水を掻く白鳥の例えがあるが、歌い踊るアイドルもまた、その例えに通じるものがあると思う。
 笑みを絶やさず踊る様から、その辛さキツさは窺い知れない。
 踊ってみれば分かることだ。
 現に、はこうして実感している。
「……大丈夫ですか?」
 大丈夫でない。
 それが証拠に、は返事も出来ない。
 片手を上げて応えるのが精一杯で、上がった息は未だに戻らぬままだ。
 何で踊ってるんだろう、と、は自問自答する。
 陸遜と相談したからとしか言いようがないのだが、何でどうしてこうなったという気持ちが拭えない。
 にしてみれば、相談とは言っても、あくまで陸遜のやりたいことをやるつもりでいたのである。
 パンが焼きたければ焼けばいい、パンケーキが焼きたいならそれも焼こう、家だの人だのが焼きたいというのは聞き入れられない。
 その程度の『相談』のつもりでいた訳である。
 眠れないのを無理やり眠り、何とはなしに目覚めてみれば、気配で察した陸遜が、いそいそ朝食一式を持ち込んできたところから、今日が始まった。
 場所が一流ホテルであれば、ベッドで頂く優雅なモーニングなのだろうが、安物の布団の脇に折り畳みテーブルを持ち込んでとあっては、貧乏臭いだけだ。
 メニューは、絶妙な火加減のスクランブルエッグと付け合わせの野菜、紅茶とフルーツ、そしてメインとなるパンケーキだった。
「焼いて良いということでしたので」
「……あぁ、うん……」
 焼けるのであれば焼けばいいが、やりたいことの一つが終了してしまった。
「お気に召さないということであれば、ぱんも焼いてありますが」
 フライパンで焼いたパンは、思った以上に平べったいらしい。
 平だが策だか知らないが、それではもう一つのやりたいことも終了したと知れる。
「……えーと……」
 では、さて、何をしよう?
 つまり、そういうことだ。
 呆けているを他所に、陸遜ははにかんだ様に笑う。
「とりあえず、食べてしまいませんか? 冷めてしまいますし」
 正論だ。
 しかしは、朝の洗面と、せめてもうがいを要求した。
 だってアタクシ、日本人ですものというの言葉に、陸遜は不思議そうに首を傾げていたものだ。
 話を戻すと、陸遜は陸遜なりに何をしようか、したいか考えてみたらしい。
 そして出た結論が、『帰還に当たって備えられることをしたい』だった。
 では、何故が踊っているかと言えば、備えるべきは己でなく、の方だという結論に至ったから、らしい。
「私は正直、備えるべきものがありませんから」
 きっぱりと言い切る。
「それに、私がその気で備えたら、も困るでしょう?」
 一瞬分からなかったのだが、よくよく考えてみれば陸遜の言う通りだった。
 陸遜が帰還に当たり備えるとしたら、現代の知識を吸収できるだけ吸収することくらいだ。
 対象は、言わずもがな『戦』に関するものだろう。
 現代に至るまでに積み重ねられた戦の知識、例えば火薬なり鉄の錬成、三国時代でも可能な効率的な築城の方法、武器の作成法など、思い付いた限りでも数限りない。
 それを陸遜が知識として得、呉での采配に取り入れられたとしたらどうだ。
 現実問題どこまであの世界に適応出来るか知れないが、陸遜の能力を鑑みれば、蜀にとっては脅威そのものと化す確率が高い。
 あぁ、と、は内心嘆息した。
 陸遜は、を蜀の人間として扱ってくれている。
 現代にあっても、が生まれ育ったのがその現代だと理解しても、陸遜にとってはは『蜀の』に他ならないのだ。
 急に、ずっしりと重いものを感じる。
 何に対しての重みなのか、には今、判断が付かない。
 黙り込んだに対し、陸遜は己が失言を覚ったか、唐突に『舞踊の練習』を勧めてきた。
 理由は単純だ。
 の武器が『歌』であり『舞』であるのだから、鍛錬するに越したことはないという話である。
「歌にしても舞にしても、体が基本と聞いたことがあります。ならば、まず舞の鍛錬をすることで、歌の備えともなりましょう」
 合理的だ。
 陸遜らしい、無駄のない計画だ。
 問題は、陸遜が出来ることとが出来ることには、陸遜の予想を遥かに上回る開きがあるのだということだった。
 出来る人には、出来ない人の気持ちは分からない。
 出来る人が悪いのでも、出来ない人が悪いのでもない。
 ただ、両者の間に出来た溝は埋め難い程に深く、壁は越えられない程に高いのだ。
 見れば出来ちゃう陸遜と、見ても教えられても出来ないとの間にも、溝や壁は存在していた。
 そして、冒頭に繋がる次第だ。
「……しんどいっ……」
 ようやく零せたのは、泣き言だった。
