カードの再発行手続きは、比較的早く済んだ。
 予めネットで手続きを済ませたことと、印鑑と通帳があったのも大きかったようだ。
 携帯の紛失手続き及び再発行手続きもスムーズに進んだ。ただ、新しい携帯への移行には時間が掛かるらしい。
 平日にも関わらず店が混んでいることもあって、は一旦外に出ることにした。
 さてどうするかと、何気なく通りを見遣る。
 目を引かれた看板に、は足を進めた。

 無事に新しい携帯を手に入れることが出来たは、早速完の携帯番号を登録することにした。
 前の携帯はあちらに置いて来てしまったので、データを移し替えることが出来なかったのだ。
 一件しか登録されていないメモリに、何とはなしに寂しさを感じる。
 積み上げて来たものをすべて失ってしまったかのような、得体の知れない不安だった。
 考えてみれば、携帯には今までの交友関係が詰まっていた訳だ。
 大袈裟かもしれないが、携帯番号とアドレスを交換することで初めて、知り合った証になるように感じていたようだ。
 既に、掛けない、掛かって来ない相手も相当に居たけれど、それはそれでの『歴史』である。
 ならば、と、ふと考えた。
 携帯のメモリが出会いの証であるなら、趙雲達との出会いの証は何に求めたらいいのだろう。
 彼らと離れたのは、たった一日前のことである。
 だというのに、の中では『過去のこと』と整理されつつある。
 過ぎればすべては過去になるとはいえ、過ぎ去った過去のように、完結した記憶になりつつあるのが酷く恐ろしい。
 クラクションや雑踏の途切れない世界に在って、風のそよぐ音すら鮮明な『あちらの世界』を鮮明に感じることは難しかった。
 見上げれば、空の色も形さえも違う。
 ビルに区切られるように存在するあの空には、本当は果てがないことさえ忘れてしまいそうだ。
 彼らは、の体に己を刻むことさえ出来なかったのだ。
 それをは悲しいと、けれどほっと安堵もしていた。
 陸遜さえ居なければ、忘れきることさえ出来たかも知れない。
「……あ」
 完に電話をしておこう、と不意に思い立った。
 早めに出たことは出たけれど、それなり時間が経っている。携帯のデジタルは、既に昼過ぎを示していた。
 登録したメモリを呼び出す。
 ワンコール鳴り終わる前に、相手が出た。
『もし』
 あまりの早さに驚き、言葉に詰まる。
「……あ、あの、私。分かる?」
『分かるも何も。登録してあるんだから、普通に名前出るよ。番号、変えた訳じゃないんでしょうが』
 そういえばそうだ。
 携帯の使い方を忘れている辺り、向こうに居た影響が出ているのだろうか。
 軽い自己嫌悪が反対に落ち着きを呼び冷ましたようで、は平静を取り戻した。
「んっと、一応銀行の方も手続き終わったんで、一旦家に帰るよ。お昼、どうした? 食べてないなら何か買って帰ろうか」
『助かる』
 簡潔な返事のお陰で、話がさくさく進む。
 こんな完相手であれば、恐らく陸遜も理解が早いに違いない。
 改めて納得した心持ちで、は携帯を切ろうとした。
『あ、待って。陸遜に変わるから』
 ごそごそと音がして、誰かが携帯を耳に当てている気配がする。
 戸惑っているのが、息遣いのせいか伝わってきた。
『……あの』
 陸遜だった。
「あ、陸そ……」
 陸遜の名を呼び掛けて、は慌てて自らの口を押さえた。
 こんな街中で陸遜の名を出して、誰かに聞かれたらと慌てたのだ。
 出掛ける前に完と交わした遣り取りを、は忘れていなかった。
 成程、『完と関わること』で陸遜の名を出す機会は、ぐっと増えてしまうものらしい。
「……私です。分かりますか?」
 携帯の向こうで、陸遜が息を飲むのが分かる。近くで、『どこにも隠れてないよ』と完が突っ込むのが聞こえて来た。
 どうやら、完は陸遜に『文明の利器』というものを教えているらしい。
『これは、どんなからくりなのですか!?』
