「あの、……」
 おずおずと肩を押され、はようやく腕の力を抜いた。
 解放された陸遜は、頬を紅潮させて居心地悪そうに肩をすくめる。
 シャワーの湯で全身濡れ鼠と化しているからかもしれないが、身を縮こめてうずくまっている様は、ちょっとした嗜虐心をそそるに十分だった。
「すみませんでした、では……」
 立ち上がろうとする陸遜の手を引く。
 ぎょっとする陸遜に、は何とはなしに違和感を覚えていた。
「……入っちゃえば?」
「え!?」
 陸遜が妙に動揺する。
 昨日一緒に入ったばかりだろうに、と思うが、指摘はしなかった。
「いや、もう全身濡れちゃったでしょ? 服脱いで、入っちゃえば?」
「あ、いえ、……や、やはり遠慮しておきます」
 泡を食って逃げ出す陸遜を目で追いつつ、引き留めるには至らない。
 追えば逃げるくせに、背を向けると慌ててすぐにすがってくる……と陸遜は言ったが、それは陸遜も同じではないか。
 もっとも、にしてみれば他意はなく、濡れたのだからいっそそのまま風呂に入れと促しただけのつもりだった。
 とは言え、いい年した男女が二人、一緒に風呂に入るのに他意も何もなかろう。
 ちっとばかし麻痺してるなぁと、は軽く自己嫌悪に陥った。

 居間に戻ると、陸遜が立ち尽くしている。
 部屋に戻るなら戻ればいいものを、何を見ているのだろうと思い掛け、はっと気付く。
「ごめ、ごめん、陸遜、それ、私だ!」
 陸遜が居なくなったことに慌てふためき、何かないかと部屋を荒らしたままだったのを今更思い出した。
「てっ、手掛かり、手掛かりをね、探すつもりで! ごめんね、片付けるからね!」
 部屋に飛び込もうとするの肩を、陸遜が掴んで留める。
 力を入れているようには見えないのに、軽々と引き戻された。

