頭ががくんと落ちて、は落下の恐怖に胆が縮んだ。
 体温が移った暖かな布団の中で、は冷や汗に塗れる。
「起きろ」
 声に釣られて見上げれば、完が枕を手に正座している。落下は、完が枕を抜き取ったことによる錯覚だったらしい。
 呆然とするを寝ぼけていると取ったのか、完は、今度は掛け布団を剥ぎに掛かってきた。
「起きてる、起きてるから!」
 完の手が引っ込み、はノロノロと布団の上に座り直す。
 寝汗を掻いたせいか、沁み込む冷気が半端ない。ぶるっと大きく震えて掛け布団に包まろうとするのを、先に完に止められてしまった。
「起きたんだから、戻るな。シーツ洗うから、着替えろ」
 そのままシーツを剥ごうとする手に、はぎょっとしてしがみつく。
「ちょっ、待っ……」
「何を」
 何と言われると、返事に困る。
 このシーツには趙雲の匂いが染み付いているから……等と言おうものなら、自身で『変態です』と名乗りを上げていると取られかねないような気がする。
 さすがにそこまで恥を棄てては居らず、は困惑のままそろそろと完の手を離した。
 完は、が諦めたと見るや呑み込み早く、テキパキとシーツを剥ぎに掛かる。
 敷き・掛け布団、枕のカバーまですべて外すと、大雑把に丸めて抱え立ち上がり、振り返りもせずに出て行ってしまった。
 恨みがましく目で追うが、器用に後ろ足で閉められた襖に遮られて、シーツは見えなくなった。

 冷え切った洋服に袖を通す。
 肌が泡立つが、こたつで着替えを温める戦法は、陸遜の前ではさすがに取れない。
 動き回ることを考慮して、ジーンズとセーターというラフな格好を選ぶ。
 こんな恰好をするのは久し振りで、一瞬着方を忘れてしまう程だった。
「あれ」
 幾らか痩せたつもりでいたが、ジーンズのファスナーがややきつい。
 洗った後のジーンズは幾らかきつめなのが定例のこととはいえ、サイズは向こうに行く前とまったく変わっていなかったらしい。
 喜んでいいのか悲しんでいいのか分からない。
 向こうでの装束は、帯で調整するものばかりだったから、それで余計に分からなかったのだろう。
 何となく納得できないものを感じながら、とっとと着替えを済ませて部屋を出る。
 炬燵の前に座っていた陸遜が、はっとしたように顔を強張らせ、向きをこちらに変えた。
「おはようございます、陸遜殿」
 言ってから、しまった、突っ込まれると思い出すも、陸遜は深く頭を下げた後は俯くばかりだ。
 何かあったんだろうかと思うも、に心当たりはない。
 が寝ている間に完が入って来たということは、恐らく陸遜が鍵を開けたのだろうから、そのことを面目ないとでも思っているのかもしれない。
 普通、来客があればそこの家の者を通すのが筋だろう。
 とは言え、相手が完で、しかも今回の件では既に関係者と言っていい立場にあるのだから、陸遜が勝手なことをしたとは思わない。声を掛けてもが起きなかったという可能性も高く、迷った挙句に通してしまったと言っても、責められる類のことではなかったろう。
 完が戻ってきた。
「ごめんな、寝てる時に来ちゃって」
「うぅん。それより今日、大丈夫だったん?」
 今日といったのはだったが、半ば冗談、半ば願望に過ぎなかったので、まさか本当に来てくれるとは思わなかった。
 しかも、こんな朝早くである。
 時計を見ると、八時を少し回ったばかりで、下手をすると未だ通勤前で家で寛いでいるような人もいるかもしれないような時間だ。
「メール、見んかった?」
「あー……、ごめ」
 昨夜は陸遜と話し込んだ後、混乱したまま眠ってしまったのだった。
 睡眠に逃げることしか考えて居らず、パソコンを点けようとも思わなかった。
