貴方のことが分からない。だからここから逃げ出したい。
 でも、何処へ?



 震える指で鍵を外すと、趙雲はごく平静な様子で中に入ってきた。
 いつから居たのだろうか、趙雲が纏う空気はひんやりとして、長い時間が経っていることを窺わせていた。
 趙雲が不意にに手を伸ばす。叩かれるのかと怯えて竦むの髪を優しく撫で、微笑を向ける。
 趙雲の考えていることが、分からない。
 目の奥をじっと覗き込むが、黒々として深い眼からは何の感情も見出せなかった。
「私は孫策殿と少し酒を呑むから、は白湯を持ってきてくれないか」
 遠回しに人払いを命じられ、は逡巡しつつも大人しく趙雲に従った。
 が立ち去った後、趙雲は孫策に向き直った。
 孫策は、牀の上で胡坐をかいたまま、ふてぶてしく趙雲を見ていた。
 二人は互いに無言で、ただ視線を激しくぶつかり合わせた。
「……孫策様、こちらへどうぞ。粗末なものですが、酒肴を用意させておきました故」
 趙雲の申し出に、孫策は鷹揚に頷き、簡単に身なりを整え趙雲の後を追った。
 続きの間の隣室には、心尽くしの酒肴が用意されていた。
 慇懃に頭を下げ、上座へと孫策を案内する趙雲を一瞥し、孫策は乱暴に椅子に腰掛けた。
 趙雲は孫策が腰掛けたのを確認してから、静かに椅子を引きそれに習う。
「……なんで、入ってこなかった」
 静かな、それでいて怒気を孕んだ孫策の声音に、趙雲は返答せずにただ薄く笑った。
「気にいらねぇな」
 ぺっと唾を吐き捨て、孫策は趙雲を睨めつけた。
「お前、の男なんだろうが。何で、俺がいるのが分かっていて入ってこなかった。何で俺を叩き出してを守ろうとしなかった。てめぇのその槍は、ただのはったりか」
 趙雲の口元は涼やかに微笑んでいるが、眼には凍える殺気が漲っている。
「私は蜀の武将。それゆえでございます」
 言ってることがわからねぇ、と孫策は唸るように吐き捨てた。
「お前、に惚れて、今日抱きに来たんじゃなかったのかよ。それともあれか、が勝手にお前に惚れ込んでるとでも言いてぇのか」
 趙雲は杯を満たし、孫策の前に押しやった。自分の為にもまた、杯を満たす。
「よろしゅうございましょうか」
 前置きし、杯を一気に空ける。深々と溜息を吐くように腹から息を吐く趙雲に、孫策もまた杯を干す。趙雲は、孫策の杯と己の杯に酒を満たす。
「私は蜀の武将です」
「それはもう、聞いた」
「武将であるが故、国が大事、主が大事。貴方には、お分かりいただけますまいな」
「あぁ、わからねぇ」
 率直な孫策の言葉に、趙雲は苦く笑った。
「例えて申し上げるなら、尚香様と、一人しか救えぬとしたら」
 む、と孫策は唸った。
「私は迷わず尚香様をお救いいたします……蜀と呉の同盟に重きを置く故です」
「……はどーすんだ」
 幾らか複雑な面持ちに代わり、それでも孫策は趙雲を睨めつける。
「置いてかれるはどうすんだ。あんな弱ぇ、すぐ泣く女、お前本気で置いてくつもりか」
「置いていきまする」
 きっぱりと趙雲は言い放つ。
「仮に、のみを助けても、は私を責め、自分を責め、心を殺してしまうでしょう。あれは、頑なな女なのです」
 おや、と孫策は密かに驚いていた。趙雲の言葉に、何処か切なげな、愛しげな響きを感じ取ったのだ。
「……お前も、俺が同盟嵩に着て、を無理やり犯すとか思ってるクチか」
 いいえ、と趙雲は首を横に振った。
「仮に私があの場に罷り出で、や貴方を責めてどうなるのです。外にいる警護の者達は、私の手下ではない。騒動は免れますまい。貴方にその意思なくとも、同盟に何がしかの影響が出るのは間違いない」
 趙雲の目は暗い。
「……も、そのまんまってことにはならねぇな」
 察しの悪い孫策にも、それくらいは見当がつく。
「だけどよ、だからって外で見張っているなんざ、性質が悪いんじゃねぇのか……」
 趙雲は微かに首を傾げ、ほろ苦く笑った。
