いつまで呆けていたのか、自分では良く分からない。
ともあれ、は不意に我に返った。
そして、全身に嫌な汗を掻く。
――え、今あの子、何つった!?
分かっている。
ただ、認めたくないだけだ。
さくらは、確かに『陸遜君』と言った。
何故知っているのか。
否、ひょっとしたらコスプレ(傍から見れば、だが)からの愛称代わりと取れなくもない。
さくらの侮蔑じみた返答は、ばればれの偽名に対する揶揄かもしれないが、普通、同人をやっている者ならまずペンネームないしコスネームと受け取るものだろう。
または、コスプレ対象の名称を流用していることへの遠回しな非難だったのかもしれないが、あれだけ似合っている(本人なのだから当たり前と言えば当たり前である)のだから多少の痛さは見逃してやれと、甘いかもしれないがは思う。
あるいは、やはりが陸遜を『陸遜』と呼んでいたのを聞きつけての所業かとも思うが、結論を出す所以としてはやや弱かろう。
「……帰るか」
ひとり言を呟き、立ち上がる。
悩んだところで一人では思考の限界がある。
失敗の一言に尽きる会合になった以上、さっさと見切りを付けるのが筋というものだろう。
会計は案の定済まされてないわ、店員の目が気のせいかもしれないが冷ややかだわで、の気分はだだ下がっていった。
帰宅が遅くなったのは、気落ちした足取りによるところが大きい。
夕食の買い出しすらさぼって直帰した訳だから、これで寄り道していたらもっと遅くなっていたことだろう。
買い出しどころか作る気にもなれず、陸遜には悪いが、ありあわせで済ますか出前を取らせてもらおうと思う。
そのぐらいへこんでいた。
そんなが異変に気付いたのは、家の玄関が視界に入った時だった。
いつもなら明かりが漏れている筈の平屋は、しんと静まり返って薄暗い。
電気を着け忘れているのかもしれないとは思いつつ、は不可思議な動悸に胸を押さえた。
鍵は掛かったままだった。
これも常のことであるから、これだけで異常事態とは言えない。
「た、ただいま……?」
恐る恐る帰宅を告げてみるが、しかし応えはない。
後ろ手に扉を閉め、鍵を掛けながらも視線は中の気配に集中する。
眠っているのかもしれない。
あの趙雲でさえ、イベント後には深い眠りに落ちていた。
体力に劣る陸遜であれば、当然それ以上の疲労を覚えたに違いない。
だが、声掛けても返答はなく、意を決して開け放った襖の向こうに、陸遜の姿はなかった。
動悸はいよいよ酷くなり、不安は募るばかりだ。
縋る思いで家中を、それこそ裏庭や軒下まで見て回るが、やはり陸遜はいない。
書置き一つもないことだけが分かって、を落胆させるに留めた。
まるで、自分が迷子になったような気分だった。
いないと分かっていながらうろうろする。
帰ったのだろうか。
ふと、思い付いた。
は、家具や柱に体のあちこちをぶつけながら、陸遜の部屋に飛び込む。
手当たり次第に引っ繰り返すと、膝の辺りに鈍い痛みが走った。
陸遜の双剣が、床に転がっていた。
その片方の柄が膝に激突し、痛みを受けたらしい。
「危な」
下手をしたら刺さるところだったと、はぞっとして、そして笑った。
笑いながら、泣いた。
陸遜は、未だ帰っていない。
自ら帰ると決めたのならば、当然武器も持って行っていくだろう。
だから、陸遜は帰っていない。
「……良かった……」
腹の底から溜息を吐いて、は双剣を抱くように身を丸めて床に伏した。
望んでいた筈の事態に焦り、それが勘違いだったことを喜んでしまう自分に、は酷く戸惑う。
狼狽して抜けていた体の力が、幾分か戻った気がした。
とにかく、陸遜が居ないことに変わりない。
探しに行ってみるか。
「あ、携帯……」
余程動揺していたらしい、最も確実に連絡が取れるだろう手段を失念していた。
鞄から携帯を引っ張り出すと、何故だか画面が黒い。
充電が切れたのだ。
間が悪いなと、慌てて充電器に走る。
