一言でいえば、飽きた。
陸遜曰くの『舞踊』の修業も捗々しくはない。
だが、捗々しくないからこそ、『飽きた』とは思わないし、思えない。
飽きたのは食生活だ。
「……ちょっと、見通しが甘かったな……!」
汗だくではあるのだが、ポーズを決める余裕が出てきたのは喜ばしいことかもしれない。
ともあれ、わずか十日ばかりで食に飽いてしまうというのは、の計算外だった。
食道楽を名乗るつもりもないし、粗食には修羅場で慣れているつもりだったのだが、今回ばかりは勝手が違ったようだ。
その理由には、心当たりがある。
カップラーメンにしてもコンビニお握りにしても、あれらはプロが食べ飽きないように苦心した努力の結晶と言って良い。
ただ、その結晶には『化学調味料』がふんだんに使用されている。
陸遜の苦手な、アレである。
かなり慣れてきたとはいえ、やはりどうにも受け入れ難い部分はあるらしく、表情には出ていなくても気配でそれと察してしまう。
一緒に食事をとるのに、相手に負担が掛かるという状況は嬉しくない。
そんな次第で、ただでさえ狭い選択肢がぐっと狭められてしまうのだ。
なおかつ、備えて籠城に及んだ訳でもなく、家にある食材はかなり絞られる。
更に言えば、化学調味料を使わず長期保存できる代物は、味にある一定の特徴を持つ。
いわゆる、素朴な味という奴だ。
素朴と言えば聞こえはいいのだが、これが飽きる。
どうしようもなく飽きる。
料理上手であれば、容易に改善できるのやもしれないが、そうでないにはなかなか難しい。野菜が欲しい、肉が欲しいと、ついついないものねだりをしてしまう。
一人であれば、また違っただろうと再び考える。
どうにもならなければ、絶食するのも一つの手だ。
だが、育ち盛り(かどうか、保証の限りではないが)の陸遜に、断食を迫るのは心苦しい。
ついでに言えば、運動している以上炭酸飲みたい、スポーツドリンク飲みたいという欲も出る。
炭酸に関しては、出前にピザを注文すればついでに頼むことはできる。
しかし、高い。
ピザにせよ何にせよ、出前の品はそれなり値が張る。
無職に居候という顔触れの家庭で、お財布に優しいメニューでは決してない。
ならば、如何にするべきか。
――買い出しに行くしか、ないわな……。
外に出ないようにしようと言った手前、自らそれを破るのもどうかと思う。
けれども、それ以外に方法はないように思えた。
スーパーの宅配が使えればよかったのだが、生憎の該当区域外となれば利用のしようもない。
まさかと思うが、立地の複雑なの家を、探しているのを発見される可能性もなくはない。
夜ならば、闇に紛れて目立つこともなかろう。
買う物を厳選しておけば、時間を掛けることも重さに手間取ることもない筈だ。
善は急げと時計を見れば、時刻は夜の十時を回ろうとしている。
何時に出るのが良かろうか。
下手に遅い時間は、却って待ち伏せを食らいやすいかもしれない。
オタクという生き物は、仕事がなければ夜の時間を楽しむ傾向にあるように思う。
一時二時ではまだ心許ない。
ならば、時間は必然的に決まったようなものだった。
「本当に一人で大丈夫ですか」
陸遜は不満げだ。
「言ったでしょ」
夜明け前の四時台に、二人で歩いている方が目立つと思う。
その片方が、人目を引く程の美男子となれば尚更だ。
「さっと行って、帰ってくるって。陸遜は、もう少し寝てれば」
春間近といえ、夜はまだまだ冷える時期である。
完全装備を決め込んだでも、未だ寒気を感じる程だ。
「行ってきます。念の為、鍵は閉めておいてね」
未練がましい陸遜の視線を、は素知らぬ振りでかわす。
一度だけ振り返ると、陸遜は未だ立ち尽くしていた。
苦笑しながら、手を振る。
ようやく戸が閉まったのを確認して、は足を速めた。
買い物を済ませ、は一息を着く。
予定したよりも幾分、いやかなりの量を買い込んでしまった。
ピザ屋で定価以上する缶ジュースが、スーパーだと半額以下になる市場の不可思議に、まんまと嵌められた形である。
その分、またしばらくは凌げるだけの備蓄を手に入れた。