「いや、いいよ。昨日の今日でそんな余裕もなかったろうし。見てないかなとは思ったんだけど、どうせ来るなら早い時間のがいいかと思っちゃったしな」
 やはりこういう時は、携帯がないと不便だ。
 携帯ショップはまだしも、銀行に手続きしに行くことを考えれば早い時間の方がいいに決まっているから、完の気遣いを有難く受けて、今日回れるところを出来る限り回っておくことにした。
「したら、ネットで紛失届とか手続きだけしとく。上手くいったら、今日中に再発行手続きまでやってもらえるかもしれんー」
「ん、じゃあ、お湯沸かしていいか? コンビニで適当に買って来たから、朝ごはん食おう」
 本当に気が利いている。
「陸遜殿、じゃあ申し訳ないけど、ちょっと待っててもらえます?」
「……伯言です」
 言い返して来た。
 少し落ち着いたのかなと笑い掛けると、陸遜もぎこちないながら笑みを浮かべる。
 人見知りの子供が、出会い頭の挨拶に微笑む様に似ていた。
「それさ」
 ほのぼのとし掛けた時に、完が割って入る。
「何とかしなくちゃ駄目かもなぁ」
「何とかって?」
 鸚鵡返しに訊き返してしまう。
 陸遜も、不思議そうに完を見上げた。
「……んー。ほら、昨日、陸遜には話したっしょ」
 完に話を振られた陸遜はしばし考え込み、あ、と小さく声を上げた。
 会話に置いてけぼりなは、ただ二人を見比べるのみだ。
 完が苦笑する。
「いや、陸遜の名前、字って思想はここにはないし、どっちにしろここの名前ではないじゃん。で、私が関わった以上、どこかしらで陸遜の名前が出てくることになると思うんだよね。そういう時、『陸遜』で通して大丈夫なのかってこと」
 意味が分からない。
 が思わずぽかんとすると、完は考え過ぎかもしれないがと前置きした上で更に言葉を重ねた。
「だから、例えばどこか、外に出なくちゃいけないとするじゃん。そういう時、陸遜って名前に反応する奴が出てくるかもしれないってことだよ」
 例えばイベント会場で、なり完なりのサークルスペースで、直接であろうと間接であろうと『陸遜』の名前をうっかり出すことによって、思わぬ災厄を招く可能性があると言うことである。
 ただの萌え話あるいは最悪電波として受け取ってくれればいいが、よもやの可能性で突撃されれば、陸遜の立場が危うくなりかねない。
「考え過ぎかもしれんけどね。ただ、趙雲みたいに騒がれるとまずかろ」
「……騒がれる」
 今一つ要領を得ない。
 鈍い反応を繰り返すに、完は何か察したらしかった。
、お前、パソ全然触っとらんかった? 昨日だけじゃなくて」
「うん?」
 後漢の時代にパソコンがある訳もない。
 首を傾げながら頷くに、完は苛付いたのか爪を噛んだ。
「じゃなくて……ほら、一昨日、イベントで会ったやん。趙雲連れてて。あの日以降、パソ立ち上げたことあったか?」
 一昨日、に、なるのか。
 はずれたところでずれた感想を抱いていた。
 もうずいぶん遠くの日のことのような、それでいてつい先程のことのような、曖昧な感覚に揺れる。
「あー……お前にとっては、いつになるんだ? まぁ、いいや。点けた? 点けない?」
「点けて、ない」
 イベントの帰り道、趙雲に焼き餅焼いて、帰り道で電車乗り過ごして、バカップルの真似事して、帰るの帰らないので揉めて……とても、パソコンに構っていられる余裕などなかった。
「そうか……じゃあ、メール見てないのは、逆に不幸中の幸いか……」
 小難しい顔で悩んでいた完は、しかしすぐに立ち直って、決意したようにを見る。
「お前、今、専スレ立って炎上してる」
「……は?」
 何の話だか、さっぱり分からない。
 完は、面倒そうに眉間を指角でごりごり掻き始める。
 手を止めると、指はそのままその影からを、次いで陸遜をちらりと見遣る。