繋げてすぐ、陸遜に掛けてみた。
しかし、繋がらない。
「ちょっ……」
どうやら電波の悪いところに居るか、電源が入ってないらしい。
再び焦りの気持ちが加速する。
もし、のように陸遜の携帯も充電が切れていたとしたらどうだ。
充電器ないし充電スポットの存在を、陸遜が把握しているか甚だ心許ない。
の自宅の立地条件は、分かり難さに定評がある。
それ故に家賃が幾らか安くなっているのだが、この状況下では、陸遜発見の最たる障害になっていた。
どうしよう、と、唇を噛み締める。
荒らされた様子もなく、戸締りまでしてあったのだから、陸遜は自らの意志で出掛けて行ったのだろう。
もう一度携帯を鳴らしてみるが、やはり繋がらなかった。
額を甲で拭うと、汗でぬるりと濡れる。
泣きそうだ。
むしろ、泣きたかった。
不安と混乱から白く染まった脳みそを、小突いて活動を促してみる。
何のことはない、ひょいと帰ってくるかもしれない。
――でも、何も言わずに出て行くことなんかなかったのに。
お金は幾らか持たせてあるんだから、何か買いに出ただけかもしれない。
――だったら、何で携帯が繋がんないの。
もう一度、掛ける。
繋がらない。
慌て過ぎだと思ったが、逆にもっと慌てるべきじゃないかとも思う。
なりふり構っている場合か。
「………………」
は、メールの送信画面を開く。
宛先は、完だ。
『今、ちょっと電話していいかな。急ぎなんだけど』
連絡をするなと言われていた。
けれど、それどころではない。
だから。
送信すると同時に、完への罪悪感が沸き上がった。
と、メールの着信音が響く。
即答か。
驚きながらも飛び付いて開けると、完からの返信だった。
『連絡すんなっつった』
素っ気ない、無体な返事だった。
かっときて、乱暴にボタンを押しまくる。
『急ぎなんだって。陸遜がいないの』
すぐさま返信が届く。
『私は知らんよ 連絡もない』
欲しかった返答ではある。
だが、何かが違う。
そうでなく、そうではなくてもう少し、違う返事が欲しかった。
『出掛けてる間に、外に出たみたみたいなんだけど 今日、さくらさんと会って』
そこまで打ち込んで、指が止まる。
全文消去した。
連絡するな、と言われたことは覚えている。
けれど、昨日会ったではないか。
陸遜が倒れて有耶無耶になったが、何事もなければ一緒に食事をしていただろう。
色々なことがあり過ぎて、昨日の内に連絡しなかったことを怒っているのだろうか。
けれども、連絡をするなと言ったのは完の方で、だから、つまり、である。
――私が、勝手だよなぁ……。
タクシー代まで払わせておいて、連絡なしでは不義理にも程がある。せめて、無事に帰ったの一言なり送るべきだった。
色々あり過ぎて、は、あくまでのみの都合だ。
は、己の情けなさに打ちひしがれながらも立ち上がった。
こうなれば、自力で探すよりない。
肩に掛けたままだった鞄を直し、すれ違った時の為のメモを卓上に置く。
充電出来たのはわずかだろうが、それこそコンビニで充電器を買えばいい。
急ぎ靴を履き、玄関の鍵を掛け、路地に向かう。
「」
顔を上げる。
陸遜が居た。
あれ程探し回った陸遜が、嘘偽りなく本人が、そこに居た。
「!?」
陸遜が驚いている。
その顔は、すぐに涙で滲んで見えなくなった。
「どうしたんです、何故泣いてるんですか」
何故も糞もあるか、と怒鳴り散らしてやりたかったが、声にならない。
「もしかして、めーる、読んでませんか?」
メールなんか来ていない。
来ていたら、こんなに探していなかった。
無意識に弄った携帯が、手の中で震える。
メールの通知だった。
まま開けば、陸遜からである。
『――でんわがつながりませんので、めえるします 出かけてきます いえにいてください』
「……今、来た……」
泣いたまま携帯を突き付けるに、事情の分からない陸遜はあからさまに困惑していた。