 腹の中の見えねぇ男だ、と孫策は思った。何かとてつもなく大きな物を抱えているくせに、ちらとも見せずに隠し果せられる不思議な男だ。
「俺はに惚れてる。呉に連れてくつもりだ」
 微かに趙雲の肩が揺れたように思う。
は承知いたしますまい」
「しねぇな」
 あっさりと同意する孫策の言の裏には、それでも連れて行くという決意の固さが滲み出ているようであった。
「……お前、知らねぇだろ。あいつ、夜、夢見てうなされてんだぜ」
 趙雲は無言だ。うまく隠すもんだな、と孫策は感心していた。
「だから、俺が連れて行く。呉でも、何処でも、あいつを連れて行く。夢なんか見せねぇ。そんなもんで、あいつを泣かせねぇ」
 趙雲相手にを連れて行くと宣言する。孫策にとっては、確かに当たり前のことなのかもしれない。
「お前よ……そんなんで、辛くねぇのか」
 趙雲の堅苦しい生き様に、孫策は息が詰まる思いだ。惚れた女に惚れたと言い、気に入らない奴はぶっ飛ばす。それが孫策にとっての日常だ。ああだこうだと考えるのは、孫策の得手ではない。
 趙雲は薄く微笑むだけだ。
「昔を思えば、これしきのこと」
 澄ました顔で、いったいどう生きてきたのだか。一筋縄ではいかないと察して、孫策は面倒くさげに鼻を鳴らした。
「……それにには、私以外に想いを寄せる男がおります。それもまた、の心を煩わせる因」
 あん? と驚いたように孫策は顔を上げた。
「何だ、あの女、男二人を天秤にかけてるってのか」
 天秤というわけではありませんが、と趙雲もさすがに苦笑した。
「……情が深い、というか。そうですね、我が君主に少し似ているやもしれません」
「劉備にか」
 ははぁ、と孫策は少し考え、ま、似てるっちゃ似てるかも知れねぇな、と簡単に納得した。
 寄せられる想いを無下に出来ず、受け止め、支えようとする様、一人で悩み、迷走する様などは、思いつきとは言え趙雲自身も納得するものがあった。
「あの女、俺にくれよ」
 突然、孫策がそんなことを言い出すので、趙雲は浅い思考から立ち返らざるを得なかった。
「大事にするからよ。俺にくれ」
「お断りいたします」
 即答だった。孫策は、げらげらと笑った。
「おっ前、変な男だな……俺に遠慮するかと思えば、いきなりンな返事かよ」
は、自分のことは自分で決める女です」
 それを覆すことは、自分には出来ないのだと趙雲は笑う。何時の間にか杯が空になり、再度互いの杯を満たした。
「あの女、ホントに変な女だよな。蜀の女は、皆あんななのか? 違ぇよな」
は、特別です。蜀の女ではありません……中原のどこを探しても、のような女はおりませんよ」
 そっか、ますます欲しくなるな、と孫策は笑った。
「お前、何だ、そのもう一人の奴に遠慮してんのか? あの女、ほっとくとどっかの馬の骨にさらわれちまうんじゃねぇか」
「貴方のような、ですか」
「そうそう、言うじゃねぇか」
 孫策は気にした様子もなく、豪快に趙雲を笑い飛ばす。
の夢の原因は、私でしょうから」
 思いがけない趙雲の言葉に、孫策は眉を顰めた。趙雲は、の命を狙った自らの手下の話をとつとつと語った。孫策は、黙って耳を傾けながら、時折何を思ってか視線を彷徨わせた。
 趙雲の話が終わると、孫策はかったるそうに姿勢を崩した。
「面倒な話だな」
 感想というにはお粗末な一言だった。
 杯を煽り、干す。
「面倒だ」
は、面倒ですよ。しきたりや伝統など、何も知りません。普通の中華の人間が知っているようなことを知らない」
「んで、知らないことを知ってたりすんだよな」
 趙雲は、孫策に言葉を遮られて黙った。腹を立てたからではなく、孫策がの本質を見抜いていることを悟らされたからだ。
 孫策は手酌で杯を満たし、一気に喉に注ぎ込んだ。
「だから、か。いきなり大喬のこと言い出したの」
「……の国では、夫も妻も一人と定められている由にて」
 まじか、と孫策は呻く。
