を目覚めさせたのは、味噌汁の匂いだった。
 ここ何日か食べていなかったせいか、妙に懐かしい。
 瞼をこじ開けて起き上がると、体の重さにくじけそうになる。
 炬燵で居眠ってしまったらしいが、体を起こすと、掛かっていたと思しき布団がずり落ちた。
「起きたかー」
 盆を手に、完が居間に入ってきた。
「台所借りたわ」
 いつの間にか片付けられた天板の上に、ハムエッグやサラダ、漬物、味噌汁とご飯が並べられていく。
「いいけど……」
 勝手に漁るのは嫌だと言っていた完の声が蘇る。
 しかし、見透かされたかのように先手を打たれた。
「ちな、食材出したのは陸だから」
 それでは何も言えない。
「……完、大丈夫なん?」
 軽い頭痛のせいもあって、鯨飲した形跡もない完に恨めしい眼を向けてしまう。
「まあ、特には」
 あっさりとしたものだ。
 陸遜が茶を淹れた湯呑を手に戻り、なし崩しに食事が始まる。
「無理しないでいいけど、食べるだけ食べときな」
「うん……」
 会話のない食事が始まる。
 味噌汁を啜りながら、は、昨夜の完の話を思い返していた。
 完の母親が完を粗雑に扱っていたのは、完が離婚した父親似というだけでなく、さくらへ媚を売る為でもあったらしい。
 さくらの父親と完の母親は、かなり前から男女の関係にあり、それも完の母親が一方的に思いを寄せた結果のようだ。
 そも、完の母親は自身の妹に強烈なコンプレックスを持っていたらしく、完への罵声はかつて自分が周りの大人達に掛けられていた言葉そのままなのだそうだ。
 二人のことをよく思わない親戚が、酒に任せて完に愚痴ったのが本当であれば、だったが、完はたぶん本当だと思っている。
 昔から、完が出掛けることには一度も反対することがなかった。
 完を外に出ている間、意中の相手に電話でもしていたのだろうと言う。
 それが証拠に、一度、甘ったれた声で電話を掛けている母親を見たことがあったそうだ。
 さくらの成長について報告している態で、今度はいつ帰ってくるだの何が食べたいかなど、腰をくねらせながら延々と話している母親の姿は、今でも鮮明に思い出せる程に気持ち悪いものだった。
 だから、完の母親はさくらを一切止めることもなく、むしろ逆らう完を叱り付けたのだ。
 実の親子とも思えない、歪な関係だとは思う。
 そんな関係なら、捨ててしまった方がいいのではないか。
 他人だからとも言える無責任な考えは、けれど決して否定出来るものではない。
 食事を済ませ、改めて茶を淹れる。
 何とはなしに、三人で炬燵を囲む形になった。
「……あの、さ……」
 が恐る恐る口を開くと、完は首を振った。
「行かない」
 何も言っていないのに、見透かされている。
 捨ててしまった方がいいなら、完全に断ち切る方法がある。
 あちらの世界に行けばいい。
 その方法があるのに、使わない手はない。
 完の能力なら、然して苦労もせず生きていけそうな気がする。
 陸遜は、黙っていた。
 ただ、その気持ちがの側に寄っているのは、表情からも窺える。
「……私が携帯二台持ったって話、したじゃん?」
 そう言えば、そんなことも言っていた。
「あれって、要するに生存確認なんだよね」
 が首を傾げると、完は苦笑いし、鞄の中から携帯を取り出した。
 古めかしいデザインのそれを、何やら弄り出す。
 と、いきなり携帯が震え出した。
 しかし完は出ない。
 コール音が留守録に切り替わった途端、金切り声の罵詈雑言が響き渡った。
 血の気が引く。
 完は、けれどいきなりげらげらと笑い出した。
「これだもの」
 耳に当てずとも聞こえるような音量の呪詛に、完が動揺した様子はない。
 こうなると、察していたかのようだった。
 留守録が切れると同時に、完は携帯の電源を落とした。
「もう少し落ち着いたら、たまに出るようにするつもり。したら、警察も早々相手にしないだろうし」
 何と言っていいか分からない。
「それにしても」
 口を挟んだのは、陸遜だった。
「私達の方には、何もありませんね」
 さくらには、携帯番号もメルアドも知られている。
 完が行方不明になっているとしたら、探りくらいはありそうなものだが、掛かってくる気配はない。
「言ったろ、外聞気にする家系なんだって」
 身内が行方不明になどなって、腹の内を探られるのが嫌なのだろう。