「う、ん」
「今日の分、して下さい」
 は、と頓狂な声を上げ掛けて、すぐに理解する。
 口付けのノルマを果たせと言っているのだ。
「今!?」
「今」
 真顔で頷くもので、冗談で言っているのではないらしい。
 刺すような視線に一度は俯くが、意を決して顔を上げる。
 の決意と同時に、陸遜が顔を寄せてきた。
 白い肌の輪郭がぼやける程に近くなり、は目を閉じ、わずかに顎を上げる。
 唇に、薄らと湿った感触と共にほんのりとした熱が伝わる。
 合わせるだけの口付けは、その軽さに反してを陶然とさせていった。
 長い間そうしていたような気もする。
 どちらからともなく離した体の間に、耐え難い冷気が流れ込み、思わず互いに目を合わせた。
「今の……」
 何だったのだろう。
 気が狂いそうな快楽とは真逆の、しかしその性質はまったく同じ、我を忘れる悦に満ちていた。
 陸遜が微笑む。
「今までで、一番満たされました」
 小声で付け足した言葉は、の聞き間違いでなければ『嬉しい』だった。
 何が、と問いたくなるのを、ぐっと堪えた。
 無粋にも程がある。
 その代わりに、顔が熱くなった。
 真っ赤になったを見下ろし、陸遜は告白の言葉を綴る。
「今までずっと、貴女がどこか遠かった。例えどれだけ私の身を案じてくれようと、貴女の方寸には私が占める場所などありはすまいと、そんな風に思っていました。ですが今……これだけ揉めて、話し合って、ようやく、そして今更……そんなことは決してなかったのだと、本当に理解しました」
「いや……」
 ここで否定するのも何ではあるが、実際のところ、他の男の記憶で頭が一杯にしていたのはつい今しがたのことである。
 さすがに、そこまで図々しくはない。
 皆まで言わずとも察したらしい陸遜は、小さく吹き出した。
の方寸が、誰か一人で占められたことなどないことは、私が良く知っていますよ。それに私とて、そこまで厚かましくはありません」
 朗らかに笑う表情は、元からの端正さも手伝って非常に魅力的だった。
 照れてしまって、どうしても陸遜の顔が直視できない。
「……ずっと、は私を受け入れてくれていたのかもしれませんね。受け入れてなかったのは、私の方だったのかもしれません」
 散らばった双剣を拾い上げ、おもむろに立ち上がった陸遜の姿は、ジーンズに長袖シャツという現代日本人のそれでありながら、どうしようもなく一人の将だった。
「……帰ろうか、陸遜」
 意識して紡いだ訳ではない。
 陸遜を見て、極々自然に感じ、思い、投げ掛けていた言葉だった。
「一緒に帰ろうよ」
 陸遜は、刹那の間驚いたようだったが、すぐに照れ臭そうに笑い、静かに頷いた。
 昨日のやり取りは、陸遜にとっても不本意だったのだろう。ばれていないと思う方が馬鹿だと、自嘲したような笑みだった。
「では、ご準備を。私もその間に、身支度を整えましょう」
 さすがに、風呂上がりでそのまま『帰還』する訳にもいかないだろう。
 何か土産を用意したい気もするが、あちらに持っていく羽目になった物のほとんどが、勿体なくて使えていない。
 未練になるから、踏ん切りの付いた今、このままで移動するのが最善だ。
「うん」
 家の中を見渡す。
 慣れ親しんだ風景が、妙に切なく映った。
「分かった」
 自身の声を号令にして、は部屋に向かう。
 後ろ手に襖を閉め、真っ直ぐ奥へと進むと、積み重ねた収納ケースの一つを引っ張り出す。
 中に、現代の服とは程遠い、細やかな刺繍の施された重みのある装束が仕舞われていた。
 失禁して汚してしまったが、綺麗に洗濯した後、丁寧に干して畳んでおいたお陰か、見た目にはその痕跡はない。
 心底ほっとする。
 さすがに、汚れたものを着るのは抵抗があった。
 あちらの世界に戻るのであれば、変に悪目立ちする普段着よりも、こちらの方が良いように思う。
 下着だけは真新しいものに変え、もたつくことなく装束を着込めば、不思議と肌に馴染む。
 裾さばきですら意識することもなく、着慣れた自分を再確認した。
 頭でごちゃごちゃ考えていたが、体の方はとっくの昔に結論を出していたのかもしれない。
 深呼吸を一つして、襖を開ける。
 そこには、既に着替え終えた陸遜の姿があった。
 自分の家に『陸遜』が居る不思議さを、は新鮮な心持ちで受け止める。
 こちらの世界に来た時は、己の不始末で落ち着いて見られることもなく、気が付いたら慣れていた感があった。
 あぁ、これで見納めだという感慨に襲われる。
「……お待たせ」
「いえ」
 短い遣り取りの後、手分けして留守の支度をした。
 雨戸を閉めたり、元栓を閉めたり、鍵の確認をしたり、だ。
 一つ一つ、ゆっくりとしっかりと終えていく。
 儀式めいたそれらが済むと、玄関を潜り、最期の締めとして鍵を掛ける。
 鍵は、悩んだが庭の隅に埋めることにした。
 掘り出されたら終いだが、そこまで勘の鋭い泥棒相手では、他のどこに隠しても無駄だろう。
 持っていっても良かったのだが、次にまた、意図せず戻ることがあったら困る。
 これは、陸遜の助言でもあった。
 が立つと、陸遜の手が伸びてくる。
「汚れてるよ?」
 湿った土で黒く汚れた手を、陸遜は躊躇いなく握った。
「行きましょう」
 微笑む陸遜に、は頷いて応える。
 裏庭に向かう。
 そこに、『帰還』の為の入口が待ち構えている筈だった。
 筈、というのは、には見えないからだが、がかつてそうだったように、陸遜には見えている。
 任せておけばいいのだ。
「………………」
 振り返った先にある、陸遜の表情がおかしい。
 妙に険しく、焦ったように、じわりと汗まで掻いている。
 は、無言の陸遜と裏庭の空間とを、何度となく見比べる。
 けれども、陸遜がの視線に応える様子はなく、口の端を引き攣らせたまま沈黙していた。
 まさか、と思いつつ、問う。
「……ない?」
「いえ、あの……昨日は! 昨日は、あったのですが……!」
 昨日あっても、今日ないのでは意味がない。
 短い時間だったとはいえ、それなり盛り上がっていた気分がだだ下がりに下がりまくる。
 それは陸遜も同じことで、むしろ入口を見ることの出来る陸遜の方が、ある意味キツい辱めを受けていたかもしれない。
「あの、本当に……本当に、昨日、というか、出掛ける前まではあって……!」
 段々可哀想になってきて、思わずぽんと肩を叩く。
「あったんですって!!」
 逆に、陸遜の傷口をえぐったらしい。
 涙目で訴える陸遜はほとんど駄々っ子の様相で、必死に入口の存在を訴え続けていた。

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