計算して利用すれば、半月くらいは持つかもしれない。
料理好き男子も家に待機していることだし、献立に悩む苦労はしなくて済みそうだ。
背中のデイパックの重みが肩に食い込んでくるのも、今は却って嬉しいくらいだ。
両手にぱんぱんに膨らんだレジ袋を下げ、どこの買い出し部隊かと問われそうな気もする。
怪しさの方向は違い過ぎるので、職務質問はされないと思いたい。
久々に満たされた物欲で、阿呆なことばかり考えている。
あちらに『帰る』時が来たら、好物を幾らかくらいは持って行ってもいいだろうかと、そんなことまで思い浮かんだ。
悩むにしても、帰ってからでも間に合う話だ。
下手に通勤時間の人混みに巻き込まれる前に、さっさと帰るが得策だろう。
スーパーを出て、人気のない暗い道を急ぐ。
陸遜は、きっと起きて待っている。
今日も今日とて特訓だろうから、帰ったら一眠りさせてもらおうかと考える。
仮眠は取ったが、未だ眠気は残っている。
欲しい物が手に入った充足感がの気を緩め、寒さが温い寝床へと急き立てていた。
早く帰ろう、と、小走りしようとしたその時だ。
「ちょ、おい、あんた」
男の声に、足を止める。
振り返った先に居たのは、不良の類とは程遠い、至っておとなしげな風貌の男性だった。
黒のダウンジャケットにジーンズ、スニーカーに斜め掛けの鞄といった、コミケでよく見るタイプだ。
本当に自分を呼んだのかと一瞬疑うが、以外に通る者もない。
何か、と言い掛けたは、急ぎ足に近付いてくる男の顔を、そこで初めてちゃんと見た。
分厚い眼鏡の下の目が、ぎらっと光った気がする。
嫌な予感がした。
これは、よく分からないが、よくない人間だ。
後退りすると、男の眉尻が吊り上がる。
「な、動くな……!」
息が荒い。
男も、も、共に息が荒くなっていた。
片方は興奮から、片方は恐怖からの、種類の違う緊張のせいだ。
誰が見てもまずい状況だろう、当のでもそう思う。
なのに、足が動かない。
男が誰か知らない、見たこともない、だが、何をしようとしているのかは分かる。
に害をなそうとしている。
かつて、何人かの刺客がの前に現れた。
その時程の殺気は感じられない。
けれども、そんな事実は何の救いにもならない。
得体の知れない暗い感情は、何をしでかすか分からないという恐怖をもたらす。
逃げ出そうと踵を返した途端、強力な力で後ろに引っ張り戻される。
食料分で膨らんだデイパックの厚みが災いした。
「待てって、言ってんだろ!?」
浮付いた声が震えていて、は口がきけなくなった。
バランスを崩した体勢で振り回され、尻餅を着く。
振り返られない。
背後で、男が何かを取り出した気配がする。
ぞっとした。
「ちょっと……何してんですか?」
間の抜けた声が掛かった。
どこからか、似たような格好の男性達が現れていた。
四~五人だろうか、ダウンジャケットにリュックといった、こちらも見慣れた格好をしている。
と、背中から加わっていた力が抜けた。
デイパック越しに軽い痛みが走り、男が逃げていくのが肩越しに見えた。
逃げるのにぶつかったか、去り際に蹴りでも入れられたのだろう。
「あの、大丈夫です?」
男性達の内の一人が、の顔を覗き込んでくる。
「……あ、だ、大丈夫、です」
震える足に力を籠め、無理やり立ち上がる。
「あの、あ、有難う、ございました」
頭を下げると、男性達は一斉に口を開く。
「何、今の」
「災難だったね~」
「どうしたの?」
「何だあいつ」
一斉過ぎて、答えられない。
そんなに、男性達はやはり一斉に吹き出した。
「……大丈夫ですか?」
「あ、はい……」
もう一度頭を下げて礼を言い、場を辞す。
それで終わるつもりだった。
「送りますよ」
「え? あ、いえ……」
結構です、と言おうとして、肩を掴まれる。
「いいから。行けよ」
笑顔は変わらず、声音にのみ、侮蔑の色が滲んでいた。
何だ、とは男達を見回す。
を取り囲むように立つ男達の向こうで、一人、誰かに電話を掛けているのが見えた。
「……あ、さくらタン? 俺……」
血の気が引いた。