「さくらにしたって、さすがに足がつくような真似したくないだろうしね」
「足?」
「お前達の携帯晒すなり、メルアド晒すなり怪しいサイトに登録するなり、そのつもりなら嫌がらせはし放題ってこと」
 慌てて携帯を探すに、完は笑う。
「だから、そういう真似したらさすがに犯罪認定されるだろって。そういう危ない橋渡る奴じゃないし、騙くらかされて相手連行してくれる仲良しは居ても、渡らせられる程の濃い信者はいないよ」
 そんなものだろうか。
「でもさ、結構無理やり連れてかれたけど」
 知らぬ相手に強制連行など、それはそれで犯罪に抵触しそうなものだ。
「集団で、しかも可愛い可愛いネトゲの姫ちゃんからお願いなんかされちゃったら、どうにも断れないんじゃね。リアルクエストキター、とか考えてそうだし」
 ずいぶん棘がある。
「だって、元は私のキャラだもん、あいつが使ってるの」
「……成程」
 それでは仕方ない。
 ネットのみとはいえ付き合いがあり、それを丸ごと横取りされたとしたら、横取りした当人は元よりあっさり横取りされることを甘受した連中を蔑むのは、流れとしては当然の帰結だろう。
「ほぼソロプレイでやってたけど、運も良くてさ、そこそこ強くてレアアイテムも持ってて……あいつが欲しがらない訳ないじゃん」
 ふと気付いた。
「パソコンは? 完のパソコン、悪用されない?」
 悪意のある家族がいて、持ち主が居ないとなれば、やりたい放題されてもおかしくない。
「言ったろ、置いておきたくないものは始末したって」
 カバーを外し、砂糖ミルク入りの缶コーヒーを丹念に降り掛けたパソコンを起動させられるものならしてみろと完は笑う。
「修理に出されたら、ひょっとしたらってこともあるかもな。でも、カバー外してパソの中身にコーヒー呑ませた理由なんか、説明できないだろ」
 準備がすべて整ったその日に、まさかさくらが警察沙汰を起こすとは思わなかった。
 上手くいき過ぎて怖いくらいだが、これも今までのマイナス分が一気にプラスになったと考えれば、後ろめたさも感じない。
 完は、手を合わせて何かを拝みながら、そう締めくくった。
「……私、引っ越すんだ。今日、この後すぐ発つ」
 唐突な別れの挨拶だった。
 そう来てもおかしくはない。
 だが、改めて切り出されると、腹の下がずんと冷たく重くなる。
「……そっか……」
「うん」
 手持無沙汰に茶を啜る。
 早くも温くなり掛けていた。
「お前達も、もうそろあっち行くだろ」
「あ、うん……」
 完は、鞄からカード状のものを取り出した。
「それ、何?」
「いわゆる、ポータブルオーディオプレイヤーという奴だな」
 合わせて、分厚いファイルが差し出される。
「荷物になるかもだけど。餞別」
「……は?」
 完の顔と手元を見比べ続け、は不意に我に返った。
「いや、え、貰えない貰えない」
 剥き出しにされてはいるが、見るからに新しい。
 わざわざ買ってきたものだと即座に分かる。
 差し出されるのを押し返すと、逆に押し出される。
「じゃ、慰謝料兼で。とにかく、お前が使わないなら、その辺に捨ててくことになるから」
 完がやると言ったら、本当にやりそうだ。
「容量ぎりぎりまで、目一杯入れてあるから。曲目増やすのに使えるで。最新型の、ソーラーも付いてる奴だから、日向に出しとけば勝手に充電するし」
 ファイルは、入れてある歌の歌詞らしいが、その分厚さは呆気に取られる程だった。
 手間も時間も、勿論金も掛かっただろう。
 とても貰えない、という気持ちが頭をもたげる。
 同時に、貰わないでどうする、という気持ちが沸き上がる。
 悩んで、結局受け取ることにした。
 両手を掲げ、恭しく頂戴する。
「……差額は、体で払います」
 陸遜が横目で睨んでくるのが分かった。
 オタクにありがちな大袈裟な表現は、一般人のみならず陸遜をもドン引かせるらしい。
「ありがとね。大変だったでしょ」
 逃走準備をしながら、これ程大掛かりな代物を作っていたのだ。
 大変でなかった訳がない。
 しかし、完は黙ったまま首を振る。
 薄く笑ったその顔を見ると、修羅場の最中でもほっとしたものだ。
 最も頼りになる、そして信じられる友達の顔だった。

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