靴を履く完の背中を、は見ている。
 妙に切ない感傷が胸を締め付け、泣いてしまいそうだった。
「……ホントに見送らんでいいの?」
 せめて駅まで、というの申し出は、けんもほろろに断られた。
「二日酔いだろ。休んどけ」
 それはそうだが、見送りに支障がある程ではない。
「うちの連中が揉めてるったって、あいつとか取り巻きとかがうろついてないとも限んないし」
 ここ最近、ただでさえ結婚しろ身を固めろと責め立てられていたせいで、さくらと他の親族の仲はあまり良くないらしい。
 あんな騒ぎの後だから、家に帰っているかどうか、帰っていたとしてもすぐさま逃げ出してない保証もなかった。
「……結婚?」
 学生の身分で、結婚を急かされるなどということがあるのだろうか。
 余程の良家か何かなら分からないでもないが、正直なところさくらからはそんな印象を受けた覚えがない。
「あれ、言ってなかったっけか」
 の戸惑い顔に、完が首を傾げる。
「あいつ、とっくに三十路入っとるで」
「は!?」
 しかし、一昨日出会った際は、制服を着て大学生を名乗っていた。
 どういうことだ。
「制服の大学生なんて、聞いたことないわー。居たとしても、あいつの場合は脳内設定だから」
 着ていたのも、本物の制服ではなくコスプレだろう。
 言われてみれば、感じた違和感はそのせいかとすんなり納得出来る。
「サービスのつもりだったんじゃね。あんな時間に、私の為にご苦労様ーってなノリで」
 それは、サービスになるのだろうか。
 頭が痛い。
 初めて会った時のことを思い出す。
 『お姉ちゃん』呼ばわりされた完が、どうも渋い顔をしていたのは、年上に姉呼ばわりされるという嫌がらせを受けていた為か。
 自分が嫌われた訳ではなかったと分かって、改めて安堵する。
 そして、そんな人と一緒に居なければならなかった完への同情も深まった。
 ふと気付く。
「え、まさか」
 完が自嘲する。
「まさか、サークルまで乗っ取りされ掛けてた、とか?」
 何とも言えない。
 完のサークルは個人サークルで、ずっと完一人でやってきた。
 表立っての交流は少なくとも、隣のサークルだのスタッフだの、固定客だのといった人達との遣り取りは、すべて完がしてきた次第だ。
 だからこそ『まさか』と思ったのだが、完は否定しなかった。
 現実はもっと悲惨だった。
「……され掛けたというか、されたわ。つか、周りの人間は、私が乗っ取り犯だと思っとるわ」
「はぁ?」
 あの日、初めてイベントに顔を出したさくらは、隣にいたサークルに『初めまして』と『いつも売り子がお世話になってます』的な挨拶をぶちかましたのだそうだ。
 呆気に取られる完を置き去りに、自分がいかにイベントに出たかったか、それが叶わず売り子に負担を掛けることがいかに心苦しかったか、滔々と語り続けたそうだ。
 ようやく気を取り直した隣人サークルが、完を指して『こちらの方が完さんではないんですか』と問うたところ、実に自然にはっとして、完の顔をまじまじ見詰めた後に黙り込んでみせる。
 悲しげに俯くさくらに、反論しない完。
 軍配がどちらに上がるかは、言わずと知れたところだった。
 反論するべきだったのかもしれない。
 けれど、こうなることは家を出る前から分かっていた。
 否、さくらがイベントに行きたいと言い出し、母親から連れて行くようと命令された時に決まっていたことだ。
 完は、諦めた。
 諦めても滲む悔しさを見られぬ為に、スペースを後にした。
 と出会ったのはその時だ。
 すぐに帰るように促した以上、さくらを足止めしなければならない。
 覚悟を決めて戻ると、さくらはスペースの片付けを済ませて完を待っていた。
 話し合いが必要みたいだから、今日は帰ろうという立派な理由まで携えていた。
 場を辞していた間に、隣のサークルはさくらに取り込まれたのが、目付きで分かる。
 さくら本人でさえ騙される嘘だ。
 リア充慣れしていないオタクなど、赤子の手を捻るより容易かろう。
 それでも、時間は何とか稼がなければならなかった。
 完のあがきは、結局、完を完全な乗っ取り屋として成立させ、との望まぬ再会を手助けする結果にしかならなかったのだが。