 妙に興奮したような声が、携帯から響き渡る。
 声が大き過ぎて、周囲にもだだ漏れだ。
 通話口を押さえてきょろきょろと辺りを伺うが、ちらりと視線を向ける人は在れど、ほとんどはに無関心を装って通り過ぎて行ってくれる。
 こんな時は、現代人の薄情さも却って有難い。
 の心情を汲み取った訳ではあるまいが、漏れていた声がぴたりと止まった。
『……もし、?』
「あ、もしもし」
 通話相手が陸遜から完に変わり、ほっとして携帯を耳に当て直す。
『お昼なんだけど、陸遜が食べたことないような奴にしてもらえる?』
「え……あ、うん、いいけど……」
 陸遜が食べたことのないもの、という奇妙な指定に、一瞬考え込んでしまったが、よくよく考えればそんなものは幾らでもある。
 心当たりを頭に思い浮かべながら、帰り道のルート計算をしていると、『じゃ、よろ』との短い言葉で携帯が切られた。
 も通話を切り、携帯を鞄に仕舞う。
 新しい携帯はかなりの薄型で、壊してしまいそうな不安に駆られる。
 ストラップでも付けようかな、と顔を上げ、はあることを思い付いた。

 が帰ると同時に、陸遜が飛び出してくる。
 何事か言う前に、その背後から顔を出した完が先に声を上げた。
「おかー」
「ただー」
 後半二文字を省略した出迎えの挨拶に、やはり後半二文字を省略した帰宅の挨拶を返す。
 間抜けな挨拶に勢いを殺されたか、陸遜は何も言わず、を通す為に壁際に寄った。
 が、は陸遜の横を通り過ぎずに持っていた紙袋を突き出す。
「お土産」
 陸遜の目が丸くなる。
「わ、私に、でしょうか」
 他に誰が居るのか。
 何を戸惑っているのか分からず、は首を傾げる。
「お前一人で行かせたろ。付いて行っても、却って足手まといだっつって。そんで、不貞腐れてたんだよ、だから」
「不貞腐れてなど、いません!」
 声を荒げるも、顔を赤くしていたら白状したも同じだ。
 が笑うと、陸遜はますます顔を赤くした。
「後で使い方、教えてあげる。色、赤で良かった?」
 陸遜は、が何をくれたのか分からないようだ。いいとも悪いとも言えず、きょとんとしている。
 うろたえたように立ち尽くす陸遜を急かして、炬燵のある居間に向かう。
 昼食用に買って来たのは、『陸遜が食べたことのないもの』というリクエストに応えて、サンドイッチにした。人数分のポテトにコーンスープ、デザート代わりにマフィンとクッキーを数種類と、三人前にしても多い量だ。余りこそすれ、足りなくなることはあるまい。
「お腹すいたでしょ」
 コーヒーは未だ無理だろうと判断して、紅茶を淹れる。
 と言っても、ティーバッグの安い紅茶だ。
 不揃いのマグカップにティーバッグを沈めたまま戻ると、完が炬燵の上にサンドイッチやポテトなどを並べておいてくれていた。
「どれがいい?」
 サンドイッチはそれぞれ挟まれた具材が違う。
 初めて見る食材に、陸遜はただ戸惑っているようだ。結局、完が適当に選んだ。
「いただきます」
 と完が、揃って手を合わせるのを見て、陸遜も二人を真似る。
 遅い昼食が始まった。
 二人の食べる様にならってサンドイッチを齧った陸遜は、何故か眉を寄せる。
「……どうしたの?」
 が目敏く見咎めると、陸遜は困ったように首をすくめた。
「いえ、あの……」
 妙に口の重い陸遜に首を傾げていると、完が一人言のように呟いた。
「化学調味料で、舌が痺れるんだろ」
 は目を丸くした。
 趙雲にも色々と食べさせたが、化学調味料など気にした試しがない。
「……そうなの?」
 陸遜に向き直ると、陸遜は恥ずかしげに頬を染めた。
「少し……ですが、食べられない訳ではありません」
「毒じゃあないから、安心しなさい。何なら、私かの食べ掛けで良ければ交換するから」
 完が勝手に言い出したことではあるが、も異議はないので素直に同意する。
