞こえたんなら、ごめんなさい……」
さくらは顔を伏せ、しくしくと泣き始めた。
は、必死に表情を殺す。
あんな言い方をしておいて、『したつもりはない』ときた上に、『そんな風に聞こえたなら』とくる。
突き詰めれば『お前が悪い』と言うことか。
――いかん。
昨日会ったばかりの人に、こうも悪感情を抱くのは、の側にも問題がある気がしてきた。
馬岱を取られたような気がして、嫉妬から無意識に悪く取ろうと構えてしまっているのだろうか。
そんな資格があろう筈もない。
第一、喧嘩をする為に来たのではないのだ。
「あの、こっちも神経質になってたかもしれない……ごめんなさい。それで」
本題に入ろうとした瞬間、さくらがすっくと立ち上がった。
え、と視線を向けると、さくらは目尻を拭いながら、『えへっ』と笑った。
やばい、と思った。
この子は、やばい。
危ない。
――『えへっ』はない、『えへっ』は。
「何か、カラオケって感じでもなくなっちゃいましたね。また今度、誘って下さい」
荷物を持って、さっさと出て行ってしまう。
止める間もないが、追い掛ける気にも到底なれなかった。
ドアが閉まってしばらく、はやるせない焦燥を吐き出す術を見出せず、唇を強く噛む。
誘ってないし、カラオケをやるつもりもない。
はただ、あのブログの真偽を確かめたかったに過ぎないのだ。
遅刻され、謝罪もされず、まくし立てられて泣かれて、帰られた。
ここの代金も、無論もらっていない。
だと言うのに、どうしてが場の雰囲気を乱したかのように振る舞われ、優しく許されなくてはならないのか理解に苦しむ。
ここには居ない馬岱を、逆恨みしてしまいたくさえなる。
「……あああ、もうっ!」
べし、と投げやりにソファを叩いた時、また唐突にドアが開く。
さくらだった。
帰ったのではなかったのか。
予想外の帰還に、の驚愕は計り知れない。
さくらは、涙の跡すら消えた頬に極上の笑みを浮かべ、ぺこりと一礼した。
「陸遜君にも、よろしく伝えて下さい。今度は、一緒に遊びましょうね!」
の目が丸くなる。
さくらの姿が消えた後、ドアが自身の重みで閉じた後も、固まったように動けなくなっていた。