中に戻ると、陸遜は真っ直ぐ炬燵に向かい、先程と同じようにてしてしと自分の席の隣を示す。
は唯々諾々と従うしかなく、場の支配権は完全に陸遜が掌握していた。
隣合わせに座り、無言で時を費やす。
どうにも居心地が悪い。
ここは自分の家の筈だよなと、そんなことにまで自信が持てなくなってきた。
「殿」
不意に陸遜が口を開く。
「仰る通り、完殿からある程度の話は聞かせていただきました……ここが、殿の世界であること。私達の世界とは違い、からくりの技術が異常なまでに発達した世界であること……ただ、完殿も知らないが為に何もお話しいただけないということも一つ、ありました」
至極真面目な顔付きに、も釣られて姿勢を正す。
「趙雲殿が如何にしてこの地に来て、如何にして過ごされていたか、です」
「……あぁ」
それは確かに、完では答えようがない。
趙雲に関して、ほぼすべてを知るのは以外居なかった。
この世界での趙雲のことを知りたければ、に問うしかない。
「でも……どうして子龍のこと?」
陸遜の目に剣呑な光を感じて、は内心戸惑いながら陸遜に問い返す。
陸遜がに好意を持っていることは、何となく察しが付いた。
からすればつまらない意地を張っているようにしか思えなかったが、当の本人がどう考えるかはの客観とはまったく別次元の話だ。
思い込みだろうがなんだろうが、陸遜がを好きだと思えば好き、嫌いだと思えば嫌いなのだ。
自身が一番多く繰り返した過ち故に、よく分かる。
もっとも、の場合は『好きとか言ってるけど実は違うに違いない』という、実にいじましい根性からなる逆の現象ではある。
あまりにいいことが続き過ぎて、『これは何かの罠に違いない』と思い込んでしまう被害妄想のなれの果て、とも言えた。
それはさておき、陸遜が趙雲を気にするのは、まさかに対して好意を持つが故の対抗心からかと焦る。
付き合い始めの恋人が、前の相手を嫉妬して、あれこれ探り出そうというパターンだ。
勿論、としても陸遜とお付き合いするつもりはない。
あれこれ探られるのは、迷惑とまではいかなくとも、正直困る。
口に出しては到底言えないような、あれとかこれとかもあるのだ。
「……言っておきますが、嫉妬している、と等いうことではありませんよ」
思わず黙ってしまった。
すぐさま言い返すなりすれば誤魔化しようもあったかもしれないが、言葉よりも雄弁な自爆振りに、陸遜は冗談でも責められなくなって苦笑している。
「興味本位で伺っているのではないのです。世界の成り立ちから違うと考えた方が良いと、完殿から伺って、それでお訊ねしています」
世界の成り立ちとは、またずいぶん大袈裟な話になって来た。
陸遜は、にどう話したものか考え込んでいるようだ。
これでは、立場があべこべな気がする。
普通、慌てている陸遜をが必死になだめ、落ち着かせる為に疑問に答えてやるものではないだろうか。
そう言えば、趙雲もやたらと落ち着いていたような気がする。
自分とは人間の器が違うということかと、は無意識に自嘲していた。
「申し訳ありません、私も、未だ混乱しているような有様で」
何を勘違いしたか、陸遜が恥ずかしそうに頬を染める。
そうした様は、正に紅顔の美少年といった態だ。恋愛感情はなくとも、つい見惚れてしまう。
美人は得だというが、真理だろう。
「……完殿の話では、殿は、元々病弱な方ではなかったとか」
そんなことまで話に出たのか。
この分では、いったいどこまで話をされているのか分からない。
今更な話だが、陸遜と完は、どちらか一方が解説するのでなく会話する形で互いの疑問を解いていったようだ。
ということは、完にもあちらでのの話が入ったとみて間違いない。
頭を抱えたくなった。
の乱行は、親ならずとも友人にも聞かれたくない醜聞そのものだ。
穴があったら入りたい心境に駆られて、は思わず涙目になる。
「いえ、あの、言ってませんよ?」
慌てた陸遜が口を挟み、は潤んだ目で陸遜を見詰める。
それだけならばいい雰囲気だと思われるかもしれないが、は涙腺の緩みからか洟を垂らし掛けているような状態で、麗しい光景とは言い難い。
陸遜自身、小さな子供をあやすような作り笑いを浮かべている。
「さすがに……殿の普段の言動から察するに、人に……まして御友人には説明し難い話でしょう。ですから、私はただ、殿は皆に大切にされていた、とだけ、それだけ申し上げました」
話の流れでの置かれた環境に話が及び、何も言わない訳にはいかなかったのだそうだ。
それにしても、が何も言わない内にこれだけ的確にの心情を汲み取り、きちんと補足して説明までできる陸遜は、ただ者ではない。
が素直に感嘆すると、陸遜は照れたように微笑んだ。
「いえ、その……正直、殿は考えていることが顔に出やすいのですよ。ですから……」
陸遜は突然咳払いする。
何やら誤魔化そうとしてのことだろうが、の顔を見てのことなので、何をかいわんや察するところである。
「……話を戻しましょう。殿は、あちらの世界に来て急に病弱になられたと聞きました。ならば、私達の世界には、私達には平気でも殿には……」
言い差し、陸遜は言葉を止めた。
が首を傾げると、陸遜は不安そうにを見遣る。
「……大丈夫、ですよね」
「何が」
が訊き返すことに、陸遜は答えない。
