完は、とあるアパートの一室にいた。
 手持ちの荷物は極僅かで、整理も何もない。
 今は、生活するのに何が足りないか、どれを揃えれば当座をやり過ごすのに足りるのかの計算に頭を悩ませている。
 と、ドアを叩く音がする。
 背中に寒気が走り、体の芯が冷えていく。
 チェーンを掛けたまま、恐る恐るドアを開くと、影からひょいと顔を出す者がある。
「急に、ごめんなさいねぇ」
 人懐こい笑みを浮かべ、老婆が立っていた。
 このアパートの大家だ。
「貴女のお名前、ねぇ、何だか、汚れだかで擦れちゃってて、ねぇ。申し訳ないんだけど、もう一回、教えてくれるかしら」
 ほっとした。
 自嘲を笑みに偽装して、何事もなかった風を装う。
 あいつらに見付けられるかもしれない、連れ戻されるかもしれないという恐怖は、きっと長い時間自分を縛り続けることだろう。
 だが、今は自由だ。
「あ、名前、でしたね」
 顔の筋肉が、少しずつ解れていくのが分かる。
「私、です」
 首を傾げる老婆の手から、ペンと紙を受け取る。
 擦れて見え難くなった文字の上に、再度、自分の名前を書き込んでいく。
――
 私、あんたと同じ名前なんだ。
 最後に、言おうかどうか悩んで止めた。
 告げることで、に気付かれることが怖かった。
 嫌だった、と言うべきか。
 は、『』の秘密を読んでしまった筈だ。
 馬岱への抑えきれない想いを読まれてしまっては、真正面から向き合える自信がない。
 何より、もしもが『』の存在に気付いたとすれば、決して置いていってはくれなかったろう。
――会いたいです、馬岱様。
 そして、こうも思う。
――でも、あなたの世界に行くのは、とても、とても怖いのです。
 戦が当たり前に身近に存在する世界に、当たり前に身近に死がある世界に、どうしては、ああも容易く腰を上げられるのだろう。
 羨ましい。
 妬ましい。
 だから、憧れる。
 憧れることで、彼女には決して敵わないと知らしめられる。
 知らしめられるからこそ、嫌いにはなれなかった。
 こんな世界でも、『』にとっては捨て難い、馴染み深い世界だ。
 彼女は捨てられる。
 けれど、自分は捨てたりしない。
 良くも悪くもない。
 彼女と自分の、これが差だった。
 もう一つ、ある。
 誰も彼もがを慈しみ愛する世界で、馬岱は、彼はどうなのだろう。
 もし、馬岱でさえもを選ぶ世界だとしたら、自分は、どうしてそこに居るのだ。
 あちらの世界で愛する人を、馬岱を失う恐怖は、想像を絶する。
 怖い。
 どうしたって行かれない。
 だから、『』はこの世界に残るのだ。
――会いたいです。でも、とても会いには行けません。
 迎えに来てほしい。
 有無を言わさずさらって欲しい。
 自分が臆病で、卑怯だからだ。
 首を傾げたの顔が、思い浮かぶ。
――あんたは、頑張れ。
 自分の分までとは言わない。
 の分を、が出来るだけ、頑張って欲しい。
「そう、さんというの」
 老婆は、ペンと紙を受け取ると、にっこり笑った。
「良いお名前ね」
 口の端が自然に緩む。
 たぶん、久し振りに、自己嫌悪に陥らないで済む笑みを浮かべているのだろう。
「はい」
 理由もなく自制しなければいけない気がして、そんな自分に苦笑いする。
「私もこの名前、好きなんです」
 自分で書いた自分の名に、友人の顔が浮かぶ。
 いつの間にか、笑っていた。

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