「変える?」
「い、いえ。このままで、結構です」
 矢庭に勢い良くサンドイッチを頬張り出す。
 むせないようにと注意しつつ、はぼんやりと考え込んだ。
 何も気にしていなかったつもりはないが、趙雲に対して気遣いが足りなかったかもしれない。
 サンドイッチどころか、カップラーメンなどのインスタント食品、つまりは化学調味料の固まりを平気で食べさせてしまっていた。
 陸遜の舌が痺れると言うなら、趙雲の舌だとて痺れていたに違いない。
 悪いことをしてしまったと、思い返していた。
 呆けているに完が声を掛けてきたので、そのまま趙雲の話をする。
「もうちょっと、気を配って上げれば良かったかなぁと思って」
「出されたものに文句付けるようなタイプじゃなかったんだよ。でなきゃ、よっぽどのことを信頼してたかだな」
「わ、私とて、殿を信用していない訳では!」
 陸遜が真っ赤になって抗議する。
 けれども、完が動じることはない。
「じゃあ、やっぱり胆の座り方が違ってたってことじゃないかね」
 今度は、陸遜の眉が吊り上がった。
 先に趙雲がここに居たことに対して、妙に対抗心を抱いているように見える。
 それまで無表情に食事を続けていた完だったが、食べるのを止めて陸遜の方へ目を向けた。
「携帯ごときではしゃいだり、普通に食べたり飲んだりしてるもんに違和感感じたり。そんなんで、目立たずに居られると本気で思うんか」
 険しい口調に、陸遜の表情が強張る。
 完は、気にせず言葉を続けた。
「守るって、腕力に訴えたって駄目なんだって、分かった? 知恵で守るったって、未だここの世界のこと、何にも分かってないじゃん。字だって読めないのに。そこんとこ自覚なかったら、にだらだら迷惑掛けるだけだ」
 どうも、が居ない間に何やらやりあっていたらしい。二人の間に険悪な空気を感じて、は密かに冷や汗を掻いていた。
「しかし、趙雲殿は、殿とずっと行動を共にしていたのでしょう?」
 苛立ったように陸遜が言い返す。
 の口が、思考より先に動いていた。
「してないよ」
 沈黙が落ちる。
 は、自分が言った言葉の思い掛けない強烈さに驚き、慌てた。
「いや、あの……子龍でしょ。子龍、こっちに来てからしばらくは、ずっと引き籠ってたよ。私、そん時は仕事でほとんど毎日、外に出てたし……でも、守るだのとか言われたこともないなぁ。むしろ、すんごいマイペースでこっちを翻弄する方だったよ」
 文句はほとんど言わないが、自分がこうすると決めたらまず譲らない。ごり押ししてまかり通る。
 それが、この世界の趙雲の過ごし方だった。
「陸遜には、子龍の真似はして欲しくないなぁ……説明しないし、強引だし、謝らないしで疲れる」
 危うく処女まで奪われ掛けたとは、完の前でなくても言える訳がない。
 疑わしげな視線でをじっと見詰めていた陸遜も、心の底からげんなりしたの表情に、ある程度は信用したようだった。
「そうなんですか……」
「うん、そう。あ、そうだ、陸遜、これ。これ、陸遜の携帯ね」
 下手に自爆するのを避ける為、話題を逸らそうと先程の袋から箱を取り出し、開けて見せる。
 中には、艶やかな光沢を持った、赤い携帯が納められていた。
「後で使い方教えるからね。完の携帯も、登録しといていい?」
 完が頷くのを見て、は携帯を取り出す。
 陸遜の前に置くと、陸遜は恐る恐る携帯を押し戴く。
「あの……よろしいのですか?」
「ん? いいよ。携帯あった方が、便利だしね。街に出てはぐれちゃったら、これで連絡取れるし」
 の言葉に、陸遜はパッと完を振り返る。
「じゃあ、早くこっちの世界に慣れないとな」
 無表情に呟く完だったが、口元は笑っている。
 陸遜の晴れ晴れとした笑みに、は思わず見惚れていた。

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