混乱どころでない、混沌としか言いようのない夜が明けた。
あわば警察沙汰という事態を辛くも避けたは、陸遜と共に帰宅し、風呂に入ったところだった。
警官が、『金を盗った』と言われても躊躇していた理由は判明した。
両手に下げた袋に背中のデイパックまで食糧でぱんぱんにした女が、割れた卵塗れになって路地に閉じ込められていたのだ。
食料泥棒であればまだしも、学費泥棒と言われたら困惑もするだろう。
自身、卵が割れていたことにもその卵塗れになっていることにも気が付いていなかったから、かなり切羽詰っていたらしい。
詳しいことは分からないが、さくらの父親の話を聞きかじった限りでは、さくらは『少し問題がある』娘だそうだ。
興奮するさくらを父親がなだめ、しかし警官の制止も聞かず帰してしまったせいで、今度は父親と警官が揉め出した。
取り残された男達が逃げようとしたことで、さくらを追おうとした警官も追跡を断念し、取り残されていたと陸遜は、年かさの警官に簡単な事情聴取を受けただけで解放された。
連絡先も、一応ということで教えてはあるが、多分大丈夫だろうという意味不明な一言を添えられている。
実際、朝を迎えても連絡はなかった。
口頭でなく、携帯の番号表示で連絡先を示したのも、心証を良くしたのだろうか。
よくよく考えれば、卵を割られた被害を受けているのだが、それは先に逃げ出した連れのない男が仕出かしたことだろうし、はともかく警官が何も言わなかったので忘れていた。
今更蒸し返しても仕方なし、被害者の立ち位置が守られるのならそれが最善にも思える。
炬燵に入り、ぼんやりしていると、目の前に温かい茶が差し出された。
「ありがと」
受け取ると、陸遜は微笑しての隣に腰を下ろした。
二人で黙って茶を啜る。
茶の熱さが身に染みて、無性にほっとした。
「……何か、食べますか?」
陸遜の問いに、はしばし悩み、首を振った。
今はもう少し、このままで居たい。
「そう言えばさあ」
ふと疑問に思うことがある。
「空からって、アレ、ホント?」
如何な無双武将とはいえ、空を飛んでいるのは見たことがない。
建物を飛び越える程の跳躍力があるとも聞いたことがない。
であれば、陸遜はどうしてあの場に『降ってくる』ことが出来たのか。
「上に居ましたよ」
「いや、居たって言ったってさ」
「ですから、上に居ました」
沈黙が落ちる。
「……着いて来てた?」
「まあ」
「ひょっとして、先回りしたとか?」
「まあ」
「……上に、よじ登ってたの?」
答えはない。
ということは、そういうことなのだろう。
「………………」
想像してしまった。
ビルの谷間に、両手足を広げて身を支え、何も知らぬままに閉じ込められているを、陸遜が見下ろしている。
――それって何つー蜘蛛男……。
カッコイイと言えなくもないが、僅差でどうもカッコ良くない。
言うと傷付きそうだから、黙っていることにした。
「まあ、何かよく分かんないけど、無事納まって良かったよ」
「納まってはいませんよ。次回、もしまた外に出ることになったら、私も着いていきますからね」
顔に出た。
「嫌そうな顔をしないで下さい」
「……いや、だって、また警察沙汰とかなったらさぁ」
戸籍がないのを忘れていないだろうか。
「堂々としていればいいんです。案外、分からないものですよ」
また顔に出た。
「何ですか」
「……いや、何か、実感籠ってるなぁ、と」
やったことがあるのか。
暗に訊ねると、陸遜は微笑みを浮かべ、さり気なく湯呑の底へと視線を逸らす。
あるのは分かったので、追求しないでおくことにした。
藪蛇になりそうだ。
「……何も分かりませんね」
「そうだね……」
状況が分からないのは変わらないまま、振り回される。
今回はこれで済んだからいいようなものの、再度の災難が振り掛かっては敵わない。
体は元より、神経がもちそうになかった。
さくらがどこかで捕獲されていれば別だが、逃げてしまっている。
「着けられて、は、いないよね……?」
「それはありません」
陸遜が断言するなら、そうなのだろう。
とりあえず安心した。
「陸遜、そういえば、陸って名乗ってたね」
「ええ、一応、この国の人間らしい名前にしておいた方が、良いのでしょう?」
あの騒動の最中、陸遜の冷静さに感心する。
さくらが『陸遜』と連呼していた気もするが、あくまで『陸遜のコスプレ』と勘違いしているようだから、その点がはっきりしたのは良かった。
ふっと視界が揺れた。
疲れが臨界点を越え、いきなり溢れて来たらしい。
「……陸遜、少し、寝てもいい?」
いつもなら、そろそろ起き出して準備運動を始めているくらいの時間だ。
「駄目です……と言いたいところですが、さすがに今日は無理でしょう。休んで下さい」
無事、許可をいただいたところで、の瞼は自然に閉じた。
「、ここで寝るといけないのでしょう? ……」
揺り動かされるが、起きたくない。
陸遜の腕が背中に回る。
これはひょっとして、噂に名高いアレが来るのだろうか。
気恥ずかしさと眠気が、天秤に掛けられ争い出す。
陸遜が見た目によらず剛力なのは、今に始まったことではない。
一人くらいは何の苦も無く抱き上げられようが、絵に描いたようなお姫様抱っこという攻撃なんぞを、食らってしまっていいものかどうか。
葛藤している間に、は炬燵から引き出され、膝裏に手が掛かったのを肌で感じる。
こうなれば、もう逆らうこと自体が面倒だ。
――運んでもらおう、そうしよう。
夢心地で身を委ねようと思った。
けれど、飛び起きた。
炬燵の天板の上で、携帯が騒々しく跳ね上がる。
音と振動のダブル効果は凄まじく、正に寝た大人をも起こす衝撃を食らった。
さては警察か、と身構えるも、表示されているのは見知らぬ番号である。
間違い電話だろうか。
取らずに、留守録に切り替わるのを待つ。
アナウンスが流れ、甲高い音と共に留守録に切り替わった。
『……もし』
完の声だった。
驚いて、慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし!」
駆け込むように話し掛けると、携帯の向こうで息を呑む音がした。
『……っくりした。どした。何かあったか』
変わらぬ声音に、の頬が濡れる。
「あったよ! あったよ! 怖かったよ!!」
そのまま、ぼろぼろ泣いてしまった。
完は、黙ったまま耳を傾けているようだ。
が泣き止むのを待っているのだろう。
ふと傍らを見ると、複雑な表情の陸遜が、正座をして畏まっている。
は、手のひらを大きく振って、違うと訴えた。
陸遜の前だから泣かなかったのではない、泣くタイミングを逸してしまっていただけだ。
肩口を掴み寄せ、深く顔を埋める。
「ぅあ」
陸遜の頓狂な声が、携帯越しに完にも聞こえたようだ。
『……どしたよ』
問うて来られても、は返事をすることが出来ない。
よしんば泣いていなかったとして、陸遜に洟を擦り付けてしまったのだなどと、正直に言えたものではなかった。