陸遜が言い掛けて辞めた言葉に、何かあるのだろうか。
「……趙雲なら、特に何もなかったけど。寒いとかは言ってたけど、別に病気とかはしてなかったよ」
が向こうで病弱だったのは、単純に防寒具が少ないとか船酔いしやすい体質とかが主な原因だと思われる。
何せ、真冬でも袖なしの服でうろついているような連中なので、最初はが寒いの何だの言うのが理解できていなかった節がある。
そも、布団というものがなく、せいぜい牀の上に厚い布が敷いてあるくらいなのだ。
にとっては固い板の上で寝るのと変わらず、慣れるまではそれなり辛かった。
この手の環境の差が、恐らくの体を病弱たらしめていたのだろう。
「そうではなく」
じれったそうに爪を噛む陸遜の言わんとすることが、にはどうもぴんとこない。
訝しげに眉を顰めるに、陸遜は悩みながらも意を決したように口を開いた。
「戻って下さいますよね?」
どこへだ。
やはりぴんとこない。
陸遜が、矢庭にの腕を掴む。
「戻って、下さいますね? 私達の、世界に」
――ああ。
は、最も重大な二択を綺麗にすこんと忘れていた。
あちらの世界に戻るか、こちらの世界に戻ったままでいるか。
に取って、最重要と言うべき選択である。
あちらの世界で、は一度は戻ろうとした。
それを馬超と趙雲に止められ、帰る道を失い、やむなくあちらの世界の住人として迎えてもらったのだ。
今、こうしてこちらの世界に戻って、には再び二つの世界を選ぶ権利が与えられていた。
ぽかんと呆けているに、今度は陸遜が泣き出しそうになっている。
沈黙が否定以外の何物でもないように思えて、座りの悪い焦燥感に駆られていた。
「……陸遜殿」
「はい!」
勢い込んでの眼前に顔を寄せた陸遜を、はまじまじと見詰める。
いつもであれば、顔を赤らめて奇声の一つも発しように、それさえもない。
陸遜の不安は加速する。
「ありがと」
突然ぽつりと呟かれ、意味の分からなさに陸遜は絶句する。
「……はい?」
無意識に訊き返す陸遜の肩を、はぐいぐい押し戻して距離を持った。
炬燵の天板をてしてし叩く。
陸遜は、おとなしく座り直した。
「助けてもらったのに、御礼言ってなかった。だから」
「……あぁ」
理解はしたが、納得が出来ない。
何故、あの時の礼が『今』なのか。
の放心は続いている。
「寝よう」
これまた唐突に言い出され、陸遜は面喰った。
「……ちょっと、休もう。私も、陸遜殿も、急にこんなことになって、未だ気持ちの整理が付いてない。話、これ以上ややこしくなる前に、一回休もう。朝、起きたら、もう一回、順を追って話そう」
少なくとも、そうでないと自分は駄目だと嘯くに、陸遜は敢えて反論しなかった。
確かに、あまりにも色々、多くのことが一時に起こり過ぎた。
こうしてと話をしていても、話が急に飛んだり噛み合わなかったりしているのがしみじみ分かる。
それはだけの話ではなく、陸遜にも言えることだった。
冷静なようで、どこか酷く興奮している。
危うい、と陸遜自身もよく分かっていた。
「そうさせていただければ、私も有難いです」
「……うん」
陸遜の気遣いにが気付いたかどうか分からないが、は膝の上で固く結んでいた拳を解き立ち上がる。
「あ」
は、不意に自分がベッドに寝かされていたことを思い出した。
当然の如く陸遜にベッドを譲るつもりでいた。
だが、失態を演じて寝かされていた布団に、シーツを交換するのは順当としても陸遜を寝かせることなど出来はしない。
汚した訳ではないし、消臭剤をスプレーしてはあるが、それでも生理的に無理がある。
かといって、隣室に置いた布団はが常用していただけあって、年季相応に少しくたびれている。
やはり陸遜を寝かせるには申し訳ない。
けれども、他に布団はなかった。
「ん、と」
考え込むに、陸遜はあくまで気安い。
「いいですよ、私はどこでも」
何なら玄関でもいいと言われても、そこまで人非人になるつもりはない。
「……じゃあ、布団変えていいかな。陸遜、とりあえずこっちの部屋使って」
「そんな」
わざわざ変えなくてもと陸遜は言ってくれたが、粗相した状態で寝ていた布団を使わせることも、ヤバイ同人誌が置いてある部屋に寝てもらうことも避けたい事項である。
頑なに主張するに根負けしてか、陸遜は布団の入れ替えを手伝ってくれた。
「柔らかい。何で出来ているのですか」
布団を持ち上げた陸遜が、興奮して騒ぐ。
は笑うが、疲れているせいか苦笑いにしかならなかった。
「代えのシーツ、持ってくるから……」
「いいですよ」
布団のセットが終わり、代えのシーツを取りに行こうとしたを陸遜が止める。
「とても、疲れた顔をされています。どうかお休みになって下さい」
自分の顔は見えないが、確かにとても疲れている。
陸遜の好意に甘える形で、とにかく休むことにした。
部屋の灯りを消し、陸遜にお休みと告げると、『伯言と呼んで下さい』と返ってきた。
謝る気力もなく、軽く頷くに留めては部屋を出る。
布団に潜り込むと、もう瞼が重くて開けられなくなった。
鼻の頭まで布団を被り、ふと大きく息を吸う。
――あー。
懐かしくも鮮明な香りが、を包み込んだ。
趙雲の匂いだった。
無性に切なくなって、は布団を引き寄せる。
冷えていた布団はあっという間に温まって、を眠りの淵へと誘った。