 陸遜の困惑は深い。
「私は、一応、舞の嗜みがありますから……」
 その差だろうかと、さり気なく気を遣われる。
 けれども、それだけでないのはが一番分かっていた。
 舞の心得以前に、まず体力が違う。
「……基礎体力から始めないと駄目とか、間に合わないんじゃないかなぁ」
「ですが、呉にいらした時よりは……」
 言い差した陸遜の表情が、はっと引き締まる。
 その理由に気付かず、は話を続けようとした。
「だって、あの時は……」
 黙る。
 下手に続けたせいで、取り返しが付かない。
 沈黙が重い。
 無意識に下腹を撫でている自分の手に、は苦過ぎる笑みを漏らした。
 この体に、命はおろか男のものすら迎え入れたことはない。
 あくまで『あちらの世界』の話であって、だからこそは帰還の是非を悩んでいたのだ。
 すっかり忘れて、だからこそ気軽に、陸遜に共の帰還を持ち掛けた。
「……忘れっぽいにも、程がある」

 物言いたげな陸遜だったが、結局口を開くことはなかった。
 何を言ってもを傷付けると思ったのかもしれない。
 未熟だからこその優しさだろうが、のささくれた気持ちをなだめるには十分だった。
「虎だけじゃないのにね。私の為に死んじゃった人、いっぱい居るのに」
 趙雲の副官だったひと、錦帆賊の男達、魏の兵と思しき男達……ただの現代人たるの為に、命を落とした人間は一人二人ではない。
 今の今まで忘れていた自分が、空恐ろしい。
「忘れることは、悪いことではありませんよ」
「忘れないって、自分でそう決めたんだよ」
 自分で決めて、忘れていれば世話はない。
 陸遜が、気まずげに俯く。
 そんなつもりはなかった。
 陸遜を責めているのではなく、ただ、改めて決意しなければいけないと思ったまでだ。
「ずっと考えてるのは、無理だけど……でも、絶対時々は、思い出すようにする」
 精一杯と言うにはいささか情けないが、それでもにとっては精一杯だ。
 陸遜の目が瞬かれる。
「帰る前に、お線香買って帰ろうかな」
「……おせんこう?」
 なし崩しに線香の説明になだれ込む。
 陸遜は、のたどたどしい説明に耳を傾けていた。
 帰る、と言ったの言葉に、安堵したようだった。
「面白いですね。見てみたいです……匂いも、確かめてみたい」
 笑みを浮かべた陸遜は、不意にその笑みを引っ込めた。
「私が、帰ろうとしなかった理由を、は訊きませんね」
「……言わなかったからね」
 陸遜が言わないことを、聞き出そうとは思わない。
のそういうところ、私に無関心なのかと思って、ずっと不安でした……でも、違うのですね。それが、の優しさ、なのですね」
 の、と言うよりは、現代人の優しさと言うべきか。
 無関心は、優しさであり、臆病な言い訳でもある。
 良い面も悪い面もあるが、干渉することこそが最善、ということもなかろう。
「私は、この世界は、やはり苦手です……知れば知る程、自分が無力で、恐ろしくなります……ですが、この世界に居れば、を独占することが出来る。知ってましたか?」
――私は、貴女を独占したいが為に、この世界に残りたかったのですよ。
「それでもは、私と帰ってくれますか?」
 この恐怖を、恋する女が味わっていると分かって尚、連れて帰らずには居られない。
 自分は女々しい、と陸遜は言いたかったのだろうか。
 は、逆に受け止めた。
 たかが女一人、しかも自分の為だけに、違う世界に留まろうとしていたなど考えられない。
 気力だの胆力だのが、とは桁違いだからだろう。
 が陸遜に勝るとすれば、能天気さと忘れっぽさを筆頭に挙げるべきだ。
 その二つの能力故に、はあちらに戻ることへの恐怖が薄い。
 陸遜がを連れて帰るのであれば、まぁ仕方ないかと腰を上げるにやぶさかでないのだ。
 更に言えば、である。
 こちらの世界での問題に肩が付いた訳ではない。
 けれども、あちらの世界での問題に肩が付いた訳でもないのだ。
 おかしな『帰還』を果たしたせいで、あちらの世界でどんな騒ぎになっているか知れない。
 悲しみ、怒り、不安や恐怖に苛まれているだろう『彼等』をそのままにすることは、とてもでないが耐え難かった。
 は、彼等を愛している。
 意味合いがどうあれ、その気持ちに嘘はない。
 だから、帰る。
 帰りたいのだ。
 そう気付いたからこそ、陸遜と共に帰ることを望んでいる。
 言葉にするのはもどかしく、は己の想いを朝の『お勤め』に代え、陸遜に伝えた。

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