「それじゃ……」
「まあ、しばらくはそれどこじゃないしさ。そんな気にもなれないし、丁度いいわ」
 の身の内に、苦いものが込み上げる。
 一方的過ぎて、あんまりだ。
 そんなの心根を見透かすように、完はただ笑う。
「いいじゃん、お前もしばらくはイベント行き難いだろうし、お前いないんじゃ私もイマイチつまんないしさ。しばらく隠れてりゃ、あいつも忘れるよ」
 諦める、ではなく、忘れるという辺りが正直薄ら寒い。
 さくらの記憶にある限り、粘着され続けるというのと同意ではないか。
「でも、陸遜のこと忘れるとか、あるかな」
 現時点でもかなりの粘着をしている。
 陸遜に固執し過ぎて整合性のあっただろう嘘が綻びが生じ、取り巻きの男達が動揺するのを目の当たりにしたばかりだ。
 生半なことでは、忘れてくれそうにない。
「あー……でも、あいつが粘着してたの、むしろお前だと思う」
「私?」
 ん、と完は面倒臭そうに首を振った。
「あいつ、自分が羨ましくなるのが死ぬ程嫌いなのね。だから、お前がどうこう言うよりかは、自分が妬ましくなる相手が存在してるのが許せないんだと思うわ」
 何という面倒な存在だろう。
「こっちの世界じゃ陸遜も、連れ回すには良くっても、金ないしな。あっちの世界ならともかく、こっちの陸遜は無職だもん」
 かてて加えて、さくら自身も無職なのである。
 働きに出るつもりがないだろうことは、生活を共にしていれば聞かずとも分かる。
 完にすら小遣いをせびるような人間が、誰かに奢ってやるつもりなどある訳がない。
 陸遜が金持ちなら話は別だが、の家に居て養われているらしいと知っている時点で、粘着対象からは外されたと思われる。
 外れていなくとも、物理的に手が出ないところへ逃げるのだから、さくらにはどうしようもない。
「とりま、あんまり遠出しないようにしとけ。生鮮食品はともかく、保存食系だっら取り寄せ出来るのも多かろ」
 二十四時間営業と値段の両方にこだわらないのであれば、別方向に小さいスーパーや商店街もある。
「ん、分かった」
 会話が途切れ、鈍いもさすがに察した。
 別れの時が来たのだ。
 完は踵を返し、玄関の引き戸を静かに開けた。
 その手が止まる。
「……、あのさ」
「うん」
 完は、を振り返る。
 首を傾げて話の続きを促すも、完は何事か躊躇っている。
「何?」
 更に促すと、ようやく口を開いた。
「……携帯、一応持ってけば?」
「携帯? あっちに?」
 蜀に一台置いて来ているのを、何となく思い出した。
「何で?」
 使えるとも思えない。
 何せ、世界が違うのだ。
 とはいえ、試したことはない。やってみる分には、損はなかろう。
「……分かった、向こうに行ったら、掛けてみる」
 の答えを聞いて、完は笑った。
「じゃあ」
「うん、またね」
 完は、出て行った。
 ガラス越しに見えていた影もすぐに消え、見えなくなる。
 知らぬ間に溜息を吐いていた。
 空気が寒々しく感じられ、二の腕に手を回す。

 それまで口を噤んでいた陸遜が、声を掛けてくる。
「訊きたいことがあるのですが、良いですか」
「ん?」
 振り返った先にいた陸遜は、笑みを浮かべた修羅と化していた。
 思わず逃げ腰になるだったが、陸遜が先手を取って肩に手を回している。
「……体で払う、とは、どのようになさるのでしょうか」
「は?」
 予想の埒外からの問い掛けに、頓狂な声を上げてしまう。
 陸遜は深い溜息を吐くと、とびきりの笑顔を見せた。
 しかし、その目は笑っていない。
「昨夜から、気になって気になって、仕方ありませんでした」
「いや、それはその場でツッコんでおくの推奨」
 の茶化しは陸遜の耳には届かない。
 有無を言わさず抱き上げられると、玄関から家の中へと連れ込まれる。
 勢い付いたターンに、は色気のない悲鳴を上げた。
 陸遜がほくそ笑む。
 何か意地の悪い真似をされそうだと、は身震いした。
 ふと、陸遜が真顔に戻る。

 どきん、と鼓動が大きく跳ね上がる。
「出口が、開きました」
 が発つ時が来たのだ。

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