「後で説明するから」
 言われ、陸遜はおとなしく頷く。
 の時とはずいぶん態度が違う。心服しているかのような従順ぶりだ。
 出会ってからの時間の差を考えて、何となく悔しくなるが、昨夜のぐだぐだっ振りを思い返せば仕方ないことかもしれない。
 少なくとも、完はのように説明下手ではなかったろう。
「たぶん、お前が連れてた趙雲があんまり『良過ぎ』たんだな。妬み嫉みって奴だよ。それにしても、ちっとばかり異常だけどな。ざっと見た感じ、お前は完全に巻き添え。変に粘着してんのと、私怨乙で済まそうとしてんのと、いつまでも話題がループして終わらんのでキレてる奴と。趙雲に至っては、一時期目張りナシで写真出ちゃって、別の意味で未だ炎上真っ最中。……待てよ。そういや、お前、サイトにメルフォ付けてたよな」
「え、あ……付いてるけど……」
「それ、私が先に見たら、まずい?」
 は口籠もってしまった。
 完になら、別に見られてもいいとは思う。ただ、サイトの管理人として、自分に宛てられたメールを、例え相手が完だとはいえ晒していいものだろうか。
 そも、サイトにメールが来てるかどうかも分からんのに……と悩み始めると、『それならまずメールボックスを見てみよう』との譲渡案が出され、はそれに従うことにした。
 パソコンを立ち上げ、OSが起動するのを待つ。
 受信箱に新着メールが送られてくるのを見て、は自分の顔が引き攣るのを感じていた。
 普段であれば、せいぜい十通届くかどうかだ。放置していたと言っても数日の話で、早々酷いことにはならない筈だった。
 それが、新着メールの数が二百を越しても未だ止まらない。
 異常事態と言って良かった。
 完は、の手からマウスを奪うと、メーラーの画面を最小化して、増え続ける着信メールの数字を画面から消す。
「……銀行のサイト、検索して出しとくから、お湯沸かして来いや」
 逆らう気にもなれず、は青ざめつつも頷き、完にパソコンを譲った。
 台所に向かおうとすると、進路上に陸遜が立ち塞がる。
 何の気なしに避けようとすると、突然締め付けられた、もとい抱き締められた。
 ぎゅうっという音が聞こえたような気さえする力強さに、は一瞬眩暈を起こし掛ける。
 陸遜を押し退ける形で離れたが、の非力では陸遜を引き剥がせる訳がない。実際、離れたのは陸遜からだった。
 とても不安そうな、泣きそうな顔をする陸遜に、傷付けてしまったかと妙に焦る。
「ご、ごめん、いや、びっくりしたもんだから」
 舌が攣れてたどたどしくなる口調に、陸遜は大きく被りを振る。
「私怨など持たれては、殿の気持ちが暗くなるのも当然です。非力ながら、私は殿の味方です! お役に立てることがあれば、どうか何でもお申し付け下さい!」
 凛然と胸を張る陸遜に、はぱかっと顎を落とした。
 どうやら、完の言葉の中から己が分かるところをのみ拾い上げ、顔色を変えたの様子に正義感を発揮しての発言らしい。
 根本的には間違ってないが、が驚いたのは突然の抱擁の方であって、私怨云々に対してのことではない。
 それは、確かに驚いたのは驚いたけれども……と頭を抱えたくなる。
「……えっと……有難う、ございます……」
 複雑な心境ながら、とりあえずで礼を述べると、陸遜は実に晴れがましい笑顔で元気良く『はい!』と答えた。
 まるで、呂蒙に褒められた時並のいい笑顔である。
 訂正するのも気が引けるような笑みに負けて、は、力なく笑って台所に向かう。
 初めて体験する炎上騒ぎに、鬱々とし始めた気分が吹っ飛んだのは事実なので、の心境は更に複雑を極めた。

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