と陸遜は並んで台所に立っている。
 出口が開いた、では帰ろうとならなかったのは、偏に買い込んだ食材のせいである。
 昨夜の呑みの際、幾らかつまみとして調理・消費はされているが、気合を入れて買い込んだだけにその程度ではなくならない。
 もしまた戻ってくることがあって、その時どのくらいの時が経っているのか見当も付かない訳だ。
 つまり、買い込んだ食材が大層な状態になる可能性がないとは言い切れず、想定される惨状は、避けられるものなら避けたい類のものだった。
 ではどうしたものかという段になり、消費するしか手立てがないとくる。
 食べずに捨てるのは勿体ないということので、明後日のごみの日までに食べ切ってしまおうということになったのだった。
 買い込んだと言っても、一人で買い込んだ代物である。
 腐らないもの、痛まないものを除けば、豪勢ながら何食分かの量で済む。
 帰還を促す陸遜に頭を下げ、以上の理由で延期を願った。
 今日明日は死ぬ気で料理に取り組まねばならない。
 決死の覚悟で台所に立ったの隣に、何故か陸遜が居た。
「向こうに戻ったら、こんな機会もないでしょうから」
 そうして、二人並んで料理をしている。

「……陸遜、料理上手だよね」
「火を使いますからね」
 それはどうなんだ。
 の背中に、人知らず冷や汗が流れる。
「……火、好きだよね」
「はい、大好きです」
 普通はそんなに好きになるものでもないと思う。
 というか、台所でする会話として適切とは思えない。
「この世界は、便利なものが沢山ありますよね」
 コンロの火を付けながら言うもので、話が頭に入ってこなくなる。
も、あちらの世界では不便が多いでしょう」
 炎を見詰める陸遜の瞳の中にも、青い色が揺らめいている。
 美しくも異様な光景だ。
 だからこそ余計に、目を奪われる。
「でも、には私がいます」
「う、うん……」
「足りない分は、私が補います」
「うん……」
「私が、ずっとを支えます」
「…………」
 炎がガスを糧に燃える、微かな音が響く。
「……聞いてますか?」
「え、あ」
 陸遜は溜息を吐くと、の頬を捻り上げた。
「いひゃ! いひゃひ、いひゃいよ、ひふほん!」
「聞いてないからいけないんです」
 ぱっと手を離し、陸遜は料理の続きに没頭し始めた。
 仕方なく、も料理に戻る。
 本当は聞こえていた。
 けれど、何と返事をしていいか分からなかった。
 は蜀の人間であり、呉に滞在はしているものの、だからといって優先して陸遜と共に居られるとは思わない。
 それが許されるのは、陸遜がにとって『唯一の人』となった時だけだろう。
 周囲の状況からして、確率はかなり低いと言わざるを得ない。
 何より、にその覚悟がない。
 お願いしますと気軽に頭を下げることは出来なかった。
「分かってます」
 ぼそ、と陸遜が吐き出した。
 またも見透かされたかと、は飛び上がりそうになるのを耐えた。
「ここで返事をねだるのは、卑怯だということくらい。……ですが」
 言わずに居られなかったことを、どうか許してほしい。
 火だけを見詰めて、陸遜は一気に吐き出した。
 深い溜息に煽られて、青い火は大きく揺れる。
 嘆き悶える陸遜の心が具現化されたようにも見えて、申し訳なさに身が竦む思いだ。
「……陸遜は、もう、支えになってるよ……」
 それだけ言うのが精一杯だ。
 自分の方こそ、卑怯だと思う。

 陸遜が、囁くようにを呼ぶ。
 おずおずと振り返れば、変わらず火を見詰めている陸遜の姿がある。
 ゆっくりとを振り返った陸遜の顔は、強張っていた。
 怖い。
 怒らせたろうか。
 当然だと思いながらも、泣きそうになっている。
 やはり、卑怯なのは自分だと思った。
「……聞いてたんですか」
「え、え」
「先程の。私の話、ちゃんと聞いていたのではないですか」
 わずか数分前の会話を思い出し、そうか、そうなるか、自分でバラしてるわと初めて気付く。
「あ、聞いてた、聞いてた。あの、ごめん」
 陸遜の顔が見る見る渋くなる。
 ごめん、と繰り返すを見詰め、再度の溜息を吐いた。
 炎が長い間横倒しになびく。
 気持ちは焦るが、どうしようもない。
 あわあわしながら、陸遜の小言なり叱責なりを待つしかなかった。
「……
 陸遜が、コンロにフライパンを置く。
 苛立っているのが、乱雑な仕草に映されている。
「戻ったら、私のことは伯言とお呼び下さい」
 思い掛けない申し出に、息を呑む。
「……返事は」
「あ、はい……」
 動揺したままのの返事に、気に入らないのか陸遜は鼻を鳴らす。
「私の為に時間を取って下さい。たまに、でも構いません。ですが、私がお願いした際には、なるべく前向きに」
「うん」
 こくこく頷くも、陸遜はむっつりと口を閉ざしてしまった。
 返事は『はい』でなくてはならなかったかと、反省する。
 だが、陸遜が黙ったのは別の理由からだった。
「戻ったら」
「はい」
 しばらく間が空いた。
「……一度……私と、夜を共にして下さい……」
 見えない衝撃がを襲う。
 意味が分からないなどと、言うつもりはない。
 体が急に熱くなり、顔が焼けるようだ。
 とにかく、熱い。
 ぐいと手の甲で顔を拭うと、本当に汗を掻いていた。
 はっとした。
「陸遜、フライパン!」
 熱し過ぎたフライパンから、白煙が立ち上っている。
 陸遜も慌てふためき、急ぎガスを止める。
 勢い、二人は顔を見合わせた。
 陸遜の顔が朱に染まり、ぱっと伏せられる。
 可愛いなぁと思ってしまった。
 この可愛い人に求められる自分は、幸せ者だと思う。
 幸せ過ぎて、罰が当たるに違いない。
 は、陸遜の隣に寄り添い、その肩に額を乗せる。
「私で、ホントにいいのかな」
 自分には本当に勿体ない、最高の男達に求められ、迷い続けている。
 そんな自分を好きでいてくれることが、申し訳なくもあり、正直なところ自慢でもある。
――性格悪っ!
 羞恥に駆られて顔を上げると、激烈な痛みと共に目の中で光が走った。
 涙目で頭に手を当て、前を見遣ると、そこには同じく側頭部に手を当てしゃがみ込む陸遜が居る。
 やってもうた、と、は一気に青ざめる。
 雰囲気よろしくを抱き寄せようとした陸遜に、頭突きのクリーンヒットを食らわせたとしか考えられない現場だった。
 どうしたらいいものか。
 狼狽は盛大な空回りを促すばかりで益にはならず、事態の解決には程遠い。
 柳の如くにゆらりと立ち上がる、無言の陸遜は悪鬼羅刹の権化にしか見えなかった。
 凄まじい痛罵にも、言い返す由もない。
 ただただ叱られ、ぺこぺこ謝り倒すだった。

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