「だってお前、そんなんじゃ、もしすげえいい女がいても余っちまうことになるじゃねぇか」
 趙雲も、さして詳しくはないので困惑して黙っていた。
 孫策は一人でははぁだのほっほーだのと珍妙な声を上げている。
「……でもよ。ここは中華なんだから、別にの国にあわせてやる必要はねぇよな。が、自分で決めてここに来たんだろ?」
 その経緯そのものもかなり微妙なのだ。孫策には言っても通じないに違いないので、趙雲は黙った。
「何であの女、あんなにやらしい体してんだ?」
 話が飛びまくる。に通じるものを感じて、趙雲は苦笑した。
「お前、犯ってなくても手は出してんだろ? じゃねぇとさすがにアレは……俺も体が持たねぇ」
 腕組みして真面目に考え出す孫策に、趙雲は何度目になるか分からない苦笑をする。
 は生真面目でお堅い性格をしているくせに、体の方は恐ろしいほど淫蕩なのだ。大いなる矛盾。だからこそ、劉備に似ているような気がしたのかもしれない。
「……まぁ、いいか。俺はを連れて行く。お前が邪魔するってんなら、それでも構わねぇぜ。呉も蜀も関係ねぇ、単純に行こうぜ、単純にな」
 呉の跡継ぎと、蜀の五虎将軍が呉も蜀も関係なく生きていけるわけがない。
 枠に囚われない孫策の生き様は、中華の歴史に重さを感じている人間を惹きつけて止まないのだろう。が惹かれるのも無理はない。
 趙雲がぼんやりと考えていると、が扉の影から恐る恐る中を覗き込んでいるのが見えた。
 手招きすると、重そうな茶器の乗った盆を持ちながら中に入ってきた。困惑したように趙雲と孫策を見比べている。
 孫策は、を認めると人懐こそうに笑い、嬉しげに目を細めた。
、お前、呉に来いよ」
「やだよ」
 即答だった。趙雲も思わず笑ってしまう。
「お前が嫌でも、俺はお前を連れて行くぜ」
 孫策は怯みもせずに断言する。は圧倒されて押し黙った。横目で趙雲を伺うが、崩した相好は既にいつもの無表情な顔に戻っていた。
「……白……孫策……様は、私のこと何にも知らないのに、よくそんなこと言える……ますね」
 苦々しいの言葉に、孫策は一瞬きょとんとした。すぐに、大口開けて馬鹿笑いしだす。
 が口をへの字に曲げると、更にげらげらと笑って見せた。
「お、お前、お前ってホンットに何にも分かってねぇな!」
 可愛いぜ、とどう繋がったのかまったく理解できない言葉がポンと出て、は赤面して動揺した。趙雲に救いを求めて振り返るが、趙雲は無表情に黙ったままだ。孫策は、呆れたように趙雲を眺め回した。
「お前も、食えねぇ男だよな。ま、いっか」
 孫策は勢い良く立ち上がり、牀のある室にすたすたと歩き出した。
「ちょっ……ちょっと」
 何故か明り取りの窓に向かう孫策に、は慌てる。別に扉が開いていないわけでもないのに、どうしてわざわざそこから出ようとするのか。
 明り取りの窓の下は、倒れた卓や椅子がそのままにされていた。それらの前で突っ立ったままの孫策に、卓や椅子が邪魔なのかとは孫策に覗きこむと、どうも違ったらしい。窓枠を見上げている。
「これ」
 窓枠に結わえ付けられたリボンを引き、解いてしまう。は、思わずあっと声を上げた。
「もらっていいよな」
 言うなり、リボンを手に外に飛び出していく。早業だ。
 呆気に取られて見送っていると、後ろから趙雲が覆い被さってきた。心臓に痛みが走る。
「……ごめんね、子龍」
「何を謝ることがある?」
 柔らかな物言いは、だがを拒絶しているのと変わらない。
 は趙雲の腕の中で俯いた。
 趙雲の考えていることが分からない。
 好きな女が他の男に組み敷かれていたのに、何故怒らないのだろう。本当は、好きではないからではないか。そんな風に考えてしまう。
 趙雲の腕が優し過ぎて、は